スキップ

加加阿 葵

スキップ

 アプリの名前は「スキップ」。評価は星4.8。レビュー数は78万件。

 

『嫌な時間を飛ばせます。面接、手術、受験、予防接種。なんでも。あなたの意識だけが、指定した日時にジャンプします』

 

 ダウンロードは無料。広告もない。運営会社の情報はない。でも、レビューは本物っぽかった。

 

「転職の最終面接、全部スキップしました。気づいたら内定もらってました」

「抗がん剤治療の六ヶ月、飛ばしました。髪は抜けてたけど、苦しみは知りません」

 

 俺は明日、第一志望の会社の面接がある。

 人生で初めての本格的な面接。手が震える。声が裏返ったらどうしよう。頭が真っ白になったら。考えただけで胃が痛い。準備は完ぺきにしたつもりだけど、眠れない。

 

 深夜二時。俺はアプリを起動した。

 

『スキップしたい期間を選択してください』

『※スキップ中のあなたの行動は、過去の思考とパターンをもとにAIによって自動最適化されます』

 

 今から明日の十二時まで。面接が終わって、会社を出るまで。

 

『本当にスキップしますか? この時間のあなたの行動は自動化されます』

 

 迷わず、YESをタップした。


 気がつくと、駅のホームにいた。スマホを見る。午後十二時十五分。

 本当に時間が飛んでいる。

 

 体を確認する。スーツは少し汗ばんでいる。ネクタイが微妙に緩んでいる。カバンの中の資料は、順番が変わっている。俺は確かに面接を受けたんだ。でも、その記憶がない。

 緊張も、不安も、何も味わっていない。


 駅のベンチに座り込む。合否は一週間後。

 面接官は「遅くとも一週間以内には連絡します」と言っていたらしい。俺の手帳にメモが残っている。俺の字で。

 一週間。結果を待つ一週間。これも地獄だ。毎日メールを確認して、電話が鳴るたびにビクビクして。

 

 俺は再びアプリを開いた。

 

『スキップしたい期間を選択してください』

 

 今から一週間後の同じ時間。

 

『本当にスキップしますか?』

 

 YES。

 

 気がつくと、自分の部屋にいた。スマホを見る。本当に一週間経っている。

 震える手でメールを開く。

 三日前の日付で、内定通知が来ていた。

 

 やった。受かった。面接の緊張も、一週間の不安も味わうことなく結果だけを手に入れた。

 でも、なんだろう。この空虚感は。

 その夜、同じ面接を受けた友達から電話が来た。

 

「お前、受かったんだってな? おめでとう! お前が受かって本当に嬉しいよ。面接の後、『どうだった?』って聞いた時、お前が『わかんない、でも全部出し切った』って震えながら言ってたの、面白くて忘れられないよ」


 覚えていない。当たり前だ。俺は、そこにいなかったのだから。


 入社式。スキップ。

 新人研修。スキップ。

 配属先での初日。スキップ。


 気がついたら、仕事に慣れていた。同期とも仲良くなっていた。特に、同じ部署の美咲とは妙に距離が近い。

 

「今度、飲みに行かない?」

 

 美咲からのLINE。どうやら研修中に仲良くなったらしい。でも、どんな会話をしたのか、覚えていない。


 初デート、緊張するからスキップ。気がついたらいい雰囲気で終わっていた。

 

 2回目、3回目のデート。全部スキップ。

 

 告白の瞬間も、スキップ。気がついたら、付き合っていた。


 美咲が言う。

 

「私、あなたの告白、すごく嬉しかった。『美咲といると、明日が楽しみになる』って」

 

 俺が、そんなこと言ったのか。

 初めての喧嘩。スキップ。仲直りしていた。

 

 プロポーズ。怖いからスキップ。うまくいっていた。

 

 結婚式。緊張するからスキップ。


 新婚生活三ヶ月目。美咲が、アルバムを見ながら言った。

 

「結婚式の時、あなた泣いてたよね。私のお父さんが『娘をよろしく』って言った時」

 

 知らない。

 

「初めてのデートの時、緊張しすぎて、コーヒーこぼしたよね。その時の慌てた顔、可愛かった」

 

 覚えていない。

 

「告白の時、声が震えてた。でも、一生懸命で、それが嬉しかった」

 

 全部、全部、知らない。


 美咲が俺を見つめる。

 

「ねえ、最近のあなた、なんか変。体はここにいるけど、心がどこか遠くにいるみたい」

 

 ある日、会社で大きなプロジェクトのリーダーに選ばれた。

 プレッシャーが怖い。三ヶ月間スキップした。成功していた。でも、部下たちとの絆はできていなかった。

 

 美咲が妊娠した。

 つわりで苦しむ期間。スキップ。

 

 出産。怖いから、スキップ。

 

 気がついたら、俺は父親になっていた。

 

 娘が三歳になった朝、小さな手で俺の顔を触りながら聞いた。

 

「パパ、私が生まれた時、どんな顔してた?」

 

 答えられなかった。

 美咲が横から言う。

 

「パパはね、嬉しすぎて、廊下で一人で、泣いてたんだよ」

 

 俺は、泣いたのか。嬉しかったのか。

 でも、その記憶がない。感動がない。ただ、「父親になった」という結果だけがある。

 

 その夜、久しぶりにアプリを開いた。新しい通知が来ていた。

 

『あなたは人生の71%をスキップしました。残りの人生もスキップしますか? 老衰で安らかに死ぬ瞬間まで飛ばせます』

 

 美咲と娘の寝顔を見た。

 この二人との出会い、恋、結婚、出産。全部の「大切な瞬間」を、俺は怖いから、緊張するから、不安だからって飛ばしてきた。

 

 結果だけ見れば、俺は成功者だ。

 いい会社に入って、素敵な奥さんと結婚して、可愛い娘もいる。

 

 でも、俺の人生には、物語がない。

 震える指で、アプリを削除した。

 

『本当に削除しますか? これから先の全ての苦しみを、あなたは味わうことになります』

 

 YES。

 

 明日、娘の保育園の運動会がある。

 パパの競技もあるらしい。運動音痴の俺は、きっと恥をかく。転ぶかもしれない。ビリかもしれない。

 

 でも、もう逃げない。

 

 娘が「パパ、がんばって!」って応援してくれる声を、この耳で聞きたい。

 

 転んだ時の痛みも、恥ずかしさも、全部味わいたい。

 

 そして、終わった後、「パパ、かっこよかった!」って言ってもらえるかもしれない、その瞬間を今度こそこの心で感じたい。

 

 美咲が寝返りを打った。寝ぼけた声で「どうしたの?」と聞く。

 

「いや、なんでもない。ただ明日が楽しみだなって」

 

 本心から、そう思った。

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