第3話

 普通、死んだ人間は生き返ったりしない。

俺の持つその常識はこの世界では間違っているのか?


 そもそも、この声は本当に隣の部屋にいる女性が発しているものなのか? 録音機械か何かで俺を陥れるために再生されているものなのでは? それとも、俺の頭の中にだけ鳴り響いている幻覚なんじゃないのか?

 よしんば隣の部屋には実際にあの声を発している彼女が実在するとして、その話す内容が正しいという保証は? 


 俺は、自分自身に関するあらゆる記憶が無い、という異常な状態でこの部屋に閉じ込められている。同様に、隣の部屋の彼女も、何らかの精神的な変調を来した上で隣の部屋に閉じ込められているのではないのか? 

 たとえば、「自分は許嫁に殺されてから生き返ったゾンビである」という妄想を心底から信じ切ってしまっている――というような。


「……お兄さま、お兄さま、お兄さま。なぜ、御返事をなさらないのですか。あたしがこんなに苦しんでいるのに……タッタ一言、タッタ一言……御返事を……」

「…………」

「……タッタ一言……タッタ一言……御返事をして下されば……いいのです……そうすれはこの病院のお医者様に、あたしが■■■■でないことが……わかるのです。そうして……お兄様もあたしの声が、おわかりになるようになったことが、院長さんにわかって……御一緒に退院できるのに……お兄様、お兄様、お兄様、お兄様……なぜ……御返事をして下さらないのですか……」 

 俺の感覚ではウェブ小説内での使用に向かなさそうな単語も飛び出しつつ、その声はいっそう切なさを増すばかりだった。


 正直に言って、俺はこの声にほとんど完全に心を奪われていた。

 今すぐに目の前の壁をぶち破ってでも、声の主に会いたいという衝動に駆られていた。


 冷静に考えるならば、俺はこの声に対して軽率に返事をするべきではない。


 声の主が実在するとして、彼女もまた精神的に何かの問題を抱えており、彼女の呼びかけの相手が、彼女の深刻な幻覚そのものに他ならないとしたなら、どうだろう。俺がうっかり返事をしようものなら、それが大変な間違いの原因にならないとは限らない。

 

 あるいは、彼女が呼びかけている人間が、確かにこの世に現存している人間で、しかしそれは俺ではない、としたらどうだろう。俺は自分の軽率さから、他人の恋人を横取りしたことになるのではないか。他人の恋人を冒涜したことになるのではないか、云々。


 ……と、いったようなことを考えた末に、俺は結局のところ、この声に対して返事をせず、無視する――もし冷静であったなら、俺はそういう判断をしていたと思う。


 だが、今このとき、俺は熱病に浮かされたような気分になっていて、そんな仮定の話などには一切頓着せず、ただただ声の主に会って、愛を叫んで抱きしめたい、という感情に支配されていたのだった。それはきっと、雛鳥が生まれて初めて見たものを親だと思い込むという、刷り込みの衝動に近いものだった。それでも構わないと思った。畢竟ひっきょう、運命の相手との出会いなどというものは摺り込みと同じ錯覚によって生まれるものだろうという思いがあった。


 目の前の青黒いコンクリートの壁――俺にとって、それだけがあまりにも強固な障害だった。

 俺の常識は、素手の人間がコンクリートの壁を破壊することなど不可能だと告げている。


「……アッハッハッハッハッ!」

 俺は突然に、可笑しくてたまらなくなっていた。たまらなくなって、床の上に引っくり返った。馬鹿馬鹿しい、馬鹿馬鹿しい、馬鹿馬鹿しい! 身を捩って笑い転げて涙を飲んだ。


 最前まで全ての記憶を失っていた俺が、どうしてそんなつまらない常識なんかに囚われているというのだろう。

 

 確かに、俺は自分の持つ観念から極端に離れた想定は無視することにする、とさっき決めたばかりだ。


 だが状況が変わった。

 ――彼女に会いたい。

 この狂おしい感情が、たかがコンクリートの壁一枚に否定されるというのなら――俺は自分の持つ常識のラインを引き下げることに些かの躊躇もない。「人間が素手でコンクリートの壁を破壊することは可能である」というところまで、常識のレベルを引き摺り落としてやる。


 そうと決めると、途端に全身に力が漲ってきた。俺はゆっくりと右手に拳を握り、壁に正対して腕を引く。


「お兄様、お兄様、お兄様。あたしはあなたのものです。あなたのものです。早く……早く、お兄様の手に抱き取って……」

「ああ……今そっちに行く。待っていろ……」

 俺は深く息を吸い込んで、渾身の右拳を壁に向かって叩き込んだ。

「オラアアァッ!」

 一瞬のうちに、コンクリートの壁に大小の亀裂が無数に走って、ビスケットのようにあっけなく砕け割れる。

 ……ガラガラと大きな音を立てて、俺と声の主を隔てていた障壁は消え去ったのだった。


 そして、俺は声の主、「彼女」と出会う。

 あるいは、再会したというのだろうか。


「お兄様……!」

 どれだけ泣き腫らしたのか知れない、涙で一杯の瞳――

 声にならない声をあげて、崩れ落ちる彼女を、俺はどうにか寸前で抱き止めていた。

 体温と、鼓動と、匂いがある。俺も彼女も、確かにここに生きている、という感覚がある。

 何か、素晴らしいもので胸が一杯になっていくような感慨があって、俺は、もう自分が何者であろうと構わない、ここが終着点だって何の問題もない、世界の中心は、今ここにあるのだから――そんなことを考え始めていた。


 そのとき、バアーン! と猛烈な音が鳴り響いた。

音のした方を見ると、俺がいた部屋の扉がものすごい勢いで開かれたのだとわかった。

「はわわ……こ、こんなはずでは……」

 そして開かれた扉の前には、白衣を着た幼女が、唖然とした表情を浮かべて突っ立っていたのだった。

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