臆病者の覚悟

百成 奏

短編

 初めての経験だった。これまで私の歩んだ道には、一つの向かい風も、躓いてしまうような小石すらなかった。教員として働き始め早5年。この期間に確立した手法が通じない。救いの手を今すぐにでも差し伸べたいのに、これは私の言葉は彼には届かない。齢28で初めて味わった挫折である。


 重いペダルを踏み、私は彼の家に着いた。そうして、彼の家に宛てた書類と、クラスメイトに頼んで書いてもらった手紙が入った鞄を両手で抱えながら、インターホンを押す。玄関からすぐに神田くんのお母様が出てきて中に通してくれる。数枚の書類を手渡し、世間話をした。そしてついに、彼の部屋に行く。まるで転けてしまいそうな程一段一段が高い階段をドスドスとなんとか登った。体が重い。そういえば毎週毎週午後に来るほどルーティン化しているはずなのに、今日も昼飯を食べていなかった。


 「悠、先生がいらっしゃったわよ。入ってもいい?」

 彼の部屋の前でお母様が呼びかける。小さく唸るように声が聞こえる。どうやら好きにしてくれということらしい。お母様は困ったような顔をしながらドアノブを捻り、中に通してくれた。週に一度来ているがやはり慣れない。今日は少しでも話ができるだろうか。そんな一抹の不安を抱えながら、部屋の中に入った。


 部屋の中はカーテンが閉められ、電気はついていない。そのため薄暗いが、カーテンの隙間から差す陽の光によって、彼の姿がかろうじてベッドの上にあることが分かる。部屋の中央のローテーブルを挟んで対面するように私は座った。

 一つ深呼吸。まずは心を落ち着かせて、最初に彼に投げかける言葉を反復する。昨年と比べて明らかにコミュニケーションについて慎重にするようになった。そうならざるを得なかったのもあるが、それ以上に私は怖くなってしまったのだ。誰かの逆鱗に触れてしまうことに。


 「———こんにちは神田くん。調子は、どうかな?」

 返事はない。

 「今日は天気がいいんだ。ここ最近は寒くて授業もまともにできないくらいだったんだけど、この先は暖気がやってきて暖かい日がが続くみたいだ。どうやら春まっしぐらって感じかな。3年生の子たちも来週に迫った卒業式でそわそわしているんだ。」

 これも反応無し。天気や学校の話題じゃ彼の気は引けない。なにか彼が興味を持ってくれる話題を振らなければ。じゃあ彼の趣味であったゲームの話題でも振ろうか。何がいいかな。FPSか?それとも格闘ゲームか?そういえば最近FPSの大会が開かれたみたいだし、そっちの話でも———


 「ねぇ先生。」

 

 え?


 彼から話しかけてくれたのは初対面以来の出来事であり、私は固まってしまった。何を言われてしまうのか、蛇に睨まれたカエルのように身動き取れず彼の次の言葉を待っていた。


 「もう、いいんだよ。俺なんて。」

 「いいって、どういう意味だ?」


 しまった。反射的に言葉が出てしまった。

 

 数分の沈黙が流れる。

 

 手にも額にも汗が滲む。一言一言の緊張感に薄暗さも相まって尋問されているような感覚に陥った。蛇が私の体にまで巻きつき私の一挙手一投足に注目されている。声でも出そうものなら、締められるのか、丸呑みか、毒でも注ぎ込まれるか。一度動けば、声を出せば、いつでも、どこからでも襲ってくる、そんな実感が確かにあった。いやいや、待て。考え直すんだ。違うだろう。私は彼の力になるために来ているはずなんだ。弱気になってはいけない。一種の正義感を持って取り組むんだ。そうすれば、きっと彼をなんとかして救えるはず。そうだ。そうなんだ。そのはずなんだけれど。私は彼に顔を向けられなかった。


 未だに沈黙が流れる。今の私にこの沈黙を破る勇気はない。私は臆病である。俯きながら自分の震える手を見つめていると、彼が息をひとつ吐き、吸った。



 「無駄、なんだよ。」


 「俺は、救いなんか必要としてない。」


 「先生、あんたにはわかんないかもだけど、そういう人もいるんだよ。」


 「だから、もう来ないで、いい。」

 


 彼から発せられた言葉にはどこか諦観のような無気力さがあった。

 私は、彼の力になれなかった。一年間近く、彼のためにここに通い詰め、彼のためを思って四苦八苦していたのに———。いや、そんな考えは振り払え!まだ諦めるべきじゃないだろう!彼にはきっと救いの手が必要なはずなんだ。そうだ、ここで折れてはいけないんだよ。ほらみろ、彼は初めて会った時から何も変わっていないではないか。また手立てを変えて、来週再チャレンジするんだ。次はもっと言葉を選んで慎重に。次こそはきっと上手く行くさ。次こそは…。そんな私の肩からどこか力が抜けたような気がした。

 

 もしかして、私は安堵してしまったのか?

