第16話

「ん?」

 

 茜の声は細過ぎて小さ過ぎて、快活な茜の印象とは違い過ぎて、私には聞き取ることができなかった。

 微かな外の雨音がはっきり聞こえる。

 

「なに?」

「話を蒸し返すのはやめてって言ってるの!」

 

 それは茜の口から迸ったとは思えないくらい怒気を孕んだ声だった。聞いたことないような咆哮に私は身を締めてたじろぐ。飛び起きた茜の叫びは止まらなかった。

 

「まりーには分からないよね! 人を好きになるっていうのが! そしてその好きな人と自分の部屋で二人っきりでドキドキするって感覚が! シャワー上がりで髪を濡らして色っぽくて、私の服も着ちゃってて、心臓のバクバクが止まらないんだよ! まりーを意識し始めてからこんな機会初めてで、私だってどうすればいいか……分かんない……。抱き締めることができるかもしれない、キスができちゃうかもしれない。そうなったらもう触れたくて、くっつきたくて……そうだよ、簡単に言ったら下心だよ! けどさ、下心だけどさ、いけないって分かりながらそんなこと想像しちゃうくらいにまりーを、うぅ、好きで……好き、で、仕方ないんだもん……」

 

 言葉を繋ぐ度に茜の声は涙でぐちゃぐちゃになっていく。

 

「雨に濡れたまりーを助けてあげようって……シャワーを貸そうって考えたのは本当にすぐで、心配だったから。だけどうちに近づく程にさ、これだけ助けたらもしかしたら進展できちゃうかもしれないって汚い自分が出て……私はまりーの不幸につけ込もうとしたの」

 

 茜の激白は謝罪に上書きされていく。

 

「うぅ、ごめんなさい……」

 

 それっきり茜は座り込んで顔を落としてしまった。

 静かな部屋にすすり泣く声だけが寂しく響く。

 こんな茜を見るのは初めてだった。いつも明るく振る舞う彼女が声をらしてまでなにかを叫ぶ姿を、私は知らない。

 そのなにかは私に向けた彼女の偽らざる本心。

 私は多分地雷を踏んでしまったのだろう。

 茜が叫んだ思いに共感はできなくても、思いを踏みにじってしまった、傷つけてしまったのは分かる。

 私のミスだ。

 

『あの子の気持ちに少しも答えないで、無視してばっかりで。茜が気の毒なんだけど』

 

 数日前の長谷川の言葉が針のように私の胸を刺した。

 

『お前はいつか茜の好意を振り払って心を抉る』

 

 長谷川の言葉は今現実になっている。他でもない私が現実にさせてしまった。

 茜とこの関係になってから私は何度も彼女をぞんざいにあしらったが、今初めて己の態度に罪悪感を覚えたのだった。

 

 謝らなければいけない。

 

 人として思う。

 私は居住まいを正しながら恐る恐る茜……、と泣き声に割って入る。

 

「ご、ごめんなさい……。茜のことなんにも考えず……馬鹿にしたのは間違いだった。ごめん……」

 

 謝罪のためにこうべを垂れた。視界には手が置かれた自分の膝しかないため、茜の様子は分からない。

 

「それに……思惑はどうあれ、私は助けてもらったわけだし感謝してる。だから……私が謝りこそすれ、茜が謝る理由はない。だから……その……ごめんなさい」

 

 なおいっそう深く頭を下げた。

 同じ言葉の繰り返し、言葉足らずになってしまった文で謝意が伝わったかどうかは受け手本人でないと分からない。

 それでもすんすんという泣き声はいつの間にか止んでいた。

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