第24話 兆しの裂け目

### 第24話「兆しの裂け目」


 翌朝の〈レグナス〉は、いつもと変わらぬ賑わいを装っていた。市場には果物の香りが漂い、子どもたちが追いかけっこをしていた。だが篠森蓮の目には、その光景が薄い膜に覆われた幻のように映った。笑顔の裏で、どこかぎこちない沈黙が揺れていたからだ。


 空を仰ぐと、青空の一角が僅かに歪んでいる。赤黒い亀裂が糸のように走り、すぐに消えた。周囲の人々は気づかず、ただ日常を続けている。蓮だけが息を呑んだ。


「……裂け目が広がってる」


 呟きは風に紛れたが、隣にいたユリスには届いていた。彼女は視線を空に走らせ、眉を寄せる。


「もう隠せないかもしれないね」


 二人の間に沈黙が落ちる。だがその沈黙は、市民が強いられた沈黙とは違っていた。確かに、共に立つ者の沈黙だった。



 一方、境界守の会議室では緊迫した議論が続いていた。アルマが机に地図を広げ、指で円を描く。その円は首都を中心に赤く染まっていた。


「崩壊の浸蝕は進行している。今や街全体が裂け目の周辺にあると考えてよい」


 ガランが低く唸る。「防衛線を広げろ。城壁の外に拠点を置き、裂け目を封じ込めるべきだ」


「無意味だ」イオが冷静に返す。「裂け目は場所を選ばない。修復も追いつかなくなっている。問題は“誰が呼び水になっているか”だ」


 室内の視線が一斉に蓮へと向かう。彼は何も言えず、拳を握りしめた。ユリスが即座に口を開く。


「蓮を疑う前に、裂け目の主を探すべきだわ」


 その声は鋭く、室内の空気を切り裂いた。アルマは短く目を閉じ、思案の表情を浮かべる。


「……真実は時間が暴く。我々に残された時間は、そう長くはない」



 夜。街の外れ、崩れた古塔の影で、セラはひとり術を唱えていた。掌に灯る光は微かに震え、塔の壁に赤黒い紋が浮かび上がる。修復が追いつかない傷跡が、確かにそこにあった。


「こんなに早く……」


 声が震える。寿命を削る術を使わなければ、裂け目はすぐに街へ流れ込む。彼女は躊躇しつつも光を強めた。頬が蒼白に染まり、膝が震える。それでも手を止めることはできなかった。



 その頃、蓮は夢を見ていた。赤黒い大地に立ち、裂け目の向こうから影が這い出す。巨きな瞳がこちらを見つめ、声が響く。


 ――近い。選択の時は近い。境界は裂け、均衡は崩れる。


 蓮は目を覚ました。汗が背を濡らし、心臓が暴れるように打っていた。窓の外には星が瞬いている。だがその奥に、亀裂の光が確かに揺れていた。


「……もう逃げられないんだな」


 呟きは夜に吸い込まれ、裂け目の先から再び囁きが返ってきた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る