第29話 慟哭~一ノ瀬みうの自分語り

 耳元の羽音と虫かなにかに刺された感覚に思わず自分で叩いた頬の痛みで、くじらは目が覚めた。手のひらを見たが、なにもいなかった。

「なにか……いた?」

 声に振り向くと、くじらの顔をしたガウン姿の中年が隣から心配そうに覗き込んでいた。入れ替わりは戻っていない。

「いや、なんか虫が飛んでたみたいで」

「そんな強く……た、叩かないで……。私の……顔」

「すいません」と素直に謝るくじらは、横目でヘッドボードの時計を見やる。デジタル表示は02:28。たぶん三十分かそこらしか寝ていないはず。

「一ノ瀬さん、寝てなかったの?」

「や、寝てた……けど、私も羽音、うるさくって……」

 くじらはヘッドボードのつまみを回し、部屋を少し明るくした。だが、それらしい虫は見つからなかった。

「俺も羽音を聞いた気がするんだけど、見当たらないや」

 そのままの流れで、ボードの横に置いていたスマートフォンを手に取る。開いた画面はディスコ―ドのコメントラインになっていた。と、新しいメッセージが入ってきた。


――――

ひとかげとかげ 02:30


くじらさん、起きたの?

元に戻ってた?!

――――


 遡ってスクロールすると、千百閒といんかむげいんが就寝コメントとともに離脱していた。

 宮部さんと桃山さんはまだ起きて聴いてるのかな?

 ひとかげとかげからのコメントの返事に短く「まだ」と打ち込んだくじらは、画面そのままにスマートフォンを元の位置に戻した。

 なにか言いたげな顔をする一ノ瀬に、くじらは柔らかな笑顔で応える。

「分析官のひとかげさんがこっちの声を拾ったみたいで、戻ったのかって聞いてきたから、まだって送っただけ」

「そう、ですか……」

 ひと言だけ返してうつむいた一ノ瀬は、しばしの沈黙のあと、意を決したように顔を上げた。

「あの!」

 無言で顔を向けるくじらは、とにかく自分の視線が強くならないことを一番に気をつける。

「び、ビール、飲んでもいいですか!? す、すぐにはね、眠れそうに、ないんで!」

 どもりながらも強い意志を持って自分の要望を伝えてくる一ノ瀬に、くじらは笑顔で「もちろん」と応え、自ら立ち上がった。

 自動でカウントするタイプの冷蔵庫から抜きだした缶ビールを二本持ってベッドに戻ったくじらは、そのうちの片方を一ノ瀬に手渡すと残りの缶のプルトップを開けた。

「グラスで飲む派もいるけど、俺は、缶ビールはそのままが好きかな」

 先に飲み始めたくじらを見て、一ノ瀬も缶を開けた。


 二本目が空き、中年オヤジの頬がほんのりとピンクに染まったころには、一ノ瀬の舌もだいぶ滑らかになっていた。

「わらし、本当にひとに合わせるのが苦手なんれす。とくに男の人。頭がパニクっちゃって、じぇんじぇん口も動かないし、知能も半分になってしまふの」

 くじらはにこにことうなずきながら、ただ黙って一ノ瀬の話を聞いている。

「ほら、その笑顔! くじらしゃんはなんでそんなにわらしの顔をうまく扱えるの?! わらしなんて、じぇんじぇん笑えないのに!」

 一ノ瀬の握るビールの缶がぺこん、と音を立てた。

「吃音らって、そう! 男の人と、わらしそんなにちゃんとひゃべれない! 酔わないと、ひゃべれない!」

 口の筋肉はそんなに癖がついてなかったから、たぶん男と話す機会自体が少なかったんだろうな、とくじらは当たりをつけた。

 その苦手意識は経験値不足が要因の中心かもね。

 それにしても、とくじらは思った。

 二缶ふたかんでこんなに酔うほど俺の身体はやわじゃなかったよな。やっぱその辺も意識に引っ張られるんだろうか。

「わらし、そんなにうまくわらしをれきない! くじらしゃんの方が、じぇんじぇんわらしに似合ってるぅ……う、う、う」

 一ノ瀬は肩を震わせ始めた。

 中年のおっさんの、ましてや鏡像みたいな自身のそんな姿を見せられると気不味いにもほどがある。が、そんな見た目は封じるしかない。

 くじらはむせび泣く一ノ瀬を黙って見守る。

 ほどなく治まった一ノ瀬は、トーンの落ちた声で話し始めた。

「くじらしゃん、こちょーのゆめって知ってます?」

 胡蝶の夢。荘子が見た夢の話か。蝶の夢を見てる自分と自分の夢を見てる蝶のどちらがホンモノなんだろうか、って奴。

 くじらは無言でうなずいた。

「わらし、あれを感じたんれす。昼間、くじらしゃんが宮部みゃーべしゃんと話してるの見てて。わらしはホントはおっしゃんで、いままでのわらしは、おっしゃんのわらしが見てた夢じゃないかって」

 一ノ瀬は首をがくがくさせながら続けた。

「わらしなんて、もう、いなくてもいーんじゃないんれすか!! このままこんくりーとにつめて大阪湾おーしゃかわんにれもしじゅめてくらしゃい!」

 また物騒なことを。てか、俺の身体を勝手に大阪湾に沈めないでくれ。

 慟哭する写し絵の自分を目の当たりにし、くじらが愕然とした。

 それにしても自己評価が低すぎるよ。この子の自我アイデンティティは、こんなにも脆いのか。このままじゃだめだ。なんとかして自信を、アイデンティティを取り戻させなきゃいけない。そしてそれができるのは、たぶんこの子の姿をした俺だけ……。

 くじらは強く思った。俺が今、動くしかない、と。

「ねえ一ノ瀬さん。ちょっといいかな」

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