第2話 闇堕ちシスター

セリウスが天界を追放されたとき、その理由となった少女はまだ人間界にいた。

 名をマリエル。

 小さな修道院で孤児を育て、貧しき者に癒しの祈りを与える若きシスターだった。


 彼女は人々に微笑みを向け、ただひたすらに「救う」ことだけを願って生きていた。

 だからこそ、天界の騎士セリウスが彼女を庇い、その結果、堕とされたと知ったとき――マリエルの心は壊れた。


「私のせいで……セリウス様は……」


 祈りは届かず、涙は枯れても、彼は戻ってこない。

 聖堂で膝を折り、彼女は神像に縋った。

 けれど返るのは沈黙のみ。


 ――その瞬間、彼女は悟ってしまった。

 天界は冷酷で、神は救ってはくれない。

 むしろ、自分こそが「穢れ」とされた。


「だったら……私も堕ちましょう。セリウス様と同じ闇に」



 その夜、修道院に黒い影が満ちた。

 マリエルの周囲に漂う祈りの力は、癒しの光を失い、歪んでいく。

 彼女が子供たちに触れると、恐怖に泣き叫ぶ声が響いた。


「いや……シスター……目が、怖い……!」


 鏡に映った自分の瞳を見て、マリエルは息を呑んだ。

 それは深紅に染まり、まるで血のように光っていた。

 彼女の微笑みは、もはや人を安心させるものではない。

 見る者すべてに「絶望」を刻みつける呪いへと変わっていた。


 マリエルの祈りの声は、聴く者の心を抉る。

 過去の罪を思い出させ、最も恐ろしい幻覚を見せつける。

 「癒しの歌」は「怨嗟の子守唄」となり、人々を狂気に沈めた。


「これが……私に残された力……。ならば、この力で――天を呪おう」



 一方その頃、堕天騎士セリウスは闇の中で戦い続けていた。

 天界から送り込まれる討伐者を斬り伏せ、人間界の均衡を壊しかけていた。

 だが、その胸の奥では常にマリエルを想っていた。


「……会いたい。だが、俺の姿はもはや……」


 漆黒の鎧に覆われ、赤い瞳を光らせる自分を、彼女が受け入れるはずがない。

 そう信じていた。


 ――だからこそ、運命の再会は彼を打ちのめした。



 燃え落ちた修道院。

 黒い炎の中に、マリエルは立っていた。

 白い修道服は闇に侵され、裾は血のように赤黒く染まっている。

 微笑みを浮かべるその顔は、かつての優しいシスターの面影を残しつつ、禍々しく歪んでいた。


「マリエル……!」

「セリウス様……ようやく会えましたね」


 彼女の声は甘美で、同時に耳を裂くような恐怖を孕んでいた。

 セリウスの周囲にいた兵士たちは、次々に膝を折る。

 恐怖に怯え、己の最悪の幻覚を見せられて錯乱するのだ。


「な……何だ、あの女は……」

「目を合わせるな! 心を奪われるぞ!」


 セリウスは彼女に歩み寄り、兜を外した。

 その顔には怒りではなく、悲しみが浮かんでいた。


「マリエル……お前も堕ちたのか」

「ええ。だって……あなたを堕としたのは私。なら、私も同じ闇に堕ちるしかないでしょう?」


 彼女は微笑みながら、冷たく告げた。

 その笑顔は、かつて孤児を慰めた慈愛の微笑みの残滓でありながら、今は人の心を砕く刃。


「癒しの祈りは、恐怖と絶望を与える力に変わりました。

 ――でもそれでいい。だって、私の願いはもう“救い”ではなく、“呪い”だから」



 セリウスは拳を握りしめた。

 天界を憎むあまり、愛した者まで闇に呑まれてしまった。

 だが、彼女の瞳に宿る決意を見て、否定することもできなかった。


「俺と同じ道を歩むというのか……」

「はい。あなたと共に。二人で天界を、神を呪いましょう」


 その瞬間、闇が広がった。

 セリウスの黒き剣と、マリエルの絶望の祈りが共鳴し、大地を覆う黒い嵐が生まれる。

 それは光を飲み込み、悪魔をも退け、人間たちを恐怖と畏敬に縛り付けた。


 ――もはや誰も彼らに抗えない。



 後に語られることになる。

 堕天騎士セリウスと、絶望のシスター・マリエル。

 二人は並び立ち、天界を敵に回した最凶の存在として、永劫に伝説となったと。


 その姿は、愛を守れなかった二人の歪んだ結末。

 けれど同時に、誰にも裂くことのできない絆の証でもあった。


 光を失った者同士が闇の中で結ばれ――やがて世界を震撼させる。


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天界から追放されて闇堕ちした堕天騎士は最凶です @mojinokuroyagi

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