SCENE#106 午前0時、渚にて…

魚住 陸

午前0時、渚にて…

第一章:沈黙の足跡





深夜の渚。波の音だけが響く中、杉山健一は冷たい砂の上に座り込んでいた。彼のスーツ姿は、かつての栄光の残骸のようで、潮風に吹かれるたびに、彼の心の中に燻る後悔と怒りを揺り動かす。手首には、止まったままの高級腕時計が虚しく光っていた。それは、大手建設会社「東亜建設」の次期役員候補とまで言われた、失われた時間と輝かしい過去の象徴だった。





「あの時、もっと上手くやれていれば……」





彼の脳裏に、裏切りの瞬間が蘇る。数日前、日雇いの現場で、かつての部下と思しき男に背を向けられた。「まさか、杉山さんがあんなところにいるなんて……」という、彼の背中に突き刺さるような視線が、彼の胸を抉る。彼は渚に立ち尽くす人々をぼんやりと見ていた。




「皆、俺と同じか。社会の表からは見えない、影を抱えている者たち……」




その視線の先に、小さな女の子の手を引く美咲がいた。娘のさくらが「ママ、おなかすいたね。コンビニのおにぎり、おいしかったね…」と小さな声で呟くのを聞き、美咲はぎゅっと娘の手を握りしめる。




「うん、おいしかったね。でも、明日はもっと美味しいもの食べようね…」




その言葉の裏には、明日の食費すらままならない現実があった。さくらの幼稚園の先生、田中は、最近美咲が疲れていることに気づき、心配そうに声をかけていたが、美咲はただ笑顔で誤魔化すしかなかった。不当な解雇を訴えるにも、弁護士費用も時間もない。




「どうすれば、この子を守れるの……」




さくらが眠りについた後、彼女はいつも1人でこの渚に来て、夜の闇に吸い込まれるように涙を流していた。




「神様、どうか……どうか、私たちを……」




さくらが描いた、虹色の家族の絵が、彼女のスマホの待ち受け画面で優しく光っていた。




少し離れた場所では、隆がタバコに火をつけていた。腕には、過去の過ちを象徴するかのように、薄れたタトゥーが彫られている。




「結局どこ行っても、俺は俺か…」




数日前、ようやく見つけた建設現場の仕事で、過去の経歴がバレてしまった。




「おい、こいつ前科モンだってよ。一緒に仕事なんかできねーよな?」




無神経な言葉が彼の心を刺した。少年院時代に世話になった保護司の佐々木は、いつも彼のことを案じてくれていたが、彼はもう誰にも心配をかけたくなかった。




「佐々木さん……ごめん、俺、また駄目になりそうだよ…」




もうどこにも居場所はないのか。彼は何度もそう自問自答している。「もう、誰も信用しねぇ…」。渚の暗がりだけが、彼を拒絶しなかった。





そして、人目を避けるようにフードを深く被ったタケルが、波打ち際で何かを拾い集めている。学校のチャイムも、家の喧騒も、彼にとってはただの雑音だ。




「うるさい……」




父親の怒鳴り声と、怯える母親の姿が目に焼き付いて離れない。彼が肌身離さず持っている小さな木製の宝箱の中には、渚で拾った貝殻や石、そして父親の書類の切れ端がしまわれている。彼は拾った流木を無心に削り、小さな魚の形に整えていた。




「これで、どこかに泳いでいけたらな……」




渚だけが、彼が自分を取り戻せる唯一の場所だった。




誰もが言葉を交わすことはない。しかし、それぞれの孤独な足跡が、夜の渚で静かに交錯し始める。杉山は、彼らの中に、自分と同じ「社会からのこぼれ落ちた者」の影を見ていた。そして、この沈黙の空間で、何かが始まりつつあることを予感するのだった。




「このまま、終わらせてたまるか……」







第二章:交錯する波紋




渚には、夜な夜なそれぞれの事情を抱えた人々が集う。ある晩、杉山は波打ち際で小さくうずくまる美咲とさくらの姿を見かけた。さくらが小さく咳き込むのを見て、彼は思わず声をかけようとしたが、すぐに躊躇した。




