第9話 刻印の疼きと微睡み
砦から戻った夜、城は、音まで薄くなっていた。
療堂に足を踏み入れた瞬間、セレスは「あ、寒い」と言うより早く、脇腹の奥で熱が芽を出すのを感じた。芽は、指環の根本から伸びる蔓と絡み、血の流れに沿って胸骨の裏へ這い上がる。冷えを嫌う熱。熱を欲しがる痛み。反対のもの同士が肋の下で引き合い、体の地図がゆっくり塗り替えられていく。
「手を洗って、寝台に座れ」
声が近い。
アレクシスだ。
いつもより低い。命令の音ではなく、どこまでいっても命令から逃れられない者の音。
セレスは言われるままに手を洗い、額に手を当てようとして――指先が自分の皮膚の熱を跳ね返すのに驚いた。皮膚と皮膚のあいだに薄い膜が一枚差し込まれたみたいに、触れても“触った”実感が遅れて来る。
「――熱がある」
ガルドの声が廊の端から落ち、すぐに足音が引く。
ダントンは何も言わずに湯と布と薄荷の油を置き、窓を半分だけ開けて出て行った。
ルーメンは、窓辺で腕を組んで立っていた。目が細い。眠いのではない。思考が細いときの目だ。
「刻印の遅延反応だな」
セレスは笑うつもりで、うまく笑えなかった。
「押してないのに、反応するのか」
「押してない、は“押したことがない”とは違う。……指環に“場”を与えたのは、昨日と一昨日、それにその前からの、幾つもの選択だ」
「詩人だな」
喉の奥でからからに乾いた声が出て、途中で途切れた。
からだが軽い気がした。軽いのに、重い。
寝台の端に腰を下ろすと、床の石が遠い。白衣の布が自分の皮膚から浮いている。
自分が、自分から半歩ずれている。
指環が、はっきりと熱い。
熱は金属の熱ではない。波の熱だ。
外から触れた熱ではなく、内側へ向かって収束し、また外へと放射してくる熱。
刻印はまだ押していない。だが、“刻まれつつある関係”は、関係のほうから拍を取りに来る。
「冷やす」
アレクシスが濡れ布を額に置く。
重さはない。冷たさだけが降りてくる。
セレスは反射で目を閉じ、まぶたの裏に、薄い黒い紋を見る。花弁のような、鎖のような、輪のような――見覚えのある配置。
黒い紋は、眠気を伴っているくせに、眠りを許してくれない。
眠る前の縁で、体の奥の“何か”が誰かの呼吸と呼吸を合わせようとする。
彼の呼吸――王の呼吸。
アレクシスの呼吸が近い。
彼の呼吸は深く、そしてわずかに乱れていた。
乱れは、心配が形を持ったものだ。
心配は、治療には役に立たない。だが、支えにはなる。
「解呪を――」
ルーメンが口を開いた。
言葉は乾いているが、手はすでに動いている。
細い金属の輪を三つ、空中に置く。輪は風に揺れない。輪の縁に薄い刻印が刻まれ、三つが重なったところに生まれる空白に、セレスの左手を滑り込ませる。
「“結魂”そのものを解くわけじゃない。刻印が起きる前に発火しはじめた“共鳴”を落とす。――陛下、呼吸を合わせて。半拍、遅らせる」
「半拍?」
「こいつの拍と合わせるなってことです」
ルーメンは初めて、苛立ちを隠さなかった。
「陛下は、すぐ合わせる。合わせるのが癖。でも、今はそれが“火種”になる」
アレクシスは答えず、わずかに背を伸ばしてから呼吸を作り直した。
深さは変えない。速さだけを、半拍分、ずらす。
指環が、抗議のように熱を跳ね上げる。
セレスの胸の奥で、ふっと空気が入る。
肺の底に、薄い痛み。良い痛み。
眠れる痛み。
「喉が乾く」
セレスは言ったのか、思っただけなのか、自信がなかった。
唇に温い水が触れる。
アレクシスの手だ。
杯の縁が滑って、舌が温度を受け入れ、喉の渇きが鈍くなった。
熱は上がる。
熱は下がる。
体は、海だ。
潮が引いて満ち、また引く。
満ち引きの合間に、波の影がある。
影は、昔の声。
――なぜ私を選んだの。
言ってはいけない言葉の形を、うわ言は容赦なく選ぶ。
掴まれているようで、掴んでいる。
セレスの喉から漏れる声は小さい。だが、療堂は静かで、静けさは言葉を拾い上げる。
アレクシスは何も言わない。
言えないのではなく、言ってはいけない“まだの形”を知っている者の沈黙。
ルーメンが横目で王を一瞬だけ見る。
