共犯者〜未来のないゴール〜禁断の関係・共犯者だけが知る背徳の秘密

hikari

第一章〜出逢い〜

Prologue


誰にも話していない。

誰にも話せなかった。


けれど、この胸にしまっておくには、あまりにも濃く、あまりにも熱い時間。


だから今

少しずつでも、書き記していこうと思う。


これは、わたしの記憶が

わたしでなくなる前に、

わたし自身が残す、秘密の物語。



優の声、目線、指先の温もり。

誰にも知られない、共犯者だけが知る背徳の関係——

その濃密で静かなぬくもりが、私の心を満たし、日常をひそかに染めている。


家庭や社会の枠組みの中で息子は揺るぎない特別な存在。

けれど、私を生き生きと動かすのは、禁断の愛と共犯者だけが知る濃密な時間。

それが、私の物語のすべてであり、私が生きる理由の一つでもある。


***


あの日、あの時

もし私が戻らなかったら、

私の人生は、どこへ向かっていたんだろう…



結婚を控える私に友人からお誘いがあった。結婚したらなかなか飲みに誘えないからと。

古びた居酒屋。肉豆腐が名物らしい。

その日は金曜日の夜。さすがに早い時間でも、居酒屋はすでに賑わっていた。

店員さんに案内されたのは、相席になる4人掛けのテーブル。

すでに男性3人が座っていて、かなりお酒も進んでいるようだった。


「こちらのお席でよろしいでしょうか?」と聞かれ、私はほんの一瞬ためらいながらも頷いた。


「すいませーん、とりあえず生!ひかりも同じでいい?あと肉豆腐2つ、唐揚げ、串盛りー」

そう言いながら友人がメニューを読み上げる横で、私はそっと周りを見回す。


その一瞬、彼と目が合った。

楽しそうに話している途中だったのに、彼の目は私を一瞬だけ見て、またすぐに話に戻った。

でも、なぜかその一瞬だけが、妙に頭に残った。


このあと、20年以上もの時を重ねるなんてあのときの私はまだ知らなかった。


私たちもお酒が進み、料理を堪能していた。

その時だった。


さっき一瞬、目が合ったあの男性が、

おならについて語っていた。


語っている、なんてものじゃない。

彼はまるで芸人のように、全身で「おならの哲学」を披露していたのだ。


「いやでもな、俺のは音じゃない、魂なんよ、鳴るんや。自信あんねん。」


隣のふたりがツッコむ。

「魂て!屁に人生かけすぎやろ!」


気づけば、私も友人も笑いをこらえきれずに吹き出していた。

それに気づいたのか、彼はチラッとこちらを見て――

ほんの一瞬、目が合った。


その笑顔が、どうしようもなくおかしくて、あたたかくて。

私は、また笑った。


彼はおそらく、どこにでもいる“普通の人”、一般人だった。

でも、その間の取り方、話の展開、まるで芸人のようなテンポと切り返し。

自然と場が笑いに包まれていくその様子に、私は思わずこう思った。


「……何者?」


声をかけたのは、彼だった。


「一緒に飲もうや」


そのひとことから、即席の合コンがはじまった。3対2。

少しこちらが人数で不利だったけど、そんなことはどうでもよかった。

彼のいる空間は、不思議と心地よかった。


即席合コンなのか、体のよいナンパなのか。

そんなこと、どうでもよかった。


私はあの人に、惹かれてしまった。

一瞬で、身体が、心が、熱を帯びていくのがわかった。


グラスを持つ手が少し汗ばんでいた。

自分でも驚くくらい。


私は、完全に

“恋のはじまり”に呑まれていた。


彼の話しぶりは終始軽やかだった。

ときどき誰かを笑わせながらも、

人を見下したり押し付けたりはしない。