「俺なんかが、今さら……」




しかし、美咲が冷たい風に震えるさくらを必死に抱きしめる姿を見て、彼の心に微かな痛みが走った。




「何とかしてやりたい……」




翌日、偶然、杉山は美咲が働いていた会社の求人を見かけた。以前の彼の知識と経験から、その求人が美咲の不当解雇と不自然に繋がっていることに気づいた。彼は図書館に足繁く通い、当時の企業情報を調べ始めた。





「やはりか……。あの時のやり口と、そっくりだ…」




それは、彼自身の不正告発を隠蔽した企業体質と酷似していた。彼のデスクにあった当時の内部資料と、現在の求人情報が重なっていく。止まっていた腕時計の秒針が、わずかに揺れた気がした。




一方、隆は渚で座り込んでいるタケルに、何度か目を向けていた。タケルの孤独な背中に、かつての自分を見るような気がしたのだ。




「あんなに小さくても、もう独りぼっちか……」




ある夜、タケルが持っていた小さな魚のオブジェが波にさらわれそうになるのを、隆が間一髪で拾い上げた。




「おい、これ、お前のじゃねぇのか?」




タケルは驚いたように顔を上げるが、すぐにフードを深く被り直した。言葉はないが、互いの存在を認識する小さな瞬間だった。隆の過去の悪友であるケンは、今ではまっとうな職につき、隆を心配して何度も連絡を寄こしていたが、隆はそれに応じずにいた。




「ケン……俺には、まだお前みたいな奴の光は眩しすぎる…」





その夜、沖合で不自然に光る漁船を杉山は目撃した。




「こんな時間に、こんな沖で……変だな…」




単なる漁ではない、何か裏があるような不穏な光景だった。彼はその光景をスマートフォンのカメラに収めた。その時、ふと隆が、その漁船をじっと見つめていることに気づいた。




「まさか、彼も……」




彼の目には、単なる好奇心ではない、何かを知っているような色が宿っていた。彼らはまだ知らなかった。それぞれの抱える問題が、この渚を介して、見えない糸で繋がっていることに――。







第三章:暴かれる潮流




美咲の不当解雇の裏を探る杉山は、彼女の勤めていた会社が、かつて自身が告発しようとした「東亜建設」の下請け企業であったことを突き止めた。そして、その会社が抱える不透明な経費処理が、東亜建設への裏金供給ルートになっていた可能性が浮上した。ある晩、渚で杉山は美咲に声をかけた。





「あなたを解雇した本当の理由、知りたいでしょう?」




最初は警戒していた美咲も、杉山の真摯な態度と、娘を守りたい一心から、彼に協力することを決意した。




「私には、もうこの子しかいないんです。そのためなら、何でもします…」




さくらが幼稚園で描いた絵には、いつもの虹の下に、小さな人々が手を取り合っている姿が加わっていた。





隆は、以前働いていた建設現場で耳にした、不審な廃棄物処理の噂を思い出していた。




「そういや、あのゴミ、妙に臭かったような。東亜建設の現場だって言ってたし……」




その現場は、杉山が調べている東亜建設関連のプロジェクト現場だった。彼は、自分の過去の経験から得た、社会の「闇」の繋がりを直感的に感じ取っていた。ある日、渚で偶然、杉山と美咲が会社の資料を広げているのを目撃した。





「もしかして、あんたたちも、あの会社のことに首突っ込んでんのか?」




彼の言葉に、杉山と美咲は顔を見合わせた。彼の鋭い洞察力に、杉山は驚きを隠せなかった。




「君は、一体何者なんだ……」




タケルは、日中の誰もいない渚で、彼らが隠した資料や写真を見つけていた。




「これ……お父さんの作業着と同じニオイがする…」




写真に写る会社のロゴや、廃棄物の写真に、彼の父親が関わっている可能性を感じ、不安に苛まれた。父親がいつも夜中に帰宅し、汚れた作業着から異臭がしていたこと。それは、彼が見て見ぬふりをしてきた家庭の闇だった。彼はその証拠を、小さな宝物のように大事に隠し持っていた。