彼は、王の沈黙が“逃げ”ではないことを知っている。
だから、彼はいつもよりずっと不承不承の調子で、輪に新しい符を重ねた。
「王の生命線との干渉――指環の“拍”が、少し強く出過ぎてる。……これは、陛下の側の“癖”でもある」
「私の?」
「陛下の血は、静かに見えて、流れが太い。古い魔王の系譜は皆そうだ。相手の拍を飲み込む力がある。飲み込めば、同調が起きる。早すぎる同調は、刻印の前段階としては“過剰”だ」
「どうすればいい」
「抑える」
ルーメンは短く答え、輪の角度を変えた。
「王の側が。――抑えきれないものは、私が落とす」
そのとき、セレスが小さく笑った。
眠気と熱の狭間で顔の筋肉がゆるむ。
「……喧嘩は、後でにして」
「してません」
二人が同時に返事をし、療堂の空気が一度、軽くなった。
微睡みは、海面に浮かぶ舟に似ている。
舟底の板は薄く、波のかたちが板の裏でそのまま転がり、寝台の軋みと同じ速度で左右へ揺れる。
熱は舟を軽くし、言葉は錨の代わりにならない。
セレスの口から、また言葉がほどけた。
「なぜ――わたし」
誰に向けて、とは言わない。
問いの先は、理由ではない。
出会いでもない。
選択の“芯”そのもの。
芯は、王の記憶の奥にある。
アレクシスは指環の熱を自分の手のひらに移すように、そっとセレスの左手を包んだ。
熱の刺は、自分の皮膚では刺と感じない。
刺は、相手を選ぶ。
刺は、血の記憶に触れる。
「昔」
王は、まるで独り言のように、声を落とした。
「私は一度、命を失いかけた。まだ、陛下と呼ばれていなかった頃。――境界の戦で、瘴気の逆風に当たった。影の翼は、まだ呼べなかった。基礎の術すら怪しかった」
ルーメンが輪越しに、ほんのわずかに顔を上げた。
聞く姿勢。
王が昔を語ることは少ない。
語るとしても、誰かの墓の前か、誰もいない城壁の上だ。
療堂の灯の下で語るのは、初めてだ。
「野営地の端で、私は喉を焼き、呼吸を失いかけていた。誰に手を伸ばしたか、覚えていない。伸ばせたのかどうかも、覚えていない。――誰かが、私の背に手を置いた。『吸うより、吐く』と、その人は言った。私に、吐くことを教えた。舌の裏に香の粉を置き、喉の皮膚を指で押さえ、鎖骨の下に通り道を作った」
セレスの睫毛が、微かに震えた。
眠りの中で、体が、その手順をなぞる。
「その人は、名を言わなかった。顔も覚えていない。私は助かり、戦は続き、やがて戦は終わった。……名も知らない治癒師に、私は一度、命を救われた」
ルーメンは輪へ視線を戻し、手の動きを止めなかった。
言葉は、輪の角度を一瞬だけ正した。
王が誰かに救われたという事実は、城の石には刻まれていない。
刻まれているのは勝敗であり、血の色であり、旗の紋であり、塹壕の位置だ。
救いは、石の裏に染みている。
石の裏は、たいてい、記録庫にも書かれない。
「だから選んだ、と言うのは、嘘だ」
アレクシスは淡々と言った。
「“だから”は、理由の仮面になる。“だから”を置けば、今の選択が軽くなる。私は軽くしたくない。……ただ、私の中のどこかで、あのときの手の温度に似たものを、おまえの手から受け取った」
うわ言の底で、セレスの呼吸が柔らかくなった。
苦痛の山の角が丸くなる。
丸くなった角に、眠りがひっかかる。
眠りは、体を治す。
治すという言葉は便利で、しかし粗い。
治るとは、壊れる前に戻ることではない。
壊れの形のまま、別の均衡に着地することだ。
セレスの体は、別の均衡に向かって滑っていく。
指環の熱は、まだ高い。
だが、熱の周りの空気が、薄く冷えた。
冷えは、痛みを輪郭に戻す。
輪郭のある痛みは、扱える。
夜は長い。
長い夜は、手を動かす者にとっては短い。
ルーメンは輪の位置を何度も微調整し、符の濃度を薄くし、最後に一枚だけ、紙の符をセレスの胸の上に置いた。
「“別拍”」
紙は、呼吸に合わせて微かに上下する。
アレクシスは濡れ布の位置を替え、手袋を外し、自分の指先の温度を確認しながら、水を差し、額の汗を拭った。
王は、雑ではない。
手つきは訓練で覚えたものではないのに、必要な動作の骨を外さない。