空気を読むのが上手なのか、それとも無意識なのか、

ふっと目が合う瞬間に、なぜか心が揺れた。


「お姉さんたち、何してる人なん?」


彼の問いに、私の友人が先に答えた。

私はその流れに任せながらも、

言葉よりも彼の声や仕草に意識が向いていた。


この人、どんな人なんだろう。

もっと知りたいと思った。


気がつけば、グラス何杯目かの酎ハイ。


笑って、食べて、話して――それでも彼と私の視線は何度も交錯していた。


「そろそろ出よか?」

友人が私に声をかける。


その時だった。

彼が、「みんな、メアドと番号交換しよう」と言ってきた。


私は少し、胸のつかえが下りるのを感じた。

このまま終わってしまうのかもしれないという、不安が和らいだのだ。


「じゃ、ありがとうね」

そう言って、私たちは席を立った。


誰かと出逢い、笑い合い、そして別れる――

それだけの夜のはずだった。


入り口のドアの前で彼と軽く頭を下げ合い、

私は友人と別れ駅へ向かった。


週末の夜、少しだけ人通りの減った改札を抜け、

電車に滑り込む。


座席に腰を下ろして、少し汗ばんだ手の中に残る携帯電話を見つめた。


その時、メールが届いた。

「今どこ?」

彼からだった。

たったそれだけの文面に、胸が高鳴った。


「電車の中、帰ってる途中」


送ってすぐ、また返信が来た。


「えー、ざんねん」


その言葉を見た瞬間、電車の中で心がふわっと浮いた。

私の指が勝手に動いた。


「戻ろうか?」


すぐに

「うん」と返信が届いた。


迷いも、戸惑いもなかった。

次の駅に着いた瞬間、私は立ち上がり、

そのまま反対側のホームへ走った。


頭の中にあったのは、ただひとつ

彼に、もう一度会いたい。

それだけだった。


駅に戻ると、彼は改札口にいた。

少し驚いた顔で、それでも嬉しそうに笑っていた。


「ほんまに、戻ってきたん?」


「うん」


「アホやなぁ」


彼はそう言ったけれど、その目は優しかった。


私は、その言葉の奥にある「嬉しい」を、ちゃんと感じ取っていた。


その夜、ふたりで歩いた道は、

ほんのさっきまでと違う風景に見えた。



たった数往復のメールで、

心の距離がぐっと縮まった気がした夜。


出逢ってから、まだ数時間しか経っていないのに、

なぜかもう、手をつないでもいいような、そんな気がした。


それでも私たちは、手を伸ばさなかった。

ただ、隣に並んで歩いた。


「これからどうすん?」

「もう遅いし、お酒はやめとこか」

と言って、近くの喫茶店に向かった。

店内は落ち着いた空気で、ふたりだけの静かな時間が流れていく。


彼はコーヒー、私は紅茶を注文した。

そしてしばらくして、彼がふいに言った。

「さっき〆食べてへんかったから、ここでサンドイッチ〆にするわ」

そう言って、メニューの写真を指差した。


……ちょっと待って?

さっき、もつ鍋の最後に麺まで入れてたよね?あれは〆じゃなかったん?

それとも、あれは前菜扱いやったん?


心の中でひとしきりツッコミながらも、私は笑ってしまった。

この人、本当に食べるのが好きなんやなぁ。そんな姿も、なんだか愛おしく思えた。


「さっきはゆっくり話せんかったから、

メールして呼び戻した形になってごめんな。

でも、戻ってきてくれて嬉しかったわ」


その言葉を聞いただけで、胸がふわっと熱くなった。


話すうちにわかってきたこと。

彼とは、地元が同じ。

今住んでいる場所も、同じ区内。最寄駅も一緒。


偶然?それとも、必然?

