第5話 犠牲の規律
### 第5話「犠牲の規律」
朝靄のかかる外縁区。水路の上に掛かる小さな石橋で、境界守の哨戒が交代する。鐘はまだ六つ。人通りは少なく、露店の布が風に鳴っていた。
篠森蓮はアルマに随伴し、初めての現地観察に出ていた。同行はガラン、イオ、セラ。四人は淡々と配置につき、蓮には「見るだけ」が命じられている。
「裂け目の前兆、微弱。波長、主系の下位」
イオが結晶をかざす。水面の揺らぎが、心臓の鼓動と逆拍で脈打った。
アルマが短く指示を飛ばす。
「封鎖陣、半径二十。一般人の退避は不要、気づかない」
セラが石橋の欄干に掌を置く。淡い膜が水面から立ち上がり、薄硝子のような囲いを作った。蓮にはその膜の外側に“表”の街が揺らいで見える。
水路が裂けた。赤黒い縫い目が水を割り、影獣が一体、ぬらりと顔を出す。穴のような顔。石橋が軋み、欄干の影が長く伸びた。
「一体、処理する」
ガランが前へ。巨刃が半円を描き、水飛沫が黒く染まって弾けた。影獣は即座に二つに割れ、砂鉄の煙となる。終わった――はずだった。
次の瞬間、縫い目は二重になり、二体、三体と続けざまに這い出す。水路の底が深く沈み込み、周囲の石が欠け落ちた。
「持続伸長。五分が七分に――」
イオの声と同時に、若い境界士が駆けつける。補給線にいた予備戦力だ。まだ少年の面影を残す顔に紋章が光る。
「俺が塞ぎます!」
「待機だ」
アルマの制止は一拍遅れた。若い境界士は縫い目に飛び込み、両掌を突き合わせ、自己の紋章を焼く。肉が焦げる匂い。石橋の上に白い煙が上がった。
縫い目が縮む。だが同時に彼の胸が内側から崩れ、骨が音もなく砕けていく。セラが悲鳴を飲み込み、駆け寄る。
「変換術、私が引き受ける――」
「下がれ、セラ」
アルマの声は冷たい。だが震えてはいない。ガランが二体を屠り、三体目が蓮の方へ跳んだ。蓮の喉が熱くなる。足が一歩、前に出た。
「動くな、篠森」
刃のような声が蓮を縫い止める。アルマが片手で結界を落とし、影獣の爪先を隔てた。
若い境界士の体が、光の粒に解けていく。セラは彼の手を包み、震える声で術を重ねるが、代償は変わらない。彼の瞳がアルマを、仲間を、そして蓮を順に見て、安堵とも悔恨ともつかない色で止まる。
「……大丈夫です。これで、塞がる」
最後の言葉は声にならなかった。光が水路に吸い込まれ、亀裂が閉じる。欠けた石が元の形に戻り、破れた布が縫い合わさり、通りの人々が何気ない足取りで橋を渡っていく。
世界は、元どおりになった。
ただし、その“元どおり”には一人分の重さが含まれている。
セラが膝をつき、静かに目を閉じる。掌が僅かに赤い。変換術が彼女の寿命を確かに削っていた。イオは結晶に淡々と記録を刻み、数値を読み上げる。
「封鎖完了。代償一。修復齟齬、極小。市民影響、ゼロ」
ガランは刃を拭い、低く吐き捨てる。
「良い死に方だった」
蓮は吐き気に似た感覚を押し殺す。足元の石畳は冷たく、橋の欄干には朝露が戻っている。さっきまで“誰か”が握りしめていた温度だけが残像のように指先にまとわりついた。
「――報告。規律どおりだ」
アルマは目を伏せずに言う。声は硬く、わずかな揺れさえ許さない。
「犠牲は前提。修復を優先」
その言葉は壁の掟文を読み上げるように乾いていたが、命令の重さは石より重かった。蓮はようやく理解する。世界は屍で維持される。犠牲は手段ではなく、構造そのものだ。
見上げれば、朝の雲が薄い。人々はパンを買い、笑い、噂話を交わす。誰も何も知らない。今日の橋で、何が起きて、誰がどこに還ったのか。
蓮は唇を噛む。胸の奥で赤黒い波が、静かに、うねった。
「篠森」
アルマが名を呼ぶ。灰金の瞳が、無感情の面を保ったまま、ほんの僅かに光を揺らす。
「見たものを、忘れるな」
蓮は頷いた。目を閉じれば、若い境界士の瞳が最後に掠めた安堵の色が浮かぶ。それは蓮の胸の灯に重なり、痛みとともに沈んでいった。
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