あの人

 窓の向こうに広がるビル街が、淡い光で夜空を照らしていた。

 街灯の並ぶ道路には車のライトがときおり流れるだけで、人影はほとんどない。

 そのかすかな光も高層の部屋までは届かず、室内を照らすのは窓から差し込む月明かりだけ。

 片付けられたテーブルの上に、白い光が静かに落ちていた。


 僅かな物音の響く廊下の奥では、扉の縁から光が漏れている。


 洗面所の鏡の前で、デリタは薄ピンクのワンピースを纏っていた。

 肩ひもと胸を覆うレース、中のパッドがブラジャーの代わりとなり、発達した胸をふんわりと包む。

 外出用ブラジャーの締め付けから解放される感触に、ほっと息を吐いた。

 太りやすい体質のため、パワーヨガで鍛えた上腕筋は同じ薄ピンクのカーディガンで覆われ、体格をさりげなく隠す。

 女としての“鎧”である化粧はすっかり落とされ、骨ばった輪郭があらわになっていた。

 デリタは少しでも顔を小さく見せようと、化粧水を塗りながら優しくマッサージを施す。

 短い赤髪を丁寧に梳かすと、洗面所のライトを消した。


 暗い廊下を進み、カウンターキッチンの電気をそっとつける。

 寝る前にホットミルクを飲みながらドラマを見るつもりでいた。

 戸棚の奥から、猫が描かれたピンクのマグカップを取り出す。手にしただけで、ほんの少し心が和む。

 牛乳を火にかけるその瞬間――

 頬にひんやりとした空気が触れ、背筋がぞくりと震えた。

 視界の端に、黒い影が一瞬よぎる。デリタは思わず息を呑んだ。

 そっと振り返ると……

 カウンターの向こう、薄暗いリビングの奥。夜景を背に、黒い人影が立っていた。

 フードをゆっくりと外すと、緩やかに波打つ黒髪が頬に落ち、細い輪郭を縁取る。漆黒の瞳は極彩色に淡く光を反射し、長い睫毛が目元に影を落とす。

 薄暗い中で浮かび上がる月のように白い肌、髪の一房から薄い唇、整った鼻梁――完璧すぎるその姿に、デリタの背筋に夜風とは別の冷たさが走った。

「レイ……?」

 掠れた声が、思わず口をついて出る。

 夜の街を背に、リビングに浮かぶその人は、まるで現実の存在ではなく、黒に溶け込む影のようだった。

 その薄く冷たい唇がゆっくりと動く。

「デリタ……」

 耳朶を撫でるような低音が響き、一瞬の怯えと共に尾てい骨がゾクリと疼く。

 コッ……

 足音が静かに響いた。

 その姿がゆっくりとリビングを回り、カウンター越しに近づいてくる。

 キッチンの明かりに照らされ、濡烏色の髪がわずかに光を反射する。前髪が滑らかな頬で揺れ、目元で波打つ癖毛の合間から極彩色の瞳が垣間見える。

 やがてキッチンの入り口に男が立つと、デリタは震える足で一歩後ろへ下げる。その恐ろしく整った顔に正面から捕らえられ、咄嗟に顔を覆い隠した。

 コッ……と靴音が響く。一歩……二歩……と、確実に音は近づいてくる。

 正面に冷たい空気が流れ込み、夜露の匂いが鼻を掠めた。

 デリタは恐る恐る両手を目元まで下げる。

 その瞬間、視線の少し下――繊細に作られた顔を間近に捉え、思わずよろけて後ろへ下がった。

 壁に背を付けると、力が抜けるまま座り込んでしまう。

 レイがゆっくりと正面に跪き、左手が耳の横に添えられる。

 目の前に身を乗り出し、低く囁く。

「どうした……」

 深淵の中に輝く瞳がデリタを射貫く。

「調子でも悪いのか……」

 耐えきれず視線を逸らそうとするが、レイの手に遮られ逃げられない。

 何かを言おうと口を開くが、久々に見るその存在に驚き……言葉が出なかった。

――久しぶり……

――食事は食べた? 残り物で良かったら……

 声を出そうと、喉の奥から空気を絞り出す。

 吐息で湿る両手の上に、レイの白い左手が沿うように触れ、そっと掴まれた。