どちらでもいい。

ただ、この出逢いが嬉しかった。


私はふと思った。


こういう時って、普通は聞くよな


「彼氏いてるん?」って。


きっと誰もがそうやって、相手のことを探るんやと思う。


でも、ふたりの口からはその言葉は出なかった。

聞いてしまったら、何かが動き出してしまいそうだった。

そして一度動き出したら、もう戻れない気がして。


でもその一方で、頭の片隅にはずっと引っかかっていた。

「私には婚約者がいる」

「もうすぐ結婚する」

そんな言葉が、何度も胸の奥でリフレインしていた。


こんなこと、していていいんだろうか。

そう思いながらも、気持ちは止められなかった。


時間は23時。

店内には、もう閉店の気配が漂っていた。


「そろそろ出よか」

「うん」

「同じ駅やから一緒に帰ろ」


彼が「一緒に帰ろ」って言っただけで、

それだけで、なんだか嬉しかった。


最寄り駅までの道のりは、地元トークでふたりとも笑いっぱなし。

彼のテンポのいい会話が心地よくて、

私は自然に笑っていた。


「着いたな。ひかりちゃん、何号出口?」

「5号出口」

「一緒やん」


そう言って、彼はマンションの前まで送ってくれた。

夜風が、ふたりの距離をそっと包んでいた。


「ありがとう、マンションここやから。おやすみ」


「じゃあな、おやすみ。またな」


その「またな」は、ただの挨拶だったかもしれない。

でも、それでもよかった。


その一言が、胸の奥にふわっと灯った。


私は、彼の背中をそっと見送った。

夜の静けさに溶けていく彼の姿が、夢みたいに思えた。

夜が更けて、部屋に戻った。

彼と別れてまだ間もないのに、すでにその時間が遠く感じて、現実に引き戻される。

温もりの余韻が、まだ身体の中に残っていた。


そんな中、バッグの中で携帯が鳴った。

彼からのメールだった。


「今日はありがとう。

思いがけない出逢いやったな。

楽しかったわ。

まさかの地元民、家も近所ってなぁ」


私はすぐに、お礼と感謝を込めて返信した。


「こちらこそありがとう。ごちそうさま。送ってもらって助かりました」


それから何通か、メールをやりとりした。

内容はほんのたわいもないこと。

でも、そのひとつひとつが、胸の奥をふわっとあたためてくれる。

まるで、言葉のリレー。

そして私はそのリレーの途中で、そっと眠りについた。

遅めに目を覚ました朝。

カーテン越しに差し込む光は、まだどこか柔らかくて、まるで夢の続きを照らしているようだった。


携帯を見ると、彼からのメールが届いていた。


「おはよう。よく寝れた?

寝落ちしたやろ?」


私は微笑みながら、返す。


「うん、心地よく寝落ちした」


「ひかりちゃんめっちゃ飲んでたしなぁ」


たしかに、お酒は飲んでいた。

けれど、心地よく眠れたのは、アルコールのせいじゃない。

彼の存在。あの時間の余韻。

そんなぬくもりが、胸の奥にそっと残っていた。


でも、それを言葉にするには、まだ早い気がした。

まだ名前もないこの関係のまま、そっと、心の中にしまっておく。


私は少しだけ照れを込めて返信した。


「楽しくて、飲みすぎたかも」


「お昼ご飯、どうするん?」

彼からのメールに、私は携帯を握ったまま、少し考える。


「起きたばかりやから、まだ何も食べてないよ」


「じゃあ、遅めのランチでも行く?」


「いいの? うん、行こっか」


「そしたら13時に、マンションまで迎えに行くわ」


「ありがとう、待ってる」


メッセージを送った瞬間から、胸の奥がそわそわし始めた。

急いでシャワーを浴びて、首筋にお気に入りの香水をひと吹き。

メイクも、いつもよりほんの少し丁寧に仕上げた。


鏡の前に立ち、ふと立ち止まる。

何してるんやろ、私。

ただのランチ、なんでこんなに気合い入ってるんやろ。


そう思いながらも、もう止められなかった。

今、この時間がただただ嬉しかった。

彼に会える――それだけで。


12時55分。

マンションのエントランスに降りたその瞬間、一台の車がちょうど目の前に止まった。

運転席から彼が降りてきて、私の姿を見つけると、にこっと笑う。


「ひかりちゃん、おそよう」


その言葉に、思わずクスッと笑ってしまった。

言葉のチョイスが、どこか心地よくて、優しくて。


「タイミング一緒やったな、5分前」


「ほんまやな。じゃ、行こうか」


「今日はよろしくお願いします」


「なになに、改まってるやん(笑)」


車内には小さな音でFMラジオが流れ、ふたりの会話にやわらかなリズムを添えていた。


「ひかりちゃん、ハンバーグ好き?」


「めっちゃ好き!」


「よかった。箕面の○○ハンバーグ、食べに行こうと思っててん」

「えっ、○○のハンバーグ!? 行きたかってん!」


「前に行ったけど、ほんまに美味しかってんな」


そんな会話に笑いながらも、ふと胸に浮かぶ疑問。

誰と行ったんやろ?彼女かな?