「お父さん、悪いことしてるのかな……」




彼はまだ、それが何を意味するのか完全に理解していないが、何か大きな秘密が動いていることを察していた。タケルの担任である山田先生は、タケルの不登校を心配し、家庭訪問を繰り返していたが、彼が抱える問題の深さまでは気づいていなかった。





渚は彼らの安息の地であると同時に、社会の歪みが浮き彫りになる場所へと変貌していく。彼らはそれぞれの専門知識や、社会の底辺で得た情報を持ち寄り、バラバラだったパズルが少しずつ繋がり始めた。




「これは、俺たちだけの問題じゃない。もっと大きな闇だ……」





杉山は静かに呟いた。彼の止まっていた腕時計が、カチリと音を立てて動き始めた。






第四章:嵐の予兆




杉山たちの調査が進むにつれ、彼らは巨大な闇に触れていく。東亜建設の不正は、政界の有力者や地元の暴力団とも深く繋がっていた。彼らの行動はすぐに察知され、様々な妨害工作が始まった。杉山の元には匿名の脅迫電話が相次ぐ。




「杉山さん、あんた、あまり余計な真似をするなよ!身の破滅は一度で十分だろう…」




美咲の元には「娘がどうなってもいいのか!」という無言の圧力がかけられた。




「さくらを巻き込まないで……!」




SNSでは、美咲の不当解雇の告発に対し、「自業自得」「シングルマザーが甘えるな」といった誹謗中傷と、「負けないで」「応援しています」という励ましの声が入り乱れ、世論は騒然としていた。




隆は、かつての仲間に唆され、証拠を隠蔽するよう誘惑された。「お前、また塀の中に戻りたいのか?」。




タケルの家には不審な男たちが現れ、彼の隠し持っていた「宝物」を探しに来た。「坊主、変なもん持ってねぇか?」





社会からの孤立、迫りくる危険に、杉山たちは絶望的な状況に追い込まれていった。




「もう、俺たちには何もできないのか……?」




しかし、渚で培われた互いの信頼が、彼らを支える唯一の光だった。美咲は杉山に強い眼差しを向けた。




「私、もう逃げたくないんです。この子のためにも、やり直したい…」




隆はポケットから佐々木の保護司からの古い手紙を取り出し、読み返す。「お前には、やり直せる強さがある!」。彼は決意を固めた。





「俺はもう、過去の自分とは違う。今度こそ、真っ当な道を選んでやる!」




タケルは、自分たちを守ろうとする杉山たちの姿を見て、初めて心を開き始めた。




「これ……、役に立つかな……?」




彼の木製の宝箱の中には、彼らが渚で協力して作った、小さな人型のオブジェが並べられ、脇に、数枚の写真が納められていた。




彼らはそれぞれが抱える弱さを乗り越え、協力し合うことで、巨大な壁に立ち向かう覚悟を決めた。杉山は過去のコネクションを辿り、独立系のベテランジャーナリストの村上への接触を試みた。




「どうか、力を貸してほしい。これが、最後のチャンスなんだ…」




村上はかつての大企業告発で痛い目に遭った経験があり、最初は乗り気ではなかったが、杉山の執念に動かされた。





「杉山さん、あんた……」




美咲は、SNSで同じような境遇のシングルマザーたちに協力を呼びかけた。




「私たち一人一人の声が、社会を変える力になります!」




彼女の投稿は瞬く間に拡散し、多くの共感を呼んだ。隆は、裏社会の情報網から、彼らが狙っている「証拠」の隠し場所を探り当てた。





「あいつら、まさかあんな場所に隠すとはな……」




そしてタケルは、彼らがまだ気づいていない、決定的な証拠の在り処を知っていた。




「あの時、お父さんが隠したやつ……」




しかし、その先には想像を絶する困難と、命の危険が待ち受けていた。夜の渚に、嵐の予兆が漂い始める。




「これが、最後の戦いだ……」






第五章:夜明けの光




絶望的な状況の中、杉山たちは最後の望みを賭けて行動を起こす。杉山は自身の名誉と引き換えに、東亜建設の不正を告発する準備を進める。




「これが、俺の償いだ」




彼はかつての自分を失った代償として、今度こそ真実を社会に晒すことを誓った。村上ジャーナリストは、杉山の告発とタケルの音声データを基に、渾身のスクープ記事を書き上げた。




