Ex1 ユリスの願い

 街はいつもと変わらず賑やかだった。〈レグナス〉の中央広場には露店が並び、香ばしいパンの匂いと子どもたちの笑い声が混じり合う。だが私の目には、その均質な景色の裏に揺らぐ膜が透けて見えていた。

 世界は何度も壊れて、修復されてきた。それを知っているのは、ほんの一握り。私はその一人であり、そして「係留者」としての役目を背負わされている。


 仲間の会議室で交わされた声が耳に残っている。

「蓮を柱にすれば裂け目は閉じる」

「彼が犠牲になれば街は守られる」

 アルマの冷徹な声、イオの淡々とした数値の読み上げ、ガランの舌打ち。

 私は唇を噛んでいた。胸の奥で、布片の感触が疼いていたから。


 ——青い布。

 幼い日に蓮と遊んだ路地の片隅、石畳の隙間に宝物のように隠した小さな布切れ。あの日、彼は遊びに負けて悔し涙を流し、私は笑いながらも一緒に探した。その布片は、修復の波に何度も消されそうになりながらも、なぜか私の手元にだけ残った。

 それは、蓮が「人間」であった証。私にとっての唯一の鎖。


 だから私は言った。「係留点は私がやる」

 誰が何と言おうと、彼を人間として繋ぎ止めるのは、私の役目だと。


 市民の笑い声の裏で、私は青い布を指先で撫でる。柔らかなはずなのに、ざらついた感触が確かにそこにあった。世界が幾度も塗り直されても、この小さな布は「昨日」を覚えている。

 蓮を犠牲にするなんて、絶対にさせない。



 夜、広場の灯火が静まる頃、私は一人で境界の気配を探った。空気の奥に赤黒い波が渦巻き、近く訪れる戦いを予告している。胸が締めつけられる。けれど、恐怖よりも強くこみ上げるのは決意だった。


「蓮。あなたは人間として戻る」

 声に出すと、不思議と胸が軽くなった。まるで未来に先んじて誓いを刻んだような感覚。


 私は布片を胸元に押し当てる。かつての笑い声、涙の記憶、夏の石畳の熱。それらが波のように押し寄せ、私を支える。

 境界守の仲間たちはそれぞれに役割を持ち、犠牲を払う覚悟をしている。ならば私も、私だけの役目を果たそう。


 次に裂け目が開いたとき、蓮は必ず揺らぐだろう。赤黒い囁きに飲まれそうになるだろう。だが私は何度でも呼び戻す。名前を呼び、手を掴み、青い布の記憶を渡す。

 それが、私の願いだ。


 夜風が頬を撫でる。遠くで祭りの残響のような笑い声が続く。

 私は目を閉じ、静かに誓いを重ねた。

「私は係留者。あなたを繋ぎ止める。何度でも」


 そう呟いた瞬間、胸の布片が温かく脈打つように感じた。世界の修復にさえ消されない「記憶」が、私の中で強く生きていた。

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