そんなこと、聞けるわけない。


でも、今はただ、この瞬間が嬉しかった。


箕面までの道のり、車内は地元トークで盛り上がっていた。

懐かしい地名や、子どもの頃に遊んだ場所の話で笑い合う。


彼の横顔がふと穏やかになる瞬間があって、

助手席に座る自分がまるで昔からそこにいたかのような、不思議な居心地のよさを感じていた。


運転中、ふと私に向けられる彼の眼差しはあたたかく、

すぐにまた前を向くその横顔はやさしくて、

胸の奥がざわめいた。


この助手席には、以前彼女が座っていたのかもしれない。

いまも、その存在がどこかにあるのだろうか。


聞くこともできず、ただ彼の運転するリズムに揺られながら、

私の気持ちはぐるぐると、果てしなく回り続けていた。


一通り話が落ち着いた頃、車内に小さな沈黙が流れた。

その静けさは、不安ではなく、むしろ心地よい間(ま)だった。


そんな時間を破るように、彼がふと問いかける。


「ひかりちゃん、今日は予定なかったん?」


「なかったよ。ゴロゴロして1日が終わってたかも(笑)」


そう言いながら、私は少し照れたように笑った。


でも、そのあとだった。


「でも、あったとしても……

ランチ誘われたら、ドタキャンしてたかも?」


とっさに出た言葉。

心の奥に隠れていた気持ちが、思わず口をついてしまった。


助手席に静かに流れる音楽と、走る車の振動。

彼はすぐには返事をしなかったけれど、ちらりとこちらを見て、優しく笑った気がした。


お店に到着すると、ちょうどよいタイミングで席に案内された。

大きな窓から差し込む陽射しが、ふたりを包み込む。


「ひかりちゃん何にする?」


「おすすめは?」と返す。


「この前食べたデミグラスソースのハンバーグが美味しかったで」  


「へーじゃあ、これにするわ」

と思いきや、まさかの別メニューを選んだ。


「聞いといて、こっちにするんかーい!」


そんなやり取りに、ふたりで笑い合った。


注文を終え、ハンバーグを待つふたり。

話題が尽きることなく、心地よい空気がテーブルを包む。


「腹減ったなぁ、まだかなあ」


「えー注文してまだ5分も経って

ないよ」


「待つのは長いねん、30分くらいに感じるわ」


「大げさやなぁ笑」


そんなやりとりのあと、待ちに待ったハンバーグが運ばれてくる。

彼は勢いよく食べはじめる。

その姿をただ見ているだけで、私の心もお腹も、ぽかぽかと満たされていく。


「なぁ?もうちょっと味わって食べ

ようよ」


「味わってるで」


勢いよく食べ進める彼は、あっという間に完食。

その手にはもうデザートメニュー。

私はまだ、ハンバーグの半分ほど。

じっくり味わう私の前で、私を見ている彼。


「見られたら食べにくいわ」


「ゆっくり食べや」


そんな何気ない会話が嬉しくて、ちょっと照れくさい。


食べ終わった私に、彼がデザートメニューをそっと差し出す。


「ひかりちゃんは?」


「わたしはコーヒーにする」


彼はブリュレを注文し、私のコーヒーも一緒に頼んでくれた。


「ブリュレ、食べたらよかったのに」


「もうお腹いっぱいやわ」


ほどなく運ばれてきたデザート。

ふわりと甘い香りが店内に漂う中、彼は店員さんに声をかける。


「すいません、スプーンもうひとつください」


スプーンを受け取ると、彼はそのまま私の方へ差し出した。


「ひかりちゃん、ちょっと食べてみ?」


彼の手からスプーンを受け取ると、思わず心がふわっと温かくなった。

小さな一口は甘くて、ほんの少し照れくさい味がした。


「美味しい!」


「なぁ、めっちゃうまいやろ?」


笑いながらブリュレをすくう彼の姿に、私はふと思った。


それにしても……ほんまによく食べる人やなぁ

そういえば、ハンバーグもご飯大盛りやった。