 おかしい、なぜだ?

 私は子供たちを導いてあげられる教師になりたかったのではなかったのか?

 苦しんでいる子供がいれば、私は手を差し伸べどん底から救ってあげるのではなかったのか?

 私は彼からお払い箱にされてしまったんだ。なのになぜ、私は。

 安堵、してしまったんだ?


 「———すまない。」

 そう言って私は尋問部屋を出た。これが私の精一杯の言葉だった。


 

 トトトト、階段を降りる。

 足音を聞きつけて、お母様がダイニングから顔を出す。これからのことについてお話ししましょうと、ダイニングに通された。

 

 温かいお茶とちょっとした菓子が置かれる。ダイニングテーブルは白く、眩しいくらいに窓からの陽を反射している。


 「4月になれば悠は3年生になって、受験生になるではないですか。私としてはですね、悠には良い高校に行ってほしくて。今のままでは学力どころの問題ではないですし、なんとかできないのかなと思っているんですけれど。私が思うにですけど、クラスメイトとの折り合いがついていないのが問題じゃないかなと思ってまして!ですから先生には———」


 おそらくだが、神田くんのお母様は教育ママというものに分類されるのかなと思う。そのことは初めてお会いした時の第一声が、悠は医学部に行けますでしょうか?であったところから感じていたことである。私としてはそれ自体が悪いとは思っていない。それが神田くんの夢ならば、なるべく応援してあげるのが親であろうと思っているからである。

 問題はそこではないのだ。お母様はこれだけ神田くんのことを語っていながら、私と同じく彼とコミュニケーションが取れていないであろう、というところである。彼がこうなってしまった原因をわかったふうにしゃべっているが、先週は前年度担任をしていた先生の心無い言葉によって。先々週では、部活の上下関係によって。こうやって毎週コロコロと言うことが変わっているのだ。これを真に受けて、対策を練ったこともあるが効果無し。結局本人が原因を語らないため、解決の手掛かりがない状態に陥っている。


 私はお茶の水面に映る自分の顔を見て、ある考えがよぎった。この策はあまり取りたくないのだが、もう私にはこれしかないのだろう。

 どうやらまるで説法のように長いお話が一段落付いたようだ。ふうっと息を吐き、少し冷めてしまったお茶を飲む。いつも出していただくお茶よりも一層渋みを感じる。


 「分かりました。昨年度同じクラスだった子に少しお話を聞いてみようと思います。何か解決につながるかもしれませんので。」

 嘘だ。そんなことをするつもりは毛頭ない。


 「また来週も来させてもらおうと思うのですが、本人とは少し距離を置きたいと思います。私が毎週のようにお話をすることは、彼にとって辛いことのようなので。」

 これも半分嘘だ。彼は拒絶も肯定もしていない。これは、私のわがままだ。

 

 「そうですか?そう言うのだったらしょうがないですね。悠は先生と会話するのにすらエネルギー使っちゃうの?毎週来てもらってるのに失礼じゃないかしら。」

 「いいんです。私は彼が大事なので。」

 また一つ、私は嘘をついた。


 玄関を出る。ここ一年間通い詰めた家のはずなのに、なぜか初めて見たような感覚になる。意外と大きな家だ。庭もあって、二階建てで、門に表札もあって。そう思った時、ふと二階のカーテンで閉められた窓が目に止まった。拍動が聞こえる。握りしめていた鞄が重く感じられた。これはいけない。私は逃げ帰るように、車に乗り込み学校へ戻った。これから忙しくなるだろう。やることはきっちりやらなければならない。そんな焦りに苛まれた。

 

 週が明け、卒業式。涙を流して、先生や保護者に感謝を述べる。この中学校を巣立ち、それぞれの進路で力を蓄えるのであろう。そんな感動的な別れからいつの間にか終業式の日だ。いつの間にか桜の蕾が膨らんでいる。もうすぐ小学校から上がってきた、元気のいい生徒がやってくるだろう。先生方もどんな子が来るか楽しみ、そんな素振りである。出会いと別れの季節。これが春の代々受け継がれてきた景色なのだろう。

 私は最後のホームルームを終え、校長室に退職届を提出する。これが私の答えだ。卑怯者だと罵られても構わない。私は教員としての役目を果たし通す、そんな強さは持ち合わせていなかった。私には誰かを救えるほどの力はなかった。君に向き合うほどの実直な心は、なかったんだ。私は自分が思ったよりも矮小な存在であったのだな。

 職員室の机を片付けた。引き継ぎも行った。これで完璧なはずだ。なのにどこかモヤモヤが残っている。なