ガラスと蛙と君の

水上 耀

第1話

 スーツを着た男は、荒れた唇の隙間からぼそぼそと発される言葉を聞き漏らさぬよう、アクリルガラスに空いた穴へ耳を傾けていた。

「わかりますか、この部屋は、なんだか甘酸っぱい香りがしますよね」

「すみません、こちらからはちょっとわかりませんね」

 長い前髪を垂らし、背を丸めた、伏目の男。彼からの脈絡のない質問に、スーツの男は困惑を押し隠しながら答えた。

「ここの人は、みんな親切です。しかし、彼らはみんな、拍子抜けしているように見えます。僕が意外とおとなしいからですかね」

 よく見ている、とスーツの男は思った。猫背の男の視線はいつも彼自身の前髪に遮られていて、しかしその奥で誰よりも人目を気にしているようだった。目元に走った古傷が見え隠れしていた。

「ただ、食事がよくないです。彼らが持ってきてくれる食事は、ひどいものです」

「なぜですか。お米に味噌汁、それに決して貧相ではないおかず。献立の内容は、常に過不足ないものと聞いています」

「いいえ、味がしないのです。なんせ、なんの味もしない」

 スーツの男は、宥めるように言った。

「でも、食事はしっかり摂らないと、ですよ。あなた、全然食べていないらしいじゃないですか。健全な精神を作るのは健康な肉体であり、その肉体を作るのは食事です」

「そうですよね、それは僕もよくわかります」

 彼は、握り込んだ拳から人差し指だけをぴっ、と伸ばして、口角をゆっくりとあげた。その指は嫌に傷だらけで、瘡蓋を幾度も剥がしたような荒れ具合だった。爪は極端に短く丸められていたが、その先端は齧ったように凸凹だった。長い前髪の隙間からかすかに覗く瞳は、とても無邪気に輝いていた。

 彼は、口の隙間から溢すように、かすかな声で言った。

「よさげだろうか。うん、よさげだな」



 お皿が床へ叩きつけられたあとのように、粉々の星が夜空に散らかっていました。その日、どうも月はお休みだったようです。足元を照らしているのは、すぐ横で苦しそうにちかちかしている電灯だけでした。月だってずっと浮かんでいては骨が折れてしまうでしょうから、仕方のないことだったと思います。

 路肩にしゃがみ込んで、じぃっと視線を這わせます。帰り路にそうやって今日の一品を選ぶのが、ずぅっと習慣でした。

 ちなみにいうと、その日は普段よりも少しだけ気分が良かったのです。だから、その日あったことも、多少はっきりと覚えています。と言っても、いつも胸にぐつぐつとつっかえている何かが少しだけましな程度の話でした。

 だから、そうです、その日は少し悩んだ挙句、親指の爪ほどの石ころを摘み上げました。目の高さまで持ち上げてまじまじと眺めました。

「よさげだろうか。うん、よさげだな」そうやって声に出して確認するのが、いつからかの癖でした。もしかしたら最初の時からそうだったのかもしれません。

 ごつごつした肌は一様に鼠色でした。だから、僕はそれをゆっくりと口の中に放り込みました。まずは舌の上で転がします。ごろごろ、ごろごろ。その石ころは思ったよりもズシッとしていて、それが口の中だとよりはっきりと感じ取れました。

「うん、面白いな。これは面白い」

 何が面白いのかというと、てっきり、この石ころは大地の味がするのだと思っていたのです。ですが、どちらかというと長年人が立ち入っていない廃屋のような、いえ、言い過ぎかもしれません。かびた物置ぐらいでしょうか、それぐらいの埃っぽさでした。目の前に浮かぶのは、いまでもありありと思い出される、そんな光景でした。これはいつものことですが、そんな風に想像を見つめていると、その日の嫌なことが全部吹き飛んでいくのを感じるのです。

 しばらく堪能したら、いつも吐き出します。行為はあくまで味を確かめるだけのもので、いわゆる味見です。石ころは決して食べ物ではありません。そこらの分別は、昔からついていました。

 立ち上がって、もうすぐ見えてくるであろう家を目指します。玄関をくぐるときの足取りだけは、それまでよりもずっとシャキシャキしていました。


 小学生の頃です、そんなことをするようになったのは。正確に言うと、母が死んで、そして灰になったあの日のことです。今でもよく覚えています。

 母はすごく厳しい人で、よくぶたれました。ですが、それは愛あってのことで、あれはしつけの範疇だったと、今ではそう思っています。それに、母が暴力をふるっていたのは、七つの時まででした。ぶたれた拍子に倒れこんでしまい、机の角で目元を深く切りました。それ以来、母は口でがみがみ言うだけになって、少し安心したのを覚えています。わかりますか、目元の傷が。今でもちりちりと疼きます。

 そんな母が、ある日亡くなったのです。突然ぽっくり、という訳ではなく、複数の持病で衰弱しきっていましたから、その結末は全員が知っていたことでした。そうして死後のごたごたが片付いた頃、父は母を火葬することにしたようでした。なぜ火葬だったのか、理由は知りません。周りがみんなそうだったからでしょう。

 ことはとんとんと進み、母は1時間と少しで変わり果て、人生で初めて骨を拾いました。なんとなく、変にぼそぼそと軽くなった母の感触を覚えています。その後に父は、私は人に挨拶しなければならないから、お前は先に帰っていなさい、と言ったのです。幸い火葬場は自宅からそう遠くなく、まだ小学生になって幾年ばかりの子供も、問題なく辿り着ける程度の道程でした。

