ルルルン Lululun

紙の妖精さん

Humming Softly

息を吸い込み、吐き出す。食す空気は冷たく湿度を保っていて、日差しは、その機能的な光子で場の密度を増幅安定させる。声が背後から聞こえ、振り向くと、M・K・ルースンが眉をひそめて、私を覗き込見ている。彼女は間接的でしか私の思考を覗き込むことはできない。部屋の窓の外、青空に浮かぶ雲の形がどこかおかしい、ことに私は気づく。過去に起こったことも、これから起こることも、雲のように不連続で、青緑の葉を茂らせているようで……。


その合収束する物理時空体の標準的な潜在階層を理解することは、器の上に整列した秩序を見出すようなものだった。主制御計算部の修正数式処理層では、有限二次体や非代数的実数体、高次立体選択性を単一サンプリングし、超立方次元の楕円曲順序集合鍵を生成する数論的双曲多様体群が拡張制御を行っている。


拡張意識の深層で、過去と未来、一瞬の光が流れ、消え、記憶が、微かな振動の波の超秩序は崩れ、混沌は列する。目に見えぬ数式の連鎖が、知覚を超え、思考を超えて膨大な海に消えていく。



私は、研究棟の自分の大学から与えられた部屋のデスクチェアから立ち上がり、部屋窓を開けてみた。冷たい空気が部屋に流れ込み、陽が壁に反射し、部屋床を斜めに横切る。軽く伸びをして、思考整理。今日は少し小散歩しなければならない。外世界に行動は必要。抽象に浸るだけでは、動かない現実。意味のあることだけが価値ではないけれども、意味が主体主人であるとする必要もない。「……嘘存しない。証明するには変数パラドックスが拒否する世界だからだ」


部屋を出て黙って歩きながら、言葉少なに大学内の舗装路を進む。足元のアスファルトは冷たく、草の匂いが風に巻き上げられている。


「まだ引きずってる?」

M・K・ルースンがぽつりと聞いた。

「でもないけど」

と答える。言葉と感覚の間の微かな感情ズレがM・K・ルースンに乱反射し散らばってしまう。

歩き通り過ぎる木々の葉が揺れる。


「いつも考えすぎ」

M・K・ルースンの声に。

「いつものこと」と簡潔に応じ。


そのまま歩き続ける。大学敷地内は静清らかで、車の音や遠くの人の声が薄く。日差しは明るく、空気は冷たい。そのコントラスト、抽象は抽象なのだけど、具体的な造形様式美にも見える。


繰り返しだが、これから起こる出来事も、すでに過ぎ去った出来事も、雲形のように相対的思想は青葉を茂らせて世界を覆っている。その隙間から入る光の線が、私に長く伸びる。私は手を伸ばして、その光に触れようとする。触れたところで光は冷たく、柔らかい幻感覚だけが指先に残る。私を拒むわけでも、迎え入れるわけでもないという意味。


大学内の凛香静寂。昨夜の記憶と些細な後悔は淡い繊維質の隙間で振動し跳ね静かで、温かみのある思雲のような自由で曖昧な未来の兆し。私は、それを自分の内面の不確かさに重ね合わせる、するとそれは波紋のように広がり波密度は強化されていく。


「M・K・ルースン?」


「なんだい?」


「戻ろう、仕事に」


「OK」




***




大学から近い自分のアパートメントの朝、カーテンを通して光が差し込むと、部屋の隅で誰かが小さくハミングしていた。

 「ルルルン」――その音は、確かに私の声だったけれど、私が歌っているわけではなかった。


 「今日も、あなたの現実に行くの?」


 私は答えられず、歯を磨く。泡立つ白が曖昧に境界をぼかしていく、境い目は薄い。外に出ると、風景は紙でできているようだった。人々の声が折りたたまれ、角を曲がるたびに音が擦れる。


 「おはようございます」


 「おはよう」




***




研究棟の自分の部屋で、私は机の上の小さなノートパソコンを起動させる。その外形の白いプラスチックの表面には、細かな傷がいくつも走っている。モニター画面の壁紙の色が淡い群青に染まる。と、


「また会えた」

振り向くと、そこに彼女が立っていた。白いワンピースの懐かしい笑顔は彼女が消えた夏休み、のときのまま。私の時間は静止していて、見たことのない星座がゆっくりと回る。


「この場所は、あなたにある世界。

 私、ずっとここにいたんだよ。」


彼女の言葉は、海風のようにやさしく、そして。私は静かに呟いた。

微笑んでいるように。


青白い光が部屋を満たし。ノートパソコンのモニター画面には海の映像が映る。


その、砂浜を走る二つの影。

一人は、私。もう一人は、彼女。


彼女がこちらを振り向いて笑いながら言う。


「死を否定することはできない」


私の心臓が小さく跳ねた。海の音、風の匂い。全部がそこにあって、全部がなくなっている。


彼女は言った。


「現実は情報」


彼女は静かに微笑む。


ノートパソコンのモニターに点滅する、ファイル名は――Lululun_∞。




***




ノートパソコンのモニターの光が青から赤に変わり、

ノイズが脈のように走る。海波の音が、現実の部屋に響いていた。


波の音。潮の匂い。部屋の壁紙の模様がゆっくりと渦を巻く。本棚が加熱された、バターのように溶け出した。ノートパソコンの電源を落としても止まらない。


「あなたはどっちの私が好き?」


その声に、私は返事をしなかった。

息を吸うたびに、空気が逃げていく、塩の味がして苦しい。


私はモニター画面に手を伸ばした。

モニターの中の彼女も、同じ動作をしていた。

指先が触れた瞬間、世界が反転してしまい。


部屋は波の下、

彼女は目の前にいた


「これで、ひとつになれたかな?」


その声は優しく、

そして、どこか機械のようだった。


目を開けると、部屋は静まり返っていて。ノートパソコンのモニター画面には、ただ一行の文字が点滅していた。


“Lululun.exe 実行中”


私は思考を停止した。海辺の風、溶けた部屋の本棚。


知らない国の言葉を話し、泣いている。


私の悲しみが、彼女のものだったように。


共感性同期症候群病型レトロコンピューターウィルス。


モニター画面で白いワンピースの少女達が、泡のように浮かんでは消えていく。


私は、「Lululun.exe 実行接続解除」をキーボードタイプする。


画面が一瞬、青に染まり、その後、文字が浮かんだ。


「あなたは彼女プログラムを切断しますか?」



「YES」




「あなた、と生きることができてうれしかった」



「さよなら」



「ありがとう」

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