第35話 理解のはじまり
霧の薄い朝。
街は静かに息を吹き返し、遠くで職人たちの金槌が軽快に鳴っていた。
修復が進む瓦礫の街並みの奥――工房街の一角。
その小さな部屋の中で、セレスは夜通し研究を続けていた。
机の上には書きかけの図面や紙束が無造作に広がっている。
椅子に座ったまま突っ伏している彼女の金髪が、朝日を受けて淡く光っていた。
その姿を、そっと見つめている影――リリィだった。
「……またベッドで寝てない」
リリィはため息をつきながら、机の上の紙束を覗き込む。
そこには複雑な魔導式の図と、紙の山の中に見慣れない単語が並んでいた。
“観測者仮説”
“情報の伝達網”
“再構築世界の可能性”
どの言葉もリリィにはピンとこない。
けれど、その文字の一つひとつに滲んでいる焦燥は、痛いほど伝わってきた。
(セレスさん……どうしてこんなに追い詰められたように……)
思えば、彼女はいつもそうだった。
誰よりも冷静で、誰よりも論理的で、けれど――時々、誰よりも危うい。
仲間を守るために、自分を削る。
何かを見つけたら、寝食を忘れて突き詰める。
リリィは拳をぎゅっと握りしめ、低く呟いた。
「……何かを怖がってるのは、分かるんだけど」
目を落とした紙束の端に、小さく書き込まれた走り書きが目に入る。
――「みんなを帰らせることができるのか?」
リリィは息を呑んだ。
“帰らせる”? どこへ? ――そう思ってから、すぐに理解する。
(……元の世界に、だ)
胸の奥が熱くなった。
セレスはただ恐れているわけではなかった。
“この世界を壊さずに、元の世界に戻す道”を探している。
そのために、自分の命を削ってでも――。
「……だから、あんなに頑張ってるんですね」
小さな声が漏れた瞬間、机の上で微かな音がした。
セレスが身じろぎをし、瞼を開ける。
「……リリィ、起きてたの?」
寝不足のせいで少し掠れた声。
リリィは慌てて手を振った。
「ご、ごめんなさい。ちょっと心配で……」
セレスは薄く笑う。
その目の下には、深い疲労の影。
それでも、その笑みは優しかった。
「……ありがとう。でも、もう少しだけ。
――まだ、とっかかりが掴めたわけじゃないから」
その言葉には、眠気よりも知的な執念が滲んでいた。
リリィは何も言えず、ただ頷くしかなかった。
(セレスさん……まるで、誰かに“急かされてる”みたい)
窓の外では朝日が昇り始め、霧がゆっくりと晴れていく。
その光が、彼女の金の髪を淡く照らした。
けれどその姿は、どこか遠く――手の届かない場所にいるように思えた。
しばらくして、リリィは工房の奥にある簡素な台所へ向かった。
少しでもセレスに休んでもらおうと思ったのだ。
棚から保存パンと乾燥果実を取り出し、木の皿に並べる。
だが、ふと耳に入る音に手が止まる。
――ぱち、ぱち。
魔導灯の光が、再び点いた音だ。
振り返ると、セレスがもう次の紙に式を書き出していた。
「……やっぱり止まらないんですね」
リリィは苦笑しながら皿を持ち、そっと机の上に置いた。
焼きたてのパンの香ばしい香りがふわりと漂う。
その香りに誘われるように、セレスはようやくペンを止めた。
「ありがとう。……リリィは、本当に優しいね」
「優しいっていうか、放っておけないだけですよ」
そう言って頬を膨らませるリリィの姿に、セレスは小さく笑みをこぼした。
だがその笑顔の奥には、消えない影がある。
パンを口に運びながら、セレスはふと窓の外へ目を向けた。
青い霧が街を包み込み、陽光を拒むように漂っている。
その向こうに、彼女は――誰にも見えない“塔”の輪郭を幻のように見た。
(……もし本当に“この世界の意思”が存在するのなら。
私たちは、その掌の上から外れることができるんだろうか)
指先でパンの欠片をつまみながら、セレスは小さく息を吐いた。
リリィはその横顔を見つめる。
静けさの中に、どこか遠い決意があった。
一方その頃、カイは街の外壁の上に立っていた。
冷たい風が吹き抜ける。
眼下には、広がる街と遠くの森。
その境界線で、彼は“妙な現象”を見つけていた。
「……またか」
視界の端――木々の陰が、一瞬“止まった”。
風は吹いているのに、枝が揺れない。
そして次の瞬間、何事もなかったかのように世界は動き出した。