 だから、一人で帰りました。自身の透明さなんて忘れてしまったように、空気は背中にずっしりとのしかかりました。ランドセルのようでした。途中、小さな用水路に沿った道がありました。突然こんなことをいうのはあれですが、それがまた素晴らしいところなのです。そこを通りかかる以前、なぜ悲しかったのかは覚えていませんが、間違いなくそういう気持ちでした。

 しかし、そんなものは一瞬にしてどうでもよくなりました。陽を浴びてきらきらと喜ぶ清水が、土を掘って作っただけの小さな溝を流れているのです。両脇には名前もわからない草が生えていて、まぎれるようにゴミも落ちていました。空き缶や、駄菓子の包みなどです。安っぽい原色が目に毒なほど美しく、まるで南国の花のように草むらから顔をのぞかせていました。

 火葬場の空気と親戚の薄っぺらい表情なんてすっかり忘れて、いい気になってふわふわ歩いていると、あるものを見つけました。煌めく水流のかたわらで、それよりも眩く輝く塊です。

 なんだろう。しゃがみ込むと、それはガラスの欠片でした。青色のガラス瓶にソーダをつめたものがよく売られているじゃあないですか、それが割れたものでしょう。改めて見ると、実に安っぽい出で立ちです。しかし、それは心をむず痒くくすぐりました。ブルウハワイだろうか、それとも他の何かだろうか、とにかく、それが駄菓子屋に並んでいる色付きの氷砂糖に見えてならなかったのです。母はとても厳しい人でした。だから、何か間違えれば「馬鹿なことを、よくよくするな」と度々叱られました。母にとって、駄菓子などは間違いの塊でした。

 今思えば、これから訪れるであろう自由が、単純に嬉しかったのだと思います。しかし、あの用水路に辿り着くまで感じていた背中の重さは本物で、いや、そうか、当時は、ずっと空気が読める男の子だったのかもしれません。

 だから、僕はその塊を、そのガラス片を摘み上げました。

「よさげだろうか。うん、よさげだな」そう言ってから、口に放り込みました。

 なぜ声に出したかは覚えていませんが、改めて思い返せば、この癖はやはり最初からだったようです。そして、それが舌の上に乗った時のことは、今でもよく覚えています。

 瞼の裏に、どこまでもどこまでも広がる、澄み渡った青空が映し出されたのです。ひやりとしていて、それでいてかすかに甘いのです。

 そして、その一瞬後に、土臭い匂いが口いっぱいに広がりました。きっと、どこかに土が付いていたのでしょう。青空の下に構える、雄大な大地。今度はそんな風景が浮かびました。

 あまりに素晴らしい感覚に、僕はしばらく浸っていました。舌の上で転がしたり、上の奥歯と下の奥歯の間で軽く噛んでみたりしました。

 するとそのうち、口の中に蒸せ返るような匂いが充満し始めます。頬の内側かどこかを、浅く切ってしまったのかもしれません。鋭利な角がいくつかありましたから、それも当然です。ですが、それがまた素晴らしい景色でした。真っ青だった空が、一瞬にして夕暮れへと、時の流れを歩んだのです。

 口の中で繰り広げられる、壮大な1日。

 打ちひしがれた僕は、それから父がその道をのそのそ歩いてくるまで、ずっとそうしていました。確か、もう日暮れ間近だったように思います。

 それ以来、今でもガラスは特にお気に入りですが、石ころや瓶のふた、そして道端に落ちている、あの、空きカンの飲み口についている奇妙な形の金属、あれなんかもよく放りました。


 ◇


 話は高校に通っていた頃に戻りますが、前日に味わった石ころの快感も、寝て起きれば忘れてしまうものです。その翌朝の僕は、重い重い空気に再び布団へ押し付けられそうになりました。ですから、二度と起き上がれなくなる前に、僕はよいせと腰を起こしました。

 学校へ行く準備を整えていると、いつも頭が重くなります。気のせいや思い込みだったらいいのですが、これが本当に重いのです。段々と前を見ていることがつらくなって、視線を地面に向けたくなるのだから、きっと本当なのです。そのせいで人からは、やれいつまで地面とにらめっこしているのだだの、やれお前より下には誰もいないのに誰を見下しているのだだの、散々の言われようでした。

 それほどの症状なので、一度だけ我が家にある古い古い体重計で、寝起きとしばらく経った後を比べて見たことがあります。すると、なんとよく育ったみかん2つ分ほど、寝起きのほうが軽かったのです。それを見たときは、やはりな、としたり顔になったような気がします。僕は悪くないのだ、この奇病が悪いのだ、なんて思ったものです。ですが、今思えば乗るたびにぎしぎし言うような代物だったし、何より針先の数字が毎回変わるようなおんぼろでした。だから、その病気なんて言うものはきっと気のせいだったのでしょう。

 うだうだしているうちに、いつも家を出る時間になってしまいます。僕は全身の筋肉に鞭打って、重い重い体を、重い重い空気の中で歩ませるのです。ですが幸い、僕の通う学校は家のすぐそばにありました。

 話は変わりますが、最近の学生はラジオをみんな持っていて、それは僕も例外ではありませんでした。深夜なんかに音楽番組を聞きながら勉強をするのが格好いい、という風潮があったのです。曲のリクエストという行為も、それはまた重宝されました。自分のハガキが採用されたら、翌日の学校はみんな得意げなのです。残念なことに、僕は輪の外でしたが。

