第十九話 どうか、あなたの手で
——お母様!
これは夢だ、とアイリスはすぐに分かった。4歳くらいだろうか。幼い自分が公爵夫人と遭遇して顔を輝かせている。
——お母様、あの、もうすぐ、わたくしのたんじょうびです。一緒に、ケーキをたべていただけませんか?
そうだ。幼い自分は愚かにも、母を望んだのだ。
——何故?
——え。
——なぜ、お前ごときの為に、私が時間を割かねばならないの?
——あ......申し訳、ございません。
アイリスは涙を堪え、俯いた。
——不必要なことで話しかけないでと、前にも言わなかったかしら。お前の頭は空なの?
——申し訳、ありません......
——謝るくらいなら、初めからしないでちょうだい。不愉快だわ。私の前に暫く現れないで。
——はい……お母様。
立ち去ろうとしていた母は、不意に足を止めた。
——その呼び方、気に要らないわ。
——え?
——今後、私を母と呼ばないでちょうだい。虫唾が走る。
アイリスは立ち竦んだ。向けられた憎悪に、ただ震えることしかできなかった。
——返事もできないの?
——.......はい。こんご、気を付けます......公爵夫人。
母は——母だった人は、そうして母でなくなったのだ。
いや、元々母ではなかったのか。アイリスがそれを知らずに愚かに笑っていた、ただそれだけの話。
公爵夫人は、元々王太女だった。女性の爵位継承を認めない国で、傍系に爵位を渡さないため、という名目で、実際は夫人の為に法律が書き換えられた。にも関わらず、13歳の時、現国王である弟が生まれたことでその位を失い、公爵との婚約がまとまった。
生まれた時から課せられた使命を奪われた夫人の虚無感はどんなものだったのだろう。
自分には許されなかった玉座を継ぐ弟に、息子に、何を思っていたのだろう。
国で最も高い爵位を継ぐ娘への殺意は、如何ほどだっただろう。
——それでも母を願い、手を伸ばした己の愚かさがよくわかる。
最初から願わなければよかった。望まなければよかった。そうすれば——絶望も落胆も、知らずに済んだのに。
「――いやな、ゆめ」
「......おはようございます」
「......おはよう、ございま、す?」
目を開けたアイリスは、そこにありえない人影がいるのを認めて口を開閉させる。
「な、え.......は!?」
「......申し訳ありません。レディの寝顔を見るのはいかがなものかと思ったのですが」
「は、いや、あの、レイ」
起き上がりながら言うと、はい、とレイは黒い髪を揺らす。
「その傷は、どうされましたか」
「え?」
「首の痕です」
アイリスは咄嗟に手で首を覆った。
「......お気になさらず。それよりも、なぜ、こちらにいらっしゃるのですか?」
レイはもの言いたげだったが、大人しくアイリスの問いに答えてくれた。
「お願いされましたので」
「え?」
「誕生日の翌日に、会いに来てほしいと」
アイリスの脳裏に、かつてそう願った時のことが過ぎった。
「......冗談と、申しましたのに」
「申し訳ありません。お会いしたかったので、あの時の言葉を盾に参りました」
「――…………」
不意に、アイリスは泣きそうになった。
「.......どうして部屋まで。執事たちが通すとは思えないのですが」
「転移魔術で参りました」
「は?」
先程から、意味をなさない言葉ばかり発している気がする。
「ようやく安定して人ひとりを動かせるようになりましたので」
「......ひと月で?」
「はい」
「ヴィノグラード領から、ここまで?」
「はい」
「......家人に見られたら、叩き出されますわよ?」
「周りに結界を張っております。アイリスと私の様子は、周囲には見えないようになっているはずです」
アイリスは俯いた。レイが焦ったように言う。
「あの、淑女の部屋に入るのは失礼と思ったのですが、鳥が入ったところしか把握できず」
「ふ......ふふ、ふふふ。あははははっ!」
アイリスは思わず声を上げて笑った。笑いすぎて、涙まで出てきた。
「レイ。あなたは、ほんとうに可笑しな方ですね」
「......それは、褒められているのでしょうか」
「ええ。褒めております」
アイリスは笑いながら、レイの手を取った。
「――さあ、どうぞわたくしを殺してくださいませ」
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