第1章 畑と火の村(2)
――北の柵は、すでに悲鳴と怒号で満ちていた。木杭が軋み、土台がめり込み、獣臭が鼻を刺す。押し分けようとする影は一つではない。灰色の皮膚、黄色い牙、丸太の腕――オーク。しかも七体。
柵の前に人が集まっていた。農具を手にした男衆、編み籠を脇に投げ捨てた女衆、腰を曲げた年寄りまで、皆が駆けつけている。
リアンが真っ先に駆け込み、長棹を構えた。「前に出る! 押し返せ!」
「待て、列を崩すな!」オルフが肩でリアンを止め、段差を指差す。「右は高い。半足下げろ!」
「杭が割れるぞ!」
「押し返せ! 列を崩すな!」
柵は唸り声を上げ、板が裂け、土が軋んでいた。茂みの向こうから、獣臭と酸っぱい臭気が入り混じったような悪臭が流れてくる。
棹を握る掌に、杭伝いの体温と震えがじかに響いた。
――オーク。季節の匂いに釣られて来る数じゃない、とレンは鼻の奥で思った。
「下がるな! 押せ! 列は二つ、段を跨ぐな!」
レンが鉄塊を肩に担ぎ、声を張り上げる。
「右が高く左が低い。――右列は背の高い者、左列は短い棹! 揃えろ!」
オルフがすぐ復唱し、位置を指で示す。「背の高い者、こちら。短い棹は左。足幅は半足」
リアンは歯を食いしばり、前に出たい足を踏み止めて列に潜り込んだ。「出る時は言えよ、レン!」
◆
最初の一体が柵に頭を突っ込んだ。鼻先が木片で裂け、狂ったように吠える。
レンは半歩退いて、左足の親指で土を噛む。鉄塊の角を額に押し当て――振らず、押した。
衝撃が背骨を突き抜け、耳が詰まる。ぐしゃりと嫌な音。巨体が膝から崩れた。
「詰めろ! 間を空けるな!」
レンが叫ぶと、男衆が一歩前に寄る。リアンが棹で押し込みながら吠えた。「いま、いけ!」
「腰で押せ。腕で振るな!」オルフが列の背で調子を合わせる。足並みが揃う。
二体目が棍棒を振り下ろし、柵の板が裂けて破片がマヤの頬を切る。血が流れた瞬間、リナが駆け寄り、掌で布を押さえ「息をいま吐いて」と囁く。マヤの顔が歪むが、痛みがわずかに遠のき、涙を堪えながら棹を取り直して列に戻った。
「戻れる。目は開けて。——よし、行っておいで」リナの声は短く、背を押す。
「二体来るぞ!」
三体目と四体目が並んで突進する。
「棹を合わせろ! 腰を落とせ! 目は喉だ!」
男たちが肩を並べ、一斉に押す。棹は突くのではなく押す――畑を耕すみたいに。
ドン、と音が響き、二体の巨体が弾かれた。
エミ婆さんが後列で唇を震わせる。「風よ、背を押しておやり」
その囁きに応えるように風が棹の後ろから押し、列が一歩分前に出た。オークたちは柵に弾かれ、よろめいた。
◆
四体目の目が血走り、隙を突いて飛び込む。
「鈴だ、カイ!」
羊飼いのカイが角鈴を高く掲げ、肩の鳩フウが空を円く舞う。高い音が連なり、獣の耳がひくついた。
その刹那を逃さず、レンは歩く速度で踏み込み、鉄塊の平を肩に叩き込む。重さを前へ送る三連の押し。巨体が膝を折り、土へ沈んだ。
三体目が横合いから腕を振る。爪が閃く。
レンは踵を支点に腰を切り返し、土の乾きを感じる方へ体重を移す。爪は空を切り、鉄塊の角が肋を抉る。
「いい止めだ!」リアンが叫ぶ。自分も踏み込みたい喉を、列のリズムで噛み殺す。
◆
背で悲鳴が上がる。五体目が柵を越えて若者にのしかかっていた。
「ピオ、伏せろ!」
レンが滑り込んで肩から体当たり。肉と肉がぶつかり、若者の胸が解放された。