 それはともかく、そんな風に毎日ラジオを聞いていると、よく耳にする曲というのが何曲か出てきます。みんなが好きで、みんながリクエストするような、楽しくて安っぽい曲です。今は知ることができませんが、その当時は曲に限らず、往々にしてそういうものが世間には受け入れられました。そんな軽さを欲する雰囲気が、社会に漂っていたのでしょう。

 そしてそんな曲は何度も何度も耳にするので、だんだんと口ずさめるようになるのです。さすがに限度はあるので、サビが終わるとまたサビを歌い始めてしまったり、Bメロが思い出せなくてAメロに戻ってしまったりと、曲が永遠に終わらないこともありましたが。

 何が言いたいかと言うと、こうして覚えた歌を鼻歌なり口笛なりで2,3曲演奏しているうちに、いつの間にか学校の門をくぐっているほど、家から学校は近かったのです。こんな風に陽気なふりをして登校すると、自分の洗脳に成功したのでは、という気分になります。足がだんだんとまともに動くようになるのです。ですが、どう頑張っても僕の首が頭を力強く支えることはありませんでした。

 そうしてようやく教室に辿りつく僕ですが、ここで体の重さは最高潮に達します。体中が質の良い泥粘土になったかのような感覚です。僕の机には、いつも何かが書いてありました。根暗、カビ臭い、目元の傷が気持ち悪いみたいな文言はまだましな方で、直接的に死を要求するようなものも少なくありませんでした。最初は机の中のノートや教科書なんかにも書かれていたのですが、さすがに授業が受けられなくなってしまうので、毎日持ち帰ることにしていました。今思えばその荷物が、登下校中に体が重かった一因でもあるような気がします。前日は筆記用具でも忘れたのか、何も書かれていなかったのですが。だからその日はそれなりに気分がよかったというのに、全くまめなものです。

 ちなみにいうと、その敵意がいつから始まったかは、残念なことに覚えていませんでした。何かを口にするたびに忘れられるからです。

 僕は椅子を引いて、席に座ります。はじめの頃はしっかり消していましたが、その頃はもうそのままにしておく腹積もりでした。だって、どうせまた書かれるのですから。それに、これを残しておくことは救難信号のつもりでもあったのです。まあ、仮に担任が見たとしても、素通りされたでしょう。そういう無気力な先生でした。ですが、仮に彼が熱意に溢れた人間だったとしても、その頃はそのメッセージが彼の目に留まることは、まずなかったと思います。

 周囲が僕の反応の観察に飽き始めたと言うところで、彼女は登校してきます。名前は覚えていませんが、このクラスの学級委員長を務めていた女の子でした。仮にAさんとします。大抵は押し付けあう役職を率先して請け負うような子でしたから、Aさんはきっと責任感が強かったのでしょう。Aさんは自分の机に荷物を置くなり、窓の手すりにかけられた掃除用の雑巾を手に取り、流しで濡らしてきます。そして、僕の机を綺麗になるまで拭き続けるのです。その程度は僕にもできるのですが、Aさんは雑巾を譲ろうとしません。僕としてはいい迷惑でしたが、それでも机は綺麗な方が気持ちいいので、いつもお礼は言うことにしていました。もちろん、目線は下を向いていますし、声が小さすぎて届いていなかったかもしれませんでしたが。ですが、今更確かめようと思っても、何もかもが遅すぎます。

 その作業がひと段落すると、Aさんはある男子の集団に向かって吠え始めます。話を聞く限り、日々の悪戯はどうやら彼らが主犯のようなのですが、何分僕は現場を目撃したことがありません。疑わしきは罰せず、が基本ですから、あの時点で僕が彼らを恨んだことはなかったと思います。それに、もう怠くてしようがない僕は、視線を上げることができませんでした。きっと僕の眼球は、黒目が白目よりもかなり重く作られているのでしょう。勝手に下へ落ちるのです。ですから、彼らの顔も大半は覚えていません。

 ですが、唯一記憶に引っかかっている男子がいました。もちろん名前は覚えていないので、仮にBくんとします。Bくんはそのグループの中心というような人間ではなかったように思いますが、吠えてくるAさんに対して、いつも率先して言い返していました。いえ、言い返していたというよりは、なだめていたという方が正しいでしょうか。二、三言目には、Aさんに対する謝罪を口にしていたのです。どうせ謝るなら僕に謝ればいいと思っていたのですが、Bくんが機嫌を損ねたくないのは、彼が所属する集団とAさんだけのようでした。

 消されては書き直す彼ら。拭いては吠えるAさん。流されては謝るBくん。登校しては帰る僕。誰かが何かを諦めてもおかしくなかった生活が、不思議としばらく続いていました。


学校で受ける授業は、とても退屈でした。ですが、母の厳しい教育のせいなのか、昔から勉強は苦も無くできました。だから、僕は授業中、外を見つめてぼうっとしていることが多かったように思います。空を飛んでいる鳥の鳴き声を想像したり、昨日のガラスの味を思い浮かべたりするのです。

 しかし、その日は何もかもが違いました。そもそも一番何が違ったかと言うと、Aさんが風邪で欠席したのです。

 ですから当然、朝のホームルームが終わった後も、僕の机は文字で埋もれたままでした。最初はこんなものは消さなくても大丈夫だと思っていたのですが、やはり僕も人間だったのでしょう。最近はAさんのおかげで机は綺麗だったからか、それに慣れてしまっていました。常に視界の中央に悪意が鎮座して、僕を揺さぶるのです。僕の頭と黒目は重いので、いつも下を向かなければなりませんでしたから。