誰かを看るという行為の中心にある“間”の取り方が、最初から体に入っている。
深夜を越え、暗がりが群青に薄まる頃、セレスの熱が、一段、落ちた。
指環の熱が、皮膚の温度に近づいた。
それでも、熱の残り香はある。
残り香は、花の匂いではなく、鉄の匂いに似ている。
鉄の匂いは、朝になると薄くなる。
「――下がった」
ルーメンが輪を外し、符を一枚ずつ重ねて封に入れ、封に王印を押した。
「完全ではない。朝の間にぶり返すかもしれない。だが、危険な角は過ぎた。……私は寝る。二刻だけ」
言い残して、彼は窓辺の椅子に倒れた。倒れ方に品がないのは、眠りの質が良い証拠だ。
アレクシスは寝台の脇で、背もたれに寄りかかった。
眠らない王に眠りは降りにくい。
だが、今夜は、瞼が一度だけ、長く閉じた。
閉じた瞼の裏に、名も知らぬ治癒師の背中が、ほんのわずか、古い光で浮かんだ。
その背中に向かって、若い自分が息を吐く練習をする。
吐く、吐く、吐く。
吐けば、入る。
そのときの舌の裏の苦い粉の味は、今も舌の記憶に残っている。
朝、窓の外の光が紙を薄く透かし、療堂の棚の影が少し短くなったとき、セレスが目を開けた。
目は乾いていない。
視線はすぐに焦点を掴み、部屋の輪郭を拾い直す。
「……寝た?」
自分で自分に問うように、彼は言った。
「寝た」
アレクシスが短く答える。
声は、昨夜より低く、柔らかい。
「熱は一度、上がり、一度、下がった。今は、落ち着いている」
「喉が、砂漠」
セレスは笑おうとしたが、笑いは咳に変わった。
咳は軽い。出せる咳だ。
水を飲むと、舌の裏に、ほんの微かな苦味が残った。
「……符の味」
「ルーメンの趣味の悪い粉だ」
王は光の方を一度見て、立ち上がった。
「果物が届いている」
「果物?」
「砦の将から、塩の件を感謝する文。市場の女将から、『冬至の未遂』のお礼に黒果。鍛冶屋から、焼いた乾果。小鬼の一家から、干し葡萄。――療堂の机が埋まるほど」
セレスは起き上がり、胸に薄い鈍痛を感じながら、診療用の机を見やった。
果物が、山になっていた。
赤、黒、褐、灰。
色とりどりの実が籠に溢れ、皮に軽い白粉がふき、匂いが混ざって甘い。
甘い匂いは、記録のインクの匂いと喧嘩せず、部屋を満たした。
「……すごい」
セレスは呆れ、少しだけ笑った。
笑いはまだ、咳の前触れを連れてくる。
「食べる?」
「あとで」
アレクシスは、果物の山を見て、ほんの少しだけ笑った。
笑いは、静かだった。
静かな笑いは、硬い。
硬さは、距離だ。
昨夜の言えなかった言葉が、朝になって、互いの間に薄い板を挟む。
板は厚くない。
だが、板の存在を忘れるには、朝は明るすぎる。
「――“昔日の面影”」
セレスが言った。
声は低く、喉の奥で半分だけ溶けている。
「昨夜、何か、話した?」
アレクシスは一瞬だけ黙り、頷いた。
「話した。半分だけ」
「半分?」
「昔、命を救われた。名も知らぬ治癒師に」
王は、短く語った。
それ以上のものも、それ以下のものも、添えないで。
セレスは頷き、寝台の縁を指で撫でた。
「……そう」
そう、という言葉で終わる会話がある。
終わらせるための言葉ではなく、終わらずに置いておくための言葉。
咀嚼する時間を確保するための“間”の置き方。
二人は、その“間”に、しばらく座った。
外で、靴音。
ガルドが扉を小さく叩き、顔だけ覗かせる。
「起きたか。――よかった」
彼は目だけで笑い、次いで表情を引き締めた。
「城の北壁で、旗の色が変わった。人界の辺境領主が、騎兵を動かしたという報。数は少ない。けれど、火は、来る」
「戦火の影、か」
ルーメンが窓辺で伸びをして、欠伸のほとんどを飲み込んだ。
「噂じゃなく、影そのものが濃くなる。――治癒師、寝ていられるのは、午の鐘までだ」
「寝ない」
セレスは即答し、起き上がろうとして、アレクシスの手に肩を押さえられた。
押さえ方は強くない。
だが、譲らない。
「午まで、寝ろ」
「午まで?」
「午まで」
王は繰り返し、果物の山の脇に置かれた記録紙に目を落とした。