 体が跳ねる。

「ッ……ヤッ」

 ようやく零れた言葉は、レイを拒絶するものだった。

 自分でも驚いて、慌てて口を開く。

「……違うっ」咄嗟に訂正する。「ごめんなさい……!」涙が滲む。「……そうじゃなくて……」

 言葉を重ねるたび、心とは裏腹に声は震え、涙が頬を伝って落ちる。

「デリタ……」

 名を呼ぶ声とともに、レイの手にわずかに力がこもる。

 デリタの体はビクリと震えた。

 覆われた手が、そっと、しかし容赦なく退けられる。

「いや……や……」

 化粧もしていない素顔が、すぐ目の前に晒される。

「……離して……!」

 泣き濡れ、歪んだ顔を、冷ややかな美貌が静かに覗き込む。

「見ないでっ……!」

 デリタは咄嗟に顔を逸らす。

 頬に、冷たい手がそっと添えられる。

 指先が触れただけで、喉が引きつるように息が漏れる。

 顔を反らそうとしても、指先は頬骨のラインを撫で下ろし、頬肉に軽く食い込み、引き戻そうとする。

 抗えない。

「デリタ」

 耳に落とされた囁きが、毒のように鼓膜に染み渡る。

 体が硬直し、視線は極彩色に輝く瞳に縫い止められる。

「何故……隠す」

 低く艶めいた声に意識を絡め取られ、喉が震え、嗚咽が零れる。

 レイの瞳に映るのは――涙で乱れた男の顔。

 化粧の無い、生身の素顔。

 骨格の隠せない輪郭、腫れぼったい一重瞼、筋肉の浮き出た首筋。

 醜いと思った。

 これが本当の自分だ。

 必死に化粧で覆い隠してきた本当の姿。

 それを目の前の存在に晒してしまう――怖くて、どうしようもなく怖くて……

 レイの指が、優しく頬を撫でた。

 冷たい感触が涙の跡をなぞり、拭う。

「……汚れていない……傷も無い……」

 その柔らかな声に、デリタは思わず息を呑む。

「綺麗な顔だ」

 静かに告げられ、レイの指が涙をそっと拭う。

 頬骨から角ばった顎へと、細い指先が滑るたび、体は硬直する。

「ここも」

 唇に触れられた瞬間、心臓が跳ね上がる。

「ここも」

 顎から首筋へ、指が滑り、浮き出た喉仏に触れる。

 擦られるだけで、息が詰まった。

 指先はさらに鎖骨へ――盛り上がった胸に向かおうとして、そこで止まる。

 その寸止めの距離に、デリタの体は思わず震えた。

 レイの目が窓へと向けられる。

 その美しい横顔――漆黒の瞳が、極彩色の光を追うように微かに揺れた。

 デリタは呼吸も忘れ、ただ固まったまま見上げる。

 やがてレイは目を細め、探るような光を湛えて……再びデリタへと視線を戻した。

「急用だ……」

 早鐘のように打つ心臓に翻弄され、声が出ない。

 レイは気にする様子もなく立ち上がり、踵を返す。

 黒のコートが大きく翻り、空気を切り裂いた。


 コッ……と靴音が遠ざかる。

 冷たい風がデリタの頬を撫で、カーテンがわずかに揺れる。

 夜景の広がる窓を白い指がなぞり、ゆっくりとベランダへ足を踏み出す。

 フードが漆黒の髪を覆った瞬間、デリタは震える体を無理やり動かし、立ち上がった。

 咄嗟にカウンター越しに身を乗り出し、声を絞り出す。

「っ……待って……」

 レイが振り返る。

 月光に照らされた横顔が、フードの影に沈む。

「用が済んだら……また……来てくれる……?」

 一瞬の沈黙ののち、レイはまっすぐに見つめ返す。

「お前が許す限り……」

 コートの裾を翻らせ――そのままベランダの向こうへ姿を消した。

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デリタの想い人 藤宮 @fuji864

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