 ですが、それはある意味些細なことでした。何よりも僕の心持が良くなかった理由は、Aさんがいないこと自体にあったように思います。なぜかAさんがああしてくれないことが、残念でなりませんでした。いつも大して良いわけではありませんが、気分は限りなく零に漸近していたのです。それはそれは藍とした気分でした。窓の外のじんめりとした空気が、僕のそれを正確に表現していました。

 ですが、当時はなぜAさんにそんな思いを抱いていたのか、とうとう訳がわからなかったのです。名前も知らない女の子が休んだ程度で何を嘆いているのだろう、という心情でした。その答えは、今なら痛いほどわかります。ここにいる僕が欲しているのは、Aさんの温もりなのですから。

 そんなこともあって、僕の気分は最悪だったわけです。だからきっと、あの日の自分はまともではありませんでした。

 それからの僕は常に視界に刺さる悪意が目障りで、白い塊でそれを擦(こす)っていました。そうやって国語の時間が中盤に差し掛かったあたりでしょうか、ようやく木目が半分ほど見えるまでに済んだのでした。

 あなたも経験があるかと思いますが、ああいう硬いものに書いた鉛筆跡は、擦れば擦るほど、どんどん消しゴムの表面を黒くしていくのです。ですから当然その頃には、もともと新品だったそれは全体に黒い光沢を帯びていました。表面はつるつるしていて、指で少し擦れば先が黒くなりました。

 そして、僕はその姿に、なぜか痛いほど惹かれたのです。

 筆箱からはさみを取り出して、それの端の方を、少しぐっとして切り出しました。だいたい山ブドウの実ほどの大きさでした。僕はそれを指でつまみあげます。

「よさげだろうか。うん、よさげだな」声は出さずに、口の端で呟きました。そしてついにとうとう、それを放り込んだのです。

 広がるのは、鼻腔にこびりつくような炭の胡散臭さでした。意外なことに、思っていたほどはゴムのえぐみというか、白々しい生々しさはありません。むしろ表面の黒鉛だけで、それ自体は無味だったのです。

 しかし、その感触はすべてを補って余りありました。

 舌の上で転がしたり、奥歯で噛んでみたり、前歯の裏に舌で押し付けたりするたび、心が躍るのです。

 今でも、あのうきうきした弾力は忘れられません。ともかく、僕はこんな風にして、Aさんに対する虚無感というか、喪失感を綺麗に消し去ることに成功したのです。

 しかし、次の日のことでした。普段はいろいろ書かれているだけの机が、壊れていたのです。その机は天板の下に引き出し用のスペースがあるようなタイプだったのですが、その天板が割れていました。中央からばっきりと、下の空間に突き刺さるように折れていました。

 それは明らかに意図的なものでしたが、その時の僕はそこにあまり関心がありませんでした。というのも、周囲から聞こえてくるのです。

 あいつ、消しゴムを食べていたらしいぜ、と。

 この机は、その行為のせいだとでもいうのでしょうか。それにしても、全く失礼な話でした。そもそも僕はあれを食べてなんかいないのです。あの後、しっかりとちり紙に吐き出しました。だから、僕は食べていないのです。人間が消しゴムを食べるなんて言う話は、ついぞ聞いたことがありませんでしたから、僕もその通りなのでした。

 しかし、誰に見られていたのでしょう。幸いなことに、いえ、ああなってしまえば幸も不幸もないのですが、僕の席は教室の後ろ隅で、人数の関係で一人だけ突出していました。ですから、授業中に人に見られるようなことは、なかったはずだったのです。完全に頭から抜け落ちていました。

 つまり、その時の僕には、前日の自分を悔いる他ありませんでした。犯人が分からないのですから、周りの誰かに向ける感情もなかったのです。

 しかし、どうしたものでしょう。そのままでは授業が受けられませんでした。

 僕は一瞬考えた後、無事だった椅子に腰かけました。

 Aさんを、待つことにしたのです。Aさんなら、きっとなんとかしてくれるに違いありません。

 しかし、その日もAさんの熱は引かなかったようでした。結局、僕は担任に、机が壊れたから交換したい、と申し出ました。あまり喋ることのない僕ですが、こういうことはきちんと言えたのです。もちろん下は向いたままですが。すると、彼は理由も聞かずに用具室の鍵を貸してくれました。そうして、僕は新しい机を手に入れたのです。

 その日の帰り、僕は赤いガラスの破片を口に入れました。


 また次の日、再びAさんは欠席でした。よほどひどい風邪なのでしょう。ちなみに言うと、その日の机には使いかけの消しゴムが幾つか置かれていました。紙皿の上に、割り箸を添えて、です。どこからか、召し上がれ、という声とくすくす笑いが聞こえてきました。随分手の込んだ嫌味です。これじゃあまるで食事のようでした。僕は消しゴムを食べたりなんかしないのに、何を勘違いしているのでしょう。

 僕はその日の帰り、普段よりも大きな青ガラスの破片を口に入れました。

 さらに次の日、またまたAさんはお休みのようでした。そして、机の上には紙皿に乗った何かの糞が置いてありました。周りから、食べてもいいぞ、という声が聞こえてきます。どうも彼らは僕のことを“何でも”“食べる”人間であると、二重の勘違いをもって評価しているようでした。まったくもって失礼な話ですが、犯人が分からないのでは注意のしようがありません。ですから、僕はそれを紙皿ごと便所に運び、流してあげました。