記録紙の端に、ダントンの細い字で新しい告示案が書かれている。
〈病の報は、恐れとともに来る。――恐れの置き場を用意する〉
「恐れの置き場?」
セレスが眉を寄せる。
「読み上げ場を設ける。朝と夕に。城門の前で。瘴気、塩、冬至の件、砦の件。嘘と本当の境目を、紙で示す」
ルーメンが指で紙を弾いた。
「香だけじゃ、熱は下がらない。言葉の温度を下げる場所も作る」
「良い」
アレクシスが頷いた。
「花嫁が城を救った、という噂も、王が花嫁に囚われた、という囁きも、紙に載せて温度を変える」
セレスは枕に頭を戻し、指環に触れた。
熱は、もう“熱”ではない。
残り香。
指の腹で、黒金の冷たさを確かめる。
「刻印は?」
「押さない」
アレクシスの答えは、早かった。
「今は、押さない。――押す時は、押すと言う」
「ありがとう」
セレスは目を閉じた。
眠りは、もう怖くない。
怖くない眠りは、すぐに来る。
来る前に、彼は薄く口を開いた。
「あなたが“半分”話してくれたから、私も半分、話す。……私も昔、名も知らない誰かに助けられた。冬の低地で、火の前で、吐くことを教えてくれた。だから、吐くのが上手い」
目を開けると、王が静かに笑っていた。
笑いは、やはり静かだ。
静かな笑いは、距離になる。
だが、その距離は、昨夜の硬い板ではなく、柔らかい布に近い。
布は、折りたためる。
必要な時に、広げて風から守ることができる。
午の鐘の半刻前、セレスは再び目を開けた。
体はまだ重いが、重さは体の輪郭に従っている。
指環は、ただの指環に見えた。
見えるだけで、ただの指環ではない。
それでも、見えることは大事だ。
見えるものは扱える。
療堂の扉の外は、もう賑やかだ。
果物の山は少し減り、代わりに包帯と薬草の束が棚に揃えられている。
ダントンが読み上げ場の設営のために紙束を抱え、ルーメンは魔術師団へ符の配合を伝え、ガルドは北壁へ向かう準備を短い指示で片づける。
アレクシスは、療堂の灯を一つ、指先で高くした。
灯の高さが変わると、部屋の影が縮む。
影が縮むと、距離の輪郭が変わる。
「行ってくる」
セレスは白衣の袖を折り直した。
「午からは、座って診る。……立ちたくなったら、怒って」
「怒る」
王は短く答え、扉へ向かった。
背に、影の翼はない。
翼は、必要なときのために温存している。
必要なときは、来る。
戦火の影は、濃くなる。
濃くなる影の中で、灯の置き方が試される。
置いた灯が、風で消えないように、紙で風を変え、香で流れを変え、人の手で、名を呼ぶ。
扉が閉まる前、アレクシスが振り返った。
「昔日のことを、全部、話せる日が来るかは、わからない」
「わからないなら、わからないと言って」
「言う」
「それなら、遠くならない」
王は頷き、扉を閉めた。
閉まる音は、重くなかった。
セレスは机に向かい、記録を書く。
〈刻印:遅延反応。拍の干渉:王側の抑制+輪で落とす。夜:看護。言葉:半分。朝:距離、布。戦火:近づく。果物:山。〉
最後に、もう一行。
〈“吐けば、入る”――王と共有〉
外で、読み上げ場の鈴が鳴った。
噂は“場”に座らされ、紙の上で温度を下げられていく。
城の北では、旗の色が変わりはじめる。
南では、市場の子らが甘い果実の皮を器用に剥く。
療堂では、白衣が腕まくりをし、名を呼び、包帯を巻く。
指環は、静かに拍を刻む。
拍は嘘をつかない。
嘘をつかない拍の隣で、人は嘘をつくこともある。
今朝は、誰も嘘をつかなかった。
嘘をつかない朝は、短い。
短い朝を、セレスは胸に入れ、午後のための深い息を一つ、吐いた。
吐けば、入る。
入った空気は、戦火の匂いがする。
それでも、息をする。
息をする者のために、灯を置く。
灯は、置き方で持つ。
置き方は、選び方だ。
選び方は、刻印より先にある。
刻印の疼きは、消えない。
だが、疼きが“道標”になる日も、きっと来る。
その日まで、微睡みの縁で交わした半分ずつの言葉を、半分ずつの手で守る。
それが、今の誓いの、形。
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