「この闇を暴く。それが俺の使命だ…」





美咲は、SNSで拡散した自身の不当解雇の体験談が、多くの共感を呼び、同じ苦しみを持つ人々からの情報提供や支援の声が集まっていた。




「一人じゃないって、こんなにも心強いんですね!」




彼女の呼びかけに、全国のシングルマザー支援NPOが連帯を表明し、世論は大きく動き始めた。世間は、最初こそ冷笑していたものの、美咲や他の人々の切実な声に耳を傾け始め、不正を許さないという空気が醸成されていく。





隆は、自身の過去の過ちを償うかのように、命がけで東亜建設が隠蔽していた「闇の帳簿」の隠し場所へ潜入する。「今度こそ、ちゃんとやる……」。そこで彼は、かつての自分と同じように社会から見捨てられそうになっている若者たちと出会い、彼らを巻き込むことの愚かさに気づいた。





「お前ら、こんなことしても何も変わらねぇぞ。真っ当に生きる道は、いくらでもある!」




隆は、帳簿を手に入れるだけでなく、彼らにもう一度、真面目に生きる道を提示した。





そして、タケルが持っていた「宝物」――それは、彼の父親が隠し持っていた、東亜建設と政界の癒着を示す決定的な音声データだった。タケルは、杉山たちの真剣な姿を見て、初めて彼らに心を開き、その音声を渡した。




「これ、お父さんが隠してた。……悪いこと、してたんだ…」




それは、父を告発することになるかもしれないという葛藤を乗り越えての、彼の勇気ある行動だった。




「ありがとう、タケル。君の勇気が、人を助ける…」杉山は震える手でそれを受け取った。





夜が明ける頃、渚には新たな希望の光が差し込む。杉山たちの告発は、村上ジャーナリストの記事と共に一斉に報道され、社会に大きな波紋を広げた。




「衝撃!大手建設会社の裏金疑惑、元社員が実名告発!政界との癒着も浮上か!」




多くの人々が不正に目を向け、真実を求める声が上がり始めた。警察も動き出し、東亜建設への強制捜査が入った。「これは、氷山の一角だ!」。彼らの小さな抵抗は、社会の片隅に追いやられていた人々に、再び顔を上げて生きていく勇気を与えた。





渚に集う彼らは、もはや孤独ではなかった。それぞれの顔には、夜明けの光に照らされて、かすかな笑みが浮かぶ。杉山はジャーナリストとの新たな共同調査のため、美咲はNPOの支援を受けながら、さくらを保育園に送り届け新しい職場へと向かうため、隆は佐々木の保護司の紹介で建設現場の正社員として働くため、そしてタケルは、山田先生に導かれ、ほんの少しだけ顔を上げて、学校へと足を踏み入れる。彼らはそれぞれの生活の中へ、新しい一歩を踏み出した。






杉山の腕時計は、正確な時を刻んでいた。美咲のスマホの待ち受けには、虹の下で手を取り合う人々の絵が、より鮮やかに輝いている。隆の腕のタトゥーは、過去を忘れはしないが、もう彼の未来を縛るものではなかった。タケルの宝箱の中には、彼が新しく作った、未来へ飛び立つ鳥のオブジェが収められていた。





彼らが去った後の渚には、ただ穏やかな波の音だけが残った。朝日が水面に反射し、砂浜は黄金色に輝く。打ち寄せる波が、彼らの足跡を静かに消し去っていく。まるで、昨夜までの嵐が嘘だったかのように、渚は元の静寂を取り戻していた。





しかし、その砂浜には、確かに彼らがいた証と、彼らが社会に残した小さな波紋が、見えない形で広がっていく。そして、その渚は、また次の夜、新たな「午前0時」を迎える準備をするかのように、静かに、そして力強く、波の音を響かせていた…




ザァー……、ザァー……、ザザザザァー……

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

SCENE#106 午前0時、渚にて… 魚住 陸 @mako1122

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