 その日の帰りは、透明なガラスの欠片をたくさん口に入れました。

 週末になりました。土曜、日曜ともに学校はお休みです。なぜだかわかりませんが、これほどまでに体が軽くて心は重い休日は、かねてから経験したことがありませんでした。

 もちろん家からは出なかったので、僕は台所にあったガラス瓶を叩き割り、少しだけ口にいれました。割ってすぐのものというのは初めてでしたが、美しさは想像以上でした。すべてを焼き尽くすかのような夕陽だったのです。

 そうこうしているうちに、心の休まらない休息はあっという間に終わりを告げました。月と言う字を冠する割に、この日の気分は大抵美しくありません。

 ですが、その時の僕は少しだけわくわくしていました。もしかしたらAさんが学校に来るかもしれなかったからです。相変わらずAさんに対する自分の気持ちは判然としないままでしたが、そうなれば嬉しいことは確かでした。

 そして、その予想は当たりでした。僕が登校してからしばらくして、Aさんはやってきたのです。以前よりも少しこけたような気もしますが、何分顔をしっかり見たのはこれが初めての経験でしたので、その印象が正しいかったはわかりません。ですが、後から聞いた話を鑑みても、それほど間違っていないような気がします。

 到着したばかりのAさんは、なぜか入り口で立ち尽くしていました。僕はなぜAさんがそうしているのかわかりませんでしたが、少しして思い当たりました。

 きっと、僕の机の、蛙のせいです。

 その日もご丁寧に、お皿と割り箸つきでした。これだけの蛙を集めようと思ったら、きっと死体を探すよりも殺した方が早いでしょう。そもそも蛙の死体なんて、滅多に落ちているものではありません。どれも少しくたびれた見た目をしているので、大方道路にでも叩きつけたのではないかと思います。こんなことをできるのは、おおよそ心の壊れた、人間以外の何かに違いありません。

 Aさんは、まるで電池の抜けたおもちゃでした。僕はそのようなおもちゃで遊んだことはありませんでしたが、なぜか知識として知っていました。

 Aさんはかれこれ数分でしょうか、立ち尽くした後、自分の机に荷物を置かずに、僕のもとへやってきました。僕は人の話を真面目に聞くことをあまりしないのですが、この後のやり取りは鮮明に覚えています。

「これ、誰がやったの?」

 Aさんはそう言いました。ですから、僕は横に首を振りました。

「岩下くん、こんなことされて、なんとも思ってないの?」

 Aさんはそう続けました。ですから、僕はまた横に振りました。

 僕もその頃はまだ人間でしたから、蛙の死体が山積みになっていれば心は痛みますし、何より不快でした。今はどうだか分かりませんが。

 Aさんは、再びそこに立ち尽くしました。 どんな顔をしながらそうしているのかは、わかりませんでした。下を見ていた僕の視界には、Aさんの上靴と長めのスカートが入っていました。ふと、上から一滴の雫が、落ちてきました。

 僕は少し気になって、重い眼球に鞭打ち、Aさんの顔を見上げました。

 泣いていたのです。唇に歯を食い込ませて、堪えるように。

 なぜでしょう。悲しいのはAさんではなく、僕のはずでした。その僕が大丈夫なのですから、Aさんは尚更です。

 僕が困惑していると、そのままにAさんは例の集団に詰め寄りました。

 あなたたちがやったのか、いや俺たちは知らない、あなたたちしかいない、でもあいつ消しゴム食べてたんだぜ。

 笑いながら応答する男子たちの中で、Bくんは意味ありげに沈黙していました。

 Aさんは赤くなった目頭を踏ん張りながら、僕のもとに再び歩み寄ります。

「岩下くんも、岩下くんだよ」

 その口調は、かなり険しいものでした。

 Aさんの強い言葉は頻繁に彼らへ叩きつけられていたので、耳慣れたものであったはずでした。しかし、その刃先が僕に向いた途端、僕は何も考えられなくなってしまったのです。

「なんで自分がひどい目にあってるのに、自分は全然関係ないみたいに過ごせるの? なんで私が岩下くんの代わりに怒らなきゃいけないの?」

彼らの押し殺した笑い声が聞こえました。

「ねえ、ちゃんと返事してよ」

 その時のAさんは、明らかに普段とはかけ離れていました。縁から溢れ出した何かは、確実に彼女を覆って隠していました。

 そして僕はAさんの糾弾に戸惑うばかりで、答えを持ち合わせていませんでした。何より、最近は鋭利なガラスばかり口に入れていましたから、口の中は生傷だらけでした。僕は這い巡る痛みから喋ることが難しかったのです。僕は一度首を横に往復させました。そして、彼女の腰辺りに目線を落ち着かせました。

 すると突然、僕の見ている風景が数十度傾いたのです。教室に響く乾いた音と、頬に走った鋭い痛みと共に。

 あまりの驚きに、僕は頭の重さを忘れました。Aさんが、腐敗したガラス細工のような瞳で、僕を見つめていました。

「そうやって首を振っていれば、誰かが助けてくれるの? そうやって人任せにして、これからも生きていくつもりなの?」

 私はもうだめなんだ、とAさんは最後に付け加えて、虚ろな目で自分の掌を眺めています。その瞳孔は、少しだけ開いているようにも見えました。

 すると一瞬して、静寂に包まれていたはずの教室は、喧騒に呑まれました。それは彼らの歓声であったり、傍観者の悲鳴であったり、僕の耳鳴りであったり、とにかくいろいろな人の感情が渦巻いていたのです。

