第6話 片方(かたえ)~誰かが得すれば誰かが損する

 一ノ瀬いちのせは強い尿意を覚えていた。

 朝が苦手な彼女は、名古屋駅を九時五十分発の新幹線に間に合わせるためにかけていた目覚ましを三十分近くも放置していた。おかげで食事はおろか化粧もおざなりに、家を飛び出さなければならなかったのだ。当然、出がけの用足しも省略した。

 今日は生まれて初めてのフリマ参加。大阪在住のフォロワーさんと連絡を取って、自作本を頒布する。オフ会するのも手渡しで本を売るのも全部初めてだから、心の裡は期待と不安が行ったり来たり。地元の駅前パン屋で買ったサンドイッチも半分しか食べられず、クーラーボトルに詰め替えた大日ヶ岳の天然水をただただがぶ飲みして気持ちを落ち着かせていたのだ。

 京都はさっき過ぎたから、次はもう終点の新大阪。トイレ行くなら今しかないよね。

 振動する車両の、通路側の席を立って前方の扉に向かう。これが窓際だったら無理して我慢しちゃうんだろうな、と一ノ瀬は思った。

 女性用と男女兼用が並ぶサニタリーエリアの前で、一ノ瀬は緊張していた。列車のトイレも初めてなのだ。元来がんらい人とのコミュニケーションが苦手な彼女は、高校の修学旅行も仮病で欠席していた。旅行自体、家族と一緒のドライブくらいしか経験していないから、ひとりで出掛けるのも初体験。

 幸いここには誰もいないしどちらのトイレも空いているので、逡巡していても見咎められない。と思っていたら、九号車の扉に人影が映った。迷いを振り切って、一ノ瀬は女性専用の方に飛び込んだ。


 気持ちよいくらいの勢いで便器にあたる黄金水の音を聴きながら、一ノ瀬はしばし放心していた。

 思えばこの一年は驚きばかりだった。

 高校卒業の記念にと、三年かけて書き溜めていた小説をライトノベルの文学賞に応募したのが去年の春。予想外に好評を得たその作品は、見事準大賞に選ばれた。受賞発表前の五月に主催する出版社からコミカライズの打診を受け、秋には一ノ瀬みう原作のコミックが書店の棚に並んでいた。

 二度の大学受験に失敗して自宅にこもっている一ノ瀬にとって、創作という作業は自己形成アイデンティティのすべてと言っても過言では無い。賞を取れたことはもちろんだが、それと同じくらいに投稿サイトを通じた人たちとのやりとりが、彼女の存在理由になっている。その声に後押しされて、今日開催の文学フリマ大阪に出てみようと決めたのだ。

 可愛いんだから、もっと外に出てアピールしなよ。絶対楽しい人生が送れるよ。家族やクラスメイトは口々にそう言ってくれた。だけど私にはそうは思えない。たしかに親からの遺伝のおかげで顔立ちは悪くないかもしれない。でも、この引っ込み思案の性格は、そんな外面なんて軽く蹴っ飛ばしてしまう。小説を書く以外に、自分を表現する手段なんて考えられないよ。そういう意味でも、やっぱり今日は楽しみ。まさしく人生の転機イベントって感じ……。

 いつしか彼女は意識を飛ばしていた。数分なのか、一瞬なのか。


 隣の部屋の扉が開く音で気がついた。もうすぐ到着を知らせるアナウンスも鳴っている。

 こんなとこで座り込んでちゃいられない。

 ウォシュレットのビデボタンを押して、ペーパーをぐるぐると引き出していた一ノ瀬は、不意に気づいた。水流の感触がいつもとはぜんぜん違う、と。

 恐る恐る頭を俯かせ、下を覗き込んだ。

 視線の先には、見たこともない、でも知識として知らないわけでもない異形の物体が、両足付け根の中央でその存在を誇示していた。

 一ノ瀬の喉は記憶にないほどの大きな悲鳴を上げた。だがその声は、自分のとはまるで違う野太く濁った音になっていた。

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