「リナ、引け!」「分かってる!」
リナが若者の襟首を掴み、腰を引きながら掌で空気の“坂”を作る。転がる方向が柵の内側へと素直に流れ、若者はごろりと転がり込んだ。
「ありがとう——」若者が息を吐くより早く、オルフが声を掛ける。「列に戻れ。右列、半歩下げ」
◆
六体目の爪が横殴りに迫る。ガギィン、と火花。レンの掌の皮が裂け、血が滲む。
「タシュ! 輪を高く!」
少年タシュが震える手で空に印を描く。柵の上、目の高さに風の輪が現れ、小石が渦に乗って雨のように降り注ぐ。
「ピオ! 鼻と目だ!」
少年ピオが石を正確に投げる。六体目は反射的に目を閉じ、顔を振った。
その瞬間、レンが踏み込み、鉄塊を押しつける。顎が割れ、巨体が仰向けに崩れた。
「今の角度、覚えた!」リアンが前歯を見せて笑い、すぐ顔を引き締める。「まだ終わってねぇ」
◆
最後の一体――群れの長。背の骨が突起し、鉤牙をむき出す。
「来るぞ! 右列、半足下げ! 左は杭の外へ寄せ!」
オルフが声を揃えさせ、足幅を指で示す。「段差を跨ぐな。腰で受けろ!」
長は柵を越え、一直線に突進してきた。
レンは両足で土を掴み、鉄塊を胸に抱え込む。祖父の教え――膝を落とすな、腰で受けろ、足裏で地面を握れ。
ドゴォ、と衝撃が背骨を突き抜け、耳が詰まる。膝は折れず、腰で受け流す。
「いま!」
レンが腰で押し返すと、鉄塊の角が胸板を抉り、骨が鳴る。
後列の棹が一斉に突き、エミ婆さんの囁きが風を乗せる。長は片膝を折り、血を吐きながらもなお立ち上がろうとする。
「縄だ、ボロム!」
道具屋のボロムが古縄を投げ、若者たちが足に回す。「猿結び二度! 強く締めろ!」
リナが油壺を掴んで投げ、壺が割れて油が縄にぶっかかる。 きしみが消え、縄は肉に食い込んだ。
長が最後の暴れで吠え、縄が悲鳴を上げる。
「離れるな!」
レンは前に立ち、鉄を水平に抱えた。額と鉄の間に一瞬の隙。そこへピオの石が飛ぶ。澄んだ音とともに、長の瞼が閉じた。
レンはためらわず押し込む。首が土に沈み、骨が鈍く鳴る。巨体は痙攣し、やがて動かなくなった。
◆
森の縁はざわめき、残る二体が吠えたが、子供たちと女衆が一斉に石を投げ、男衆の長棹が押し返すと、ひとつは逃げ、ひとつは倒れた。
――静寂。
焦げと血の金気が雨に薄まり、土の匂いだけが戻ってきた。柵は揺れてなお立っていた。
「……守った」
誰かが呟き、それが次々に繰り返された。
「守った」「守ったとも」
レンは鉄塊を土に突き立て、裂けた掌を確かめた。血は滲んで痛むが、握れる。まだ動ける。
リアンが棹を肩に、歯を見せて笑う。「見たろ、レン。押せば倒れる!」
オルフは汗を拭き、裂けた縄を指で示した。「明日、結び直す。角は逃げの襟を残す」
レンは頷き、二人の肩を一度ずつ叩いた。言葉より短く、確かに。
沈黙を破ったのは、少年ピオの声だった。
「……勝ったの?」
彼の声は震えていたが、答えを求めていた。
「勝ったさ」
ボロム爺が、灰を掬って縄の切れ端に擦りつけながら笑った。「泣きながらでも押せば押せる。泣いたっていい、泣きながら守れりゃ十分だ」
村人たちが次々に座り込み、息を吐いた。マヤの頬に布が巻かれ、リナが掌に油を掬ってぶっかけるように塗り、布端をきゅっと結ぶ。「深くない」
マヤは涙を拭い、また笑った。ハルは血まみれの棍棒を足で遠ざけ、槌のように使えるか確かめた。カイは鳩フウを肩に戻し、「鈴の音が効いた」と呟いた。