 Aさんは無言で自分の席に戻ると、荷物を横に下げ、そのまま席に座りました。

 僕は、もうどうすることもできませんでした。

 頬に走る残響だけが、僕の意識を覚醒させています。叩かれた部分の内側にはちょうど大きな生傷があって、それがじんじんと追い打ちをかけてきました。歯に当たって傷が開いたのか、口の中に鉄臭さが充満していました。

 Aさんの拒絶。

 ガラスを口に入れた時の出血はあれほどまでに美しいというのに、今はただ悲壮な色をしていました。自分は本当に赤い血が流れている人間なのか不安になるほどに、僕の脳裏は枯れ果てた荒野を映し出していたのです。

 だからでしょうか。その日の授業は、なに一つ記憶にありません。ただ座っているだけで、半日が過ぎ去りました。気が付いたら、教室には虚無が漂っていました。僕とBくんと、そして尽きた蛙の山を除いて、あの場に有機的なものは何一つ残されていなかったのです。

「なあ、お前、大丈夫か。ずっとそうやっているけど」

 Bくんのそんな言葉が、空っぽの僕に響きます。しかし、意識があるのは事実だったので、僕は頷きました。橙の光が窓ガラスを透過し、僕を無慈悲に焼いていました。

「そうか。いま、ちょっといいか」

 僕はまた頷きました。

「ほら、『A』ってさ、ここ最近ずっと休んでただろ」

僕は首を縦に振りました。

「実は、自律神経をおかしくしちゃって、いろいろ大変だったらしいんだ」

 どういうことでしょうか。そういえば母も似たようなことを医者から言われていた記憶があります。そうだ、Aさんがやせて見えたのは、つまりそういう背景があったからなのでしょう。

「俺が言うのもあれだけどさ、お前さ、もう学校来るなよ。分かってるだろ、『A』が苦しんでること」

 どういうことでしょうか。つまり、彼女が苦しんでいる原因は僕であると、彼はそう言いたいのでしょうか。

「あいつらを止められてない俺も悪いよ。それは分かってる。謝るよ」

僕の思考なんて気にする風もなく、Bくんは言葉を継ぎます。

「でも、頼むよ。俺、これ以上『A』が苦しんでるところ見たくないんだ。『A』だって頑張ったよ。でも、もうだめだろ。俺も、マサキとかゴッチとかだってもちろんだめだけど、お前が何よりもだめなんだ、分かってくれよ」

 どういうことしょう。僕は我慢なりませんでした。Aさんは僕の味方で、Aさんの味方は僕だけで十分なはずでした。でも、それは単に純粋な怒りとは違いました。Aさんの味方を装おうとするBくんは、どういうことだ、これまでの帰り道では見たことがないような、ごつごつとした、そうだ、とても歪な造形をしていました。

 手を伸ばした筆箱は、いつかの用水路への道筋のように、きっと現れるキラキラに反して、どんより重い。重かったです。

「お前だってさ、変わる気がないなら、逃げた方がいいことだってある……どうした? おい、なんだそれ、おい、やめろ、やっ」

 僕は知らなかったんですが、はさみはね、意外にも切れ味が悪いんですよ。

芳香、世界の全部を無音にしてしまうような、鼻を突き刺す、芳香です。

劇的な夕暮れの中でした。

僕は少しぐっとして、いえ、かなり力を込めて、端の方を切り出そうとして、つぶれるような音が響きました。

「よさげだろうか。うん、よさげだな」

 香りとは裏腹に、口内に広がる光景は汚泥のたまり場でした。

 僕はしばしそれを転がしましたが、少しして吐き出しました。

 興味本位はいい結果を生みません。

 気づけば、制服が汚れてしまっています。僕は体育着を置いてあることを思い出し、それに着替えました。片づけをしていこうかと思いましたが、気分が乗りませんでした。濡れたはさみは、ひとまずポケットにしまいました。

 山積みにされて乾いていはずの蛙が、夕陽のせいで、まるでペンキが乾く前のようにぬらぬらと照っていました。



 僕は薄暗い通学路を歩きながら、鼻歌を歌います。最近流行っている曲です。遠くでサイレンが鳴っています。鼻歌の邪魔をしないでほしいものです。フレーズがとびとびになってしまいます。

 僕はなんとか陽気な気分になりたかったのですが、どうしてもAさんの拒絶は鮮烈でした。

 普段なら適当なものを口に入れて忘れられるのですが、教室で口に入れた汚泥も、ついさっきの石ころも、今のガラス片も、大して効果がありませんでした。むしろガラスも、いつものような爽快な味がしないのです。何より、生傷を固い角がなでるので、楽しむどころではありませんでした。どこかさっぱりしない、虚ろな空です。

 あまりに居心地が悪くて、ぺっ、とガラスを吐き捨てました。血の混じった唾液が一緒に飛びます。すると、何かが視界の端で跳ねました。

 しゃがんでみると、人差し指の第一関節から指先ぐらいでしょうか、それほどのかわいらしい蛙がちょこんとしていました。

 僕は咄嗟にその蛙を鷲掴みにしました。

 少し掌の力を緩めると、指の隙間からぴょこんとかわいらしく顔を出しました。目線の高さまで持ち上げると、瞳はこれからやってくる夜空をまるごと閉じ込めたようでした。教室で山積みになっていた蛙の、乾いた眼球、あの中にもこれの家族がいたのかもしれません。そうです、意味のない想像でした。