でも、不思議と嫌じゃない。

むしろ、それが居心地がいい。


あたたかく満たされたランチタイムは、ゆっくりと静かに終わっていった。

店を後にするときも、ふたりの会話は途切れることがなかった。


「ひかりちゃん、時間、大丈夫?」


「うん、大丈夫やで」


「ほんま、じゃちょっと車、走らせよか」


そう言って助手席に乗り込み、彼の運転で車は静かに走り出す。

時計の針は、いつの間にか16時を指していた。


「ちょっと行ったらな、ジェラート屋があるねん」


「まだ食べるん?」


「デザートは別腹やから」


「それ、女子やん(笑)。それにブリュレも食べてたし」


そんな他愛ない会話が、まるで何度も重ねてきた日常のように心地よく響いた。


車は静かに、明治の森公園へと向かって走り続けていた。


ジェラート屋に到着

「見てみ?端っこに“紅葉のジェラート”あるねん。さすが箕面やわ」

少し誇らしげに指を差す彼。

でも、食べへんけどな」


「食べへんのかい(笑)」


ジェラートを選ぶ彼の横顔は、まるで子どもみたいだった。

いや、むしろ女子かもしれない。


ふたり並んでベンチに腰掛け、ジェラートを食べ合いっこしながら、肌寒い春の夕暮れの中、ゆっくりと時間が流れていった。


まさか、このあと心がざわつくような言葉を交わすことになるなんて。そんなことは思いもせずに。


「なぁ、ひかりちゃん?」


スプーンを口に運びながら、彼がふと切り出す。


「彼氏、いてるん?」


昨日からなぜか避けていたその話題。

いつかは触れられるかもしれないと覚悟していたけれど、いざ聞かれると胸がぎゅっと締めつけられた。


「うん……いてるよ。結婚する」


彼の手が一瞬止まった。


「やっぱり……なんとなく、そんな気はしてたけど……よう聞けんかった」


その言葉に、私はそっと問い返した。


「彼女、いてるん?」


彼は少し俯きながら答えた。


「俺も、結婚する」


しばらくの間、ふたりの間に言葉が途切れたまま流れていった。


「いつ結婚するん?」


「10月」


「半年後か……」


「ひかりちゃんは?」


「誕生日が9月やから……誕生日に籍入れて、式は11月」


「そっか、近いな。地元も、今の居住も……近いな」


そう言った彼の顔は、さっきまで無邪気にジェラートを選んでいたあの彼とは違っていた。


遠くを見つめ、何かを押し込めているような彼の表情。

さっきまであれほど楽しそうに笑っていたのに。


私は言った。

「せやな、なんか……不思議やな」


その言葉は私の精一杯だった。

何が「不思議」なのか、自分でもはっきりとはわからない。

でも、その場から逃げないように、言葉を選んでいた。


それぞれに結婚を控えていた。

偶然出逢い、偶然話し、偶然ランチに行った。

それだけのことのはずだった。


だけど、この時、胸の奥のどこかで、何かが確かに動き始めていた。

ゆっくりと、けれど確実に。


「こんなことしてたら彼女に怒られへんかな?大丈夫?」


なぜかそんな言葉が口をついて出た。

何か話さないと、空気を変えないと思って。


彼は少し間を置いてから言った。


「怒るやろうな……また死ぬとか言われるんやろな」


「え、死ぬ?何それ?」


私の頭の中は混乱して整理がつかなかった。


「えっ、それどういう意味?」


その言葉で、空気が一変した。

私の問いかけに、彼はしばらく黙り込んだ。


静かにふぅっとため息をつき、ジェラートのカップをテーブルに置く。


「……結婚するって言ったやろ?

ほんまはな、最初からしたくなかったんよ」


「でも、“結婚せえへんかったら死ぬ”って言われてな。

その時はもう、心が折れてた。

“分かった”って言うしかなかったんよ」


私の中に、言葉にならない感情が押し寄せる。

怒り? 驚き? 悲しみ?