焚き火が組まれ、死骸は森の縁で燃やされた。リナが掌で炎の息を整え、煙が高く昇るように導く。エミ婆さんは煙の流れを見て「雨は近い」と告げた。皆の顔がその言葉で少し柔らいだ。
「レン兄……」
ピオが近づき、レンの掌を見た。裂けた皮膚から血が滲んでいる。
「ほっとけ」
レンは言ったが、リナが掌に油をばしゃっとかけ、布を裂いて巻き直した。
「黙らせる」
彼女は掌を包み込み、体温を少し移した。レンの胸の奥で、あの“熱”がまた灯った。
リアンが横から覗き込み、「俺のは油塗っときゃいいさ」と笑って見せ、オルフは「笑ってる間に結びを覚えろ」と肩で笑った。
◆
火が落ち、雨の匂いが濃くなる頃。
門の影に立っていた二人の冒険者が近寄ってきた。外套の裾から水を払う。
「やるな、村の衆」背の高い方が低く言う。「だが、これで終わりじゃない。血の匂いは獣も人も嗅ぎ分ける。明日以降が本番だ」
相棒がうなずいた。「森の奥で焚き火跡を見た。灰に土を混ぜ、雨跡を“作って”隠してあった。三人分の足跡、うち一人は荷が重い。獣を誘う餌も撒いていた。……お前たちの柵へ向かう風筋に」
リナが息を呑む。「誰が、なんのために」
「刻印もあった。五下りの印。街の盗りが使う“北に潜れ”の合図に似ていた」
冒険者は森を振り返った。「獣そのものより、獣を動かす誰かがいる」
レンは黙って聞いていた。重さが背骨に落ちてくる。
冒険者は続ける。「杭を詰めろ。根を固めろ。角は“逃げの襟”を残せ」
「了解した」
「助力は?」とリナが問う。
「助力はできる。だが、明日には発つ」
背の高い方は短く答えた。「恩は重い。重いものは嘘をつかん」
「杭を詰め、根を固める。棹を長くする。鈴は高い枝へ」レンが言うと、オルフが頷き、リアンは棹を肩で担いで「明日の棹は俺が担ぐ」と言った。冒険者の口端がわずかに上がる。
◆
その夜。
レンは家に戻り、鉄塊に油を塗り、布を掛けた。雨が屋根を叩き、竈の火は赤く揺れている。
「折れないものも、放っておけば崩れる」爺さんの声が耳に残る。
横になった途端、意識は夢に沈んだ。
――石ではない、灰色の四角い建物が立ち並ぶ街。
地面は黒く固く、鉄の箱が唸りを上げて走る。
空中に浮かぶ光の板に、女が歌い踊る。知らぬ文字が色と音になって流れる。
自分の体を見下ろすと、灰色の布――襟が喉に固く当たる。胸のポケットから紙、「渋谷」の文字。
「……渋谷?」なぜか分かる。
雑踏を歩く。人、人、人。誰も彼を見ない。
声が耳に落ちた。「レン、君は選んでいる。選んできたから、ここにいる」
振り返っても誰もいない。ただ群衆の流れだけがあった。
目を覚えると、夜明け前の冷たい空気。雨は止み、星がかすかに瞬いていた。
胸に残る言葉が重い。「選んでいる……?」
掌を握る。皮膚は裂けて痛むが、握れる。動く。
「俺は守った」
声に出すと、夜がそれを飲み込んだ。
レンは布団を押しのけ、鉄塊に手を置いた。冷たく、確かだ。
遠い街の灯りを夢に見たことも、この重さの行き先も、まだ知らない。
ただ、今夜は――守り切った。
そして外では、リアンが夜番を代わり、オルフが結び目を指で確かめ、リナの竈で火の息が細く整えられていた。寝息の数は一つ増え、村の夜は、少しだけ濃くなっていた。
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