宮本神凛の迷宮両断(ラビリンス・キル)
青いくら
プロローグ
宮本神凛 re:birth
「ん……ふぁ〜あ……」
ベッドの中で上体を起こし、伸びと欠伸を一つずつ。
神凛はカタカタと音を立てて揺れる廊下を歩き進み、洗面台の前に立った。蛇口を捻り、水道水が流れ出てくる様に安堵する。今日この日を迎えるまでライフラインが生きていてよかったと心底思う。
顔を洗い、歯を磨いた後、年季の入った台所で朝食の準備をする。旧式の給湯器、焦げ付いたガスコンロ。祖父母の代から暮らしてきたというこの古ぼけた団地とも今日限りでお別れだ。
冷蔵庫の中身は綺麗に使い切ってやろうと自分なりに計算を凝らしてきたが、結果は散々だった。もったいないが、使い切れなかった食材は残していくしかない。すべてが終わろうとしている今になって、この台所を切り盛りしてきた母の偉大さを思い知る。
「……お母さん、お父さん、元気にしてるかなぁ」
ぽつりと溢した言葉に応える者はいない。この家には神凛以外に誰もいない。それどころか、この団地にはもはや人っ子一人残ってはいない。
かつての住人たちはまだ迷宮災害が及んでいない東北地方へと疎開した。神凛の両親も同様だった。しかし、神凛は残った。というより、避難した後でこっそり抜け出して戻ってきたのだ。
スマートフォンで閲覧したネットニュースによれば、東京大迷宮の侵食は既に隣の市まで拡がっている。今日にでも迷宮は団地を飲み込み、押し潰すだろう。かねてからの予定通りだ。
朝食を食べ終えると、神凛は身だしなみを整えにかかった。登校前の朝のように、死装束を整えるように、あるいは一世一代の晴れ舞台に臨むように。
金髪をシュシュでポニーテールにまとめ、制服のシャツは胸元を大きく開き、同じくスカートは超がつくミニに。耳にピアス、首元にはチョーカー、目には空色のカラーコンタクト。ネイルは昨晩のうちにきっちり整え直してある。
「よーし、準備完了っ!」
身支度を終えた神凛が鏡に向かってウインクすると、鏡面に映った派手めの美少女が同じ動作を返してきた。自分で言うのもなんだが、容姿とスタイルには恵まれている方だ。
襖を開いて和室に入り、畳の上の台座に飾られた大太刀を掴み取る。腰に差すには長すぎるので、背負う形で帯刀する。
玄関で生家に一礼した後、胸を躍らせながら団地の階段を駆け降りる。棟と棟に挟まれた中庭に立ち、曇天を見上げる。たった一人を残して住人が消え失せた無人の団地が、南方から押し寄せる地響きによってぐらぐらと揺れている。
「あはっ」
神凛は笑った。少し離れた棟が大地の津波に飲み込まれ、轟音と共に倒壊していく。迫ってくるのは途方もない大質量。巨大な建造物そのものが生き物のように地表を這いずり、立ち塞がるすべてを押し潰しながら近づいてくる。
知識として知ってはいるが、実物を見るのは初めてだ。あれこそは
背負った大太刀を鞘から抜き払い、水に濡れたように美しい刀身を己の首に当てがう。時間の流れが鈍くなり、大地の津波がスローモーションで迫り来る。
今更引き返すつもりはない。しかし、後悔がないと言えば嘘になる。家族を想う。友人を想う。打ち棄ててきたすべてを想う。
───本当に、こんな生き方しか選べなかったのか。
あくまで自己採点ではあるが、そこそこ上手くやれていた方だと思う。家族仲は良好だったし、高校のクラスでも人気者だった。勉強はそこまで得意ではなかったし、色々あって剣道部を辞めたりもしたが、異常という程のことではなかったはずだ。
きっと、その気になれば普通に生きられた。周りの誰もが良しとする、当たり障りのない生き方を選ぶことができた。
(無理でしょ。いくら人の振りをしようが獣は獣、鬼は鬼。外面は取り繕えても根っこの在り方は変えられないよ)
記憶の中に棲む黒髪の剣士が、神凛の懊悩を涼やかに切って捨てた。神凛は悩むのを止め、滑稽な己を一笑に付した。
止める気など全くないのに、何を今更見栄を張ろうとしているのやら。
(剣の道を望むなら
神凛の
神凛は
───あたしの生きたいように、生きられるのだ。
「ハッピーバースデー、
それが、宮本神凛が生涯の最後に発した言葉だった。
人間性の残滓に止めの一撃を加えるように、神凛は刃を己の頸動脈に押し込んだ。
鮮血の花が咲き、かつて宮本神凛であった肉の塊が崩れ落ちた。神凛の絶命にやや遅れて、迷宮災害は彼女の生家である団地棟を呑み込んだ。神凛の骸と、その血を啜った抜き身の大太刀を諸共に。
宮本神凛は死んだ。
そして、神凛の人生はここから始まる。
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