 薄暗くなってきましたが、外灯は未だに点きません。その蛙は喉のところの袋を上下させながら、僕を一心に見つめています。しかし、僕はそれの言葉を理解するすべを持っていませんでした。

「よさげだろうか。うん、よさげだな」

拳を口に近づけ、開いて掌を口に押し付けます。そうすると、それは自ら口の中に飛び込んだようでした。

 僕は口を閉じて、目をつぶります。

 これまたひどい味でした。

 単純に生臭くて、耐えられたものではありません。

 しかし、僕はそれを吐き出せずにいました。

 隔てが薄い口の中だと、蛙の小さな鼓動が直に感じられます。

 生傷をひんやり撫でる肉塊と脈打つ心拍が心地良くて、どうしようもありませんでした。

 僕は数匹をとっかえひっかえして、しばらくそうしていました。

 味になれてしまった頃でしょうか。その時、口の中には2つの肉塊がうごめいていました。徐々に2つの脈拍が弱くなっていくのを感じました。右の奥歯に近いほうが、若干力強く抵抗していました。

 その時、誰かが小走りでやってくる音が聞こえたのです。もうかなり日は落ちて、今日もまた頭上で外灯はちらつき始めていました。僕は交互に訪れる暗闇と逆光とで、その人物が誰だか最初はわかりませんでした。その人物は僕を通り過ぎかけて、僕が僕であったことに気付いたようにして、立ち止まりました。

「岩下くん、よかった、こんなところにいた。どうしても、謝りたくて」

 息を切らしたAさんでした。

「今朝、叩いちゃってごめん。私、最近自分がよくわからなくて、それで……。ただの言い訳かもしれないけど、でも、私は岩下くんの味方だから」

 あまりの驚きに飲み込みそうになってしまいましたが、踏みとどまります。蛙の踊り食いをする人間なんてついぞ聞いたことがありませんでしたから、僕も人間なのです。

どうやって僕を探したのでしょうか。もしかしたら、このまま僕の家まで辿る腹積もりだったのかもしれません。しかし、それは何よりもうれしい言葉でした。

 Aさんは僕に一歩ずつ歩み寄ります。

「だから、一緒に頑張ろう。ね?」

 そう言って差し出されたAさんの手は、蛙なんかよりもずっと魅力的でした。

 ですが、僕の前髪の隙間からは、歯を食いしばるような、苦しそうな顔がのぞいていました。責任感の強い女の子なのでしょう。Aさんの震える腕も、掴めば崩れてしまいそうでした。

 しかしそんな観察は、明るく黄色い感情の前に無力でした。僕は傷の痛みを我慢して、うん、と言いました。

 その拍子でした。

 最後の力を振り絞ったのでしょう。1匹の蛙が口から跳び出したのです。着地した先は、Aさんの手の上でした。

 そのあとの展開は簡単に想像がつくでしょう。誰だって目の前の人間の口から蛙が出てくれば、怖いものです。

 Aさんは声も上げられないようで、そのまま数秒固まりました。そして、何を思ったか走り出したのです。僕は慌てました。折角Aさんと何かを共有できた気がしたのに、このままだとAさんがいなくなってしまうような気がしたのです。

 だから、もう一匹を入れたまま、僕はAさんの後を追いました。僕は昔から運動ができるタイプではなかったし、体はいつものように重かったので、速度はどっこいどっこいです。

 しばらく家路を逆走しながら、僕は呼びかけました。Aさん、待ってよ、と。

 外灯の少ない小道を走っていました。どこかそう遠くないところで、未だにサイレンが鳴り響いています。大通りの外灯が見えてきていました。それでもAさんは足を緩めません。僕は必死になって追っていました。

 Aさんが大通りに出たのがわかりました。外灯の明かりがAさんの背中を照らしたからです。

 その瞬間、けたたましい鉄の塊の登場と共に、彼女は消えました。

 柔らかい何かがアスファルトの上を跳ねた音が聞こえた後、地を揺らすような音が届きました。

 僕は走り続け、現場に辿りつきました。

 Aさんは、道路の真ん中に倒れていました。路肩には民家に突っ込んだパトカーが、途切れ途切れのサイレンを吐き出しています。何が起こったのかは、一目瞭然でした。

 僕はAさんに走り寄りました。

 よく見ると片腕はおかしな方向にねじ曲がり、もう片方は途中から無くなっていました。よほどの衝撃だったのでしょう。もう少し向こうに何か細長いものが転がっているのが見えました。

 大丈夫、と声をかけます。すると、Aさんは意識があるのか疑わし気な目で漏らしました。

「…………来……ない、で……、気持ち……悪い……」

 僕はその言葉を理解するまでに、数秒を要しました。彼女が無意識でこれを言っているのだとしたら、それはきっと本心ということになるのでしょう。

 不思議と笑いがこみ上げてきました。

 何が可笑しいのかはわかりませんが、とにかく面白かったのです。

あれほど真剣に逃げるなんて、きっとAさんは蛙が嫌いだったに違いありません。

 そうとしか思えませんでした。そうです。蛙が嫌いだったのです。蛙が手に乗れば、走り出したくなる気持ちもわかります。僕のことが気持ち悪かったから逃げたなんて、それはあくまで想像にすぎません。Aさんは蛙が嫌いでした。そうです、そういえばそんなことを誰かが言っていた気がしました。僕のことは好きで、蛙は嫌い。蛙のことが嫌いで、僕も嫌い? 嫌いなのは、僕だけ? 僕は気持ち悪いのか。いえ、気持ち悪いのは蛙です。蛙が気持ち悪い。Aさんも気持ち悪い? いえ、気持ち悪いのは蛙です。気持ち悪いのはBくんです。僕は気持ち悪い? いえ、気持ち悪いのは蛙で、嫌いなのも蛙です。僕が嫌いなのはBくんで、Aさんが嫌いなのもBくん。Bくんは蛙が嫌い? 

