第2話 入店

 店内は目も開けていられないほどの猛吹雪だ。

 京都生まれ、京都育ちの水生野にとって、雪自体はさほど珍しいものではない。1月になれば、京都駅周辺も一面雪景色になる。みんなが雪で濡れた靴で歩くものだから、駅の地下の床はつるつると滑りやすくて恐ろしい。南北自由通路に続く階段を昇る際は、手すりを持たないと転倒の恐れがあるので、出来るだけエスカレーターを使うようにしていた。

 京都市内でも気温に差はあり、駅周辺はまだ温かいほうだ。地下鉄で北上し、国際会館方面にまで行くと、気温はさらに低下する。去年、とある用事で真冬の北山に降り立ったが、地上に出た瞬間に視界は白一色になった。あの辺りは人通りもさほど多くないので、雪につけられた足跡も少ない。京都駅周辺であれば、誰かが歩いて雪が溶けたあとを踏んで歩けば、転倒のリスクも回避しやすくなるのだが。

 しかし雪を見慣れた水生野にとっても、こんな猛吹雪は初めての経験だった。息を吸おうとすると肺が凍り付きそうになった。

 件は鴨川に面した地下のバーで、窓からは外の様子がよく見える。等間隔に並んだカップルや、それを真似て川辺に腰を下ろす外国人観光客。彼らはみな、うだるような暑さに苦しんでいる。ハンディファンで涼もうとしているが、京都の夏の前では無意味に近い。いっそのこと川に飛び込んだほうが、涼を得られるかもしれない。

 それを見て水生野は確信した。やはり雪が降っているのは、件の店内だけだ。

 とにかくこれ以上雪が吹き込んできては、店が銀世界になりかねない。かじかむ手で木製の引き戸を閉め、女性客を席へと案内した。

 「こ、こちらのお席へどうぞ…」

 椅子の背もすっかり冷たくなっている。制服の袖を引っ張りあげ、手を覆いながら椅子を引いた。

 女性客は軽く会釈をしてから、席に座った。この猛吹雪に何のリアクションもないのは一体どういうことなのだろう。

 客が席に着くと、まず水生野がすべきことは、水とおしぼりの提供である。おしぼりは普段、ほどよい温かさが保たれているのだが、今日ばかりは冷え切っていた。というか先ほどの冷気のせいでカチカチだ。こんなものをお出ししていいのかと不安になったが、今から温めるにも時間がかかるので、完全に凍り付いた状態でカウンターに置いた。ごとり、とあり得ない音がした。

 「水生野、コート」

 霞木に言われて気が付いた。女性客は、8月の京都でまず見ることのない服装をしている。厚手のファー付きコートに、その中は白のニット。サマーニットではなく、真冬に着るタイプのものだ。

 「失礼しました。お召し物お預かりします」

 客の着ているコート類は、こちらで預かるのが基本だ。女性客が脱いだコートをハンガーにかける。

 ここまでの所作は、久米に教わった通りにこなせている。肝心のオーダーについてだが、これが中々難しいのだ。

 新規の客であれば、こちらからオーダーを伺う。味の好みやその日の気分で注文する人もいれば、なにかお勧めは?と聞いてくる人もいる。水生野は酒好きではあるが、カクテルなどの種類に詳しいわけではないので、正直聞かれても困る。そういう時は霞木にバトンタッチ。水生野が受けられるオーダーは、せいぜいスタンダードカクテルや、有名どころの銘柄のウイスキーくらいだった。

 気を付けなければならないのが、常連客だ。入って日が浅い水生野は、誰が常連で誰が新規なのか、一目で判断がつかない。常連は既にルーティンが決まっており、何も言わずとも、いつもの酒が提供される。霞木は個人の注文内容を全て記憶しており、席に着いた時点でグラスの準備を始める。無口ながら、客のことはよく観察しているし、記憶力も抜群だ。そこは尊敬に値する。

 さて、この女性客は一体どちらなのだろう。

 水生野はカウンター側へと引っ込み、オーダー用紙とペンを準備した。

 霞木は何も言わず、カクテルグラスを棚から出した。そしてウォッカとホワイトキュラソー、ライムジュースを加えてシェイクし始めた。ということは、彼女は常連なのだろう。

 使う酒の種類を見ただけで、なんのカクテルが出来あがるのか水生野には分からない。分かることと言えば、ウォッカベースのカクテルだということくらいだ。

 誰も何も話さない静かな空間に、シェイカーの音だけが響く。

  

 

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