まるで、誰かが“再生ボタン”を押したかのように。
「セレスが言ってた、“世界の処理が止まる”ってやつか……?」
カイは眉をひそめ、壁際の魔導灯を調べた。
魔石が、一定の間隔で明滅している。
だが、その“間隔”がごく僅かに伸びていた。
(まるで……ラグってるみたいだ)
冷や汗が背を伝う。
昨日まで冗談半分に聞いていたセレスの懸念が、急に現実味を帯びてきた。
風が再び吹き抜け、遠い空で青白い閃光が瞬く。
光の筋は、はるか彼方――“天の塔”の方向に伸びていた。
「……マジで何かが動かしてるのかもな」
カイは拳を握りしめた。
風の冷たさが、彼の不安を鋭くなぞっていく。
***
夕方、工房街に夕陽が差し込む頃、リリィはセレスの部屋を訪ねた。
扉を叩くと、少し間をおいて返事が返る。
「どうしたの?」
「……あの、セレスさん。わたし、思ったんです」
リリィは少し迷い、両手を胸の前で握る。
言葉を選ぶように、ゆっくりと口を開いた。
「セレスさんが、こんなに頑張ってるのって……みんなを元の世界に戻したいから、ですよね?」
セレスの手が止まった。
その表情に、一瞬だけ戸惑いが走る。
やがて、静かに微笑んだ。
「……どうしてそう思うの?」
「だって、そうじゃなきゃ……こんなに焦る理由がない気がします」
セレスは目を伏せ、しばらく黙った。
そして、小さく頷いた。
「……そうだね。私も、元の世界に帰れる可能性があるなら、それを見つけたいと思ってる。――それ以上に、知りたいんだ。この世界の“正体”を」
「怖くないんですか?」
リリィの声は震えていた。
「怖いよ」
セレスは微笑む。
その笑顔は穏やかで、どこか寂しげでもあった。
「でもね、知らないまま生きる方が、もっと怖いんだ。
――世界の形が崩れようとしているのに、何も知らずにいるなんて、我慢できない」
静かな声に、リリィの胸が熱くなる。
その人はただ、恐れているのではなかった。
恐怖を抱えたまま、前へ進む人なのだ。
二人が話し込んでいるところへ、外壁の見張りを終えたカイが戻ってきた。
「セレス、少し話がある」
セレスは疲れた目でこちらを見つめるが、その瞳はまだ澄んでいる。
「どうしたの?」
「今日、街の外で妙な現象を見た。空気が一瞬止まった。……世界が、呼吸を止めたみたいだった」
セレスの瞳がわずかに揺れた。
「……やっぱり、気づいたんだね」
「お前の言ってること、あながち絵空事じゃないかもしれない」
しばしの沈黙。
カイはゆっくりと続けた。
「でもよ、もし本当に世界が止まりかけてるなら……俺たち、どうすりゃいいんだ?」
「――探すんだよ」
セレスはまっすぐに言った。
その声は不思議と落ち着いていた。
「この世界が壊れる前に、修復の方法を見つける」
その背中は細いのに、不思議と頼もしく見えた。
カイはしばらく黙り、それから小さく笑う。
「……お前、ほんとにすげぇよ。この状況で前を向けるなんて」
セレスは首を振る。
「私は臆病なんだよ。
……ただ、“希望”を手放すのが怖いだけ」
窓の外で、また青い光が瞬いた。
それは“塔”の方角――天を貫く光の柱。
三人は言葉を失い、その光を見つめた。
胸の奥で、何かが同時にざわめく。
(――この世界はおかしい)
カイはそう感じた。
そして、漠然と世界改変を受け入れていた自分にぞっとする。
気づいてみればセレスの恐れは当然なのだと理解した。
リリィはセレスの横顔を見つめながら、無意識に手を握りしめる。
セレスは静かにその光を見据えた。
「……この世界がもし誰かの“作り物”でも。
私たちは、ここで生きている。
だったら――この場所を守る。それが、いまの私の“現実”だ」
リリィが頷き、カイが笑った。
「なら、俺も付き合うさ。世界が止まるってんなら、全力で動かしてやろう」
「私も……セレスさんの手伝いをします」
セレスは二人を見つめ、微笑む。
その瞳に、確かな光が宿っていた。
「ありがとう。……きっと、見つけよう。
この世界の“核心”を」
窓の外で、青い光がまた瞬いた。
まるで応えるように、淡い風が部屋を撫でる。
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