 なんて素敵な夜なのでしょう。

 近くでパトカーが煙を上げ、足元で僕を拒絶した女の子が死にかけています。恐らく、これほどまでに素敵な夜はありません。

 僕は自分の指先が冷たくなっているのに気が付きました。気温は高いはずなのに、嫌に凍える夜です。なんてすばらしいのでしょう。あまりに冷えるので、僕はポケットに手を入れました。右手にぬめりとした感触と、固く冷たい刃先が触れます。

赤く染まったはさみでした。

 Aさんを見ます。どうやら、既に気を失っているようでした。いえ、もしかしたら死んでいるのかもしれません。そう思わせるほどに、赤黒い円はみるみる広がっていきました。妙な感覚が、胸の中を駆け巡ります。くすぐられた時のような、突き放したいけれどどこか恋しい、そんな気持ちです。

 僕は汚れを舐めとりました。Aさんに触れるのに、汚泥がついてしまってはたまりませんから。

 僕は残っている方のAさんの手を、左手で持ちました。

刃先を人差し指の第一関節に沿って、ゆっくりと構えます。

 かなりぐっとして、そこに切り込みを入れます。

 やはり、はさみは切れ味が悪いんですよ、刃を開いたり閉じたり、しばらく試行錯誤してようやく切り離すことに成功しました。

 ぬらりと輝くそれを、僕は目線の高さに持ち上げます。細い細い指でした。少し伸びた爪が、外灯の冷たさを反射していました。

「よさげだろうか。うん、よさげだな」

 そう言って、口に放り入れました。

思ったよりもずっしりとした感触が、舌の上にのしかかります。

 それはそれは、素敵な味でした。

 噎せ返りそうなほど、甘酸っぱい。

 嘔吐しそうなほど、美しい。

 僕は舌の上で転がしたり、右の奥歯と奥歯で軽く噛んでみたり、前歯の裏に舌で軽く押し付けたりしました。

 儚い弾力。鋭い感触。

 大半はうきうきとした歯ごたえです。いつかの消しゴムを彷彿とさせます。

 ですが、爪は違いました。まるで以前のガラスのように、透き通った甘さです。

 なんて素敵なのでしょう。

 夜風が僕の頬を撫でます。

 全身から体温が急激に失われていくような錯覚に陥りました。

 僕はこの味を何と形容すべきか、よくわかっていました。


 これは、初恋の味です。


 いつまでもこうしていたい。そんな誘惑が、強く僕の上唇と下唇を結びつけます。

ですが、人間が人間を食べるなんて話は、ついぞ聞いたことがありませんでした。これから僕はAさんを吐き出すのですから、僕はまだ人間です。

 僕は人間なのです。つまり、僕は気持ち悪くありません。Bくんでもありません。僕は人間です。僕は蛙ではありません。だって気持ち悪くないのですから。だから、僕は人間です。でも、Bくんは人間? いえ、彼は汚泥でした。僕は人間です。僕は蛙? 僕は人間です。Aさんは人間。僕も人間。Aさんは何が嫌い? 蛙はB君です。それで、Bくんは蛙。僕は気持ち悪くありません。

 また可笑しくなってきました。

 そんなふうに一人笑っていると、とても素敵なことを思いついたのです。こんな夜にふさわしい、彼女のための素敵なアイデア。

 ですが、そのためには僕は変わらなければなりませんでした。Aさんが愛してくれていた僕を、放棄しなければならないのです。Aさんは人間です。僕も人間です。蛙は気持ち悪い。だから、きっと愛していました。

 僕は一息に、Aさんの指先を呑み込みました。

 ぬるりとのどを滑っていく感覚と、爪がのどを掻く感覚が、同時に快感に変わります。

 僕は人間が人間を食べるなんて話は、ついぞ聞いたことがありませんでしたから、僕もその通りなのです。柵から解き放たれた快感が僕を沸かせます。

 ですが、これだけではあの素敵なアイデアを実行するには足りません。僕はもう一度はさみを持ち直し、また切り取りました。

 今度は無くなった腕がついていたはずの部分です。それは指のようにわかりやすい形ではなく、ただの肉片のようでした。

「よさげだろうか。うん、よさげだな」

口に入れると、やはり甘酸っぱい。初恋です、これが初恋。なんて美しいんだ。Aさんは僕が好きだったんだ。

 次は頬の辺りでしょうか。

「よさげだろうか。うん、よさげだな」

 やはり初恋です。

 さらにお腹の辺り。

「よさげだろうか。うん、よさげだな」

 美しい。なんて美しい。

 次は、次は次は。

「よさげだろうか。うん、よさげだな「よさげだろうか。うん、よさげだな「よさげだろうか。うん、よさげだな「よさげだろうか。うん、よさげだな」

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ガラスと蛙と君の 水上 耀 @ixi

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