彼の言葉は、冗談でも誇張でもなくただ、静かで、本当の声だった。


「それって……脅し、やんな……?」


「せやな。今となっては、どうでもええけど……」


彼は、ゆっくりと目を細めて、遠くの山を見つめた。


「せやけど、あのときの俺には、選べる力がなかった。仕事も順調で、いろんなことが整いすぎてて……崩す勇気がなかった」


静かな風が通り抜け、ジェラートの甘い香りがふたりのあいだにふわりと漂った。

私の胸の奥が、ずきんと痛んだ。

もしかしたら、あの偶然は偶然なんかじゃなかったのかもしれない。

どこかで交わるはずだった何かが、ようやく今、動き始めた気がしていた。


「そんな結婚、間違ってるよ」


思わず、言葉がこぼれた。


「彼女だって……お情けで結婚されたって、嬉しいわけない。死ぬなんて脅しに乗るのもおかしいよ。間違ってる、どっちも――」


気づけば、感情のままにぶつけていた。

でも彼は、何も言わなかった。

沈黙だけが流れていく。


静まり返った空気の中で、ジェラートがゆっくりと溶けていく。

彼は目の前にいるのに、まるで遠くの世界を見ているようだった。


私の胸の鼓動が速くなる。

後悔はしていなかった。

でも――彼を、傷つけたかもしれないという不安が押し寄せてくる。


ようやく、彼が口を開いた。


「……せやな。ひかりちゃんの言う通りやと思うわ。間違ってたんやろうな。あのときも、今も」


彼の声は静かだった。


「でも、もうどうしようもなかった。今さら誰かを責めることもできんし、誰のせいでもない。俺が選ばなかっただけや」


その言葉に、怒りも悔しさもなかった。

ただ、あまりにも静かで、深く悲しかった。


私は小さな声でつぶやいた。


「……逃げてたんやね」


責めるつもりなんてなかった。

それは、痛みに触れるような優しさと、そっと寄り添う想いのこもった、ため息のようなひとことだった。


彼は、小さく笑った。

その笑みには、ほんの少しだけ無防備な、そしてどこか懐かしい表情がにじんでいた。


「ほんまの意味で“生きる”ことから、逃げてたんかもな」


ジェラートのカップをゴミ箱に投げ入れながら、彼はゆっくりと立ち上がった。

「……もう、帰ろか」


私は、ただ頷くしかなかった。

沈黙の中に残った言葉の余韻が、胸の奥で深く響いていた。


助手席のドアが開く音が、やけに大きく感じられる。

行きの車内では絶え間なく交わしていた会話も、帰り道では一言もなかった。

沈黙だけが、重く張りつめた空気のなかに流れていた。


マンションに着いたときも、その静けさは破られなかった。


「今日はありがとう。……ごちそうさまでした」


「ちょっと早いけど、おやすみ」


そう言った彼の声は穏やかで、どこか遠くを見ているようだった。

私はうなずき、ゆっくりとドアを開けて降りた。

すぐに閉まる車のドア、そしてエンジン音。

それが、ゆっくりと遠ざかっていく。


背中を向けたまま、私はしばらくその場に立ち尽くしていた。

風の音すらない静かな夜。

マンションのエントランスをくぐると、さらに深い静けさが広がっていた。


あれだけ心が浮き立っていた午前中が、まるで何日も前のことのように感じられる。

部屋に戻ってカーテン越しに外を見ても、もう彼の車の灯りは見えなかった。


「ちょっと早いけど、おやすみ」


その一言だけが、耳に残っていた。

まるでそれが、“さよなら”の代わりだったような気がして――胸が締めつけられる。


私はソファに身を沈めた。

そして、自分自身に問いかけた。


あの瞬間、わたしは何を望んでたんやろう。

彼は、あの言葉にどんな想いを込めてたんやろう。


どれだけ考えても、答えは見つからなかった。

けれど一つだけ、確かにわかっていることがある。

あの日の午後、あの時間、ふたりの心は、たしかに揺れていた。



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