第十二話 そのひと言

「……レイ」

「はい」

「お加減がよろしくないのなら、お帰りになられた方が」

「いえ、問題ありません。最近眠っていないだけですので」

「それを人は睡眠不足、体調不良と呼ぶのですよ」


所変わって公爵邸である。月に一度のお茶会に現れたレイの目の下には隈が住み着いていた。アーネット伯爵夫人の懐妊の影響で、サザーランドの家業諜報活動に忙殺されているのだろう。


「折角のお茶会ですし」

「日を変更しても構いません」

「家に帰っても仕事が増えるだけですし」


アイリスは溜息を飲み込む。繁忙期、片付けても片付けても仕事が終わらないのには覚えがあった。アイリスは立ち上がり、ソファの向かいから隣へ、席を移動する。


「横になってくださいませ」

「は?」

「枕代わりにはなりますでしょう」


今日はお茶会で着たものとはまた別のヴァレーゼ衣装を着ている。パニエでドレスを膨らませるのではなく、布を重ねて質感を出しているので、柔らかくはあるだろう。


「いえ、アイリスにご迷惑をおかけするわけには」

「時間になったら起こしますので。寝てください」

「……せめて、枕は別のものに……」

「子守唄でも歌いましょうか」

「恐縮ですが膝をお借りいたします」


そんなに子守唄が嫌いなのだろうか。それとも、アイリスの声を厭うているのだろうか。

俊敏に膝に頭を乗せたレイの横顔を見て、アイリスは複雑な気持ちになる。


「……アイリス」


余程寝ていなかったらしい。呟かれた声は小さく眠たげで、この距離でも聞き取るのが精一杯だった。


「婚約を、継続出来そうです」


アイリスは目を見開き、レイを見下ろした。視線の先で、レイは既に目を閉じていた。

――その一言のために、彼はどれほどの夜を犠牲にしたのだろうか。

国王がアーネット夫人の子に継承権を認めれば、兄の立太子は取り消され、アイリスとレイの婚約は解消となる。それを回避する――言うのは容易いことだが。


「……莫迦な方」


ほんとうに、莫迦な方。

アイリスの呟きを知らず、レイは安らかに寝息を立てている。




***




レイが屋敷を訪れた翌日の夕方、思わぬ人物がやってきた。


「やぁ」

「ご機嫌よう、王太子殿下。こちらにおいでとは存じませんでした」

「何、たまの息抜きだよ」


肩までの黄金きん色の髪を揺らして笑うのは、アイリスの兄だった。随従の数も少ない。お忍びであろうか。


「今から夕飯かな?」

「はい」

「一緒に食べても?」

「準備にお時間をいただくことになるかと」

「構わないよ」


食堂に向かう間、兄は辺りを楽し気に見回していた。思えば、アイリスは兄の棟に行ったことはなく、兄がこちらに来ることもなかった。

人払いがされた食堂には、カトラリーの音だけが響いている。


「――公女」

「はい、殿下」

「年が明けたら、即位する」


アイリスは一瞬、固まった。


「……お喜び申し上げます。デューア王国に益々の繁栄が齎されますように」

「堅苦しい礼はしなくていい。ただ——そなたと、話をしてみたくてね」


兄はワイングラスを傾けた。


「そなたは王嗣となる。私に子が出来るまで、数年は王太子と同様の扱いをされるだろう」

「一層、王家へ忠心を尽くし仕える所存でございます」

「そうじゃない。そうじゃないんだ、アイリス」


名を呼ばれ、アイリスは忙しなく目を瞬いた。長じてから、兄に名を呼ばれたことはない。


「即位したら最後、そなたとは兄妹の縁すら残らないだろうから……いや、今もあるか定かでないが」


兄は苦笑する。今更だな、という呟きが聞こえた。


「そなたは、この家に生まれたことを恨むか?」


兄は真剣な表情でアイリスを見据えていた。その、みどりの瞳が痛い。アイリスは目を伏せた。


「……私たち・・・は、恨む術さえ、与えられなかったのではありませんか」


兄は目を見開いた。一拍の空白の後、深々と溜息を吐く。


「――違いない」


夕餉を済ませ、兄はすぐさま裏門に向かった。


「……お兄様」


呼びかけると、兄は驚いたように振り返る。思えば、アイリスも兄をそう呼んだことがなかった。


「……どうか、お元気で」


兄は顔を歪めた。どこか、泣きそうな表情だった。


「……あぁ。アイリスも」


兄は二度と振り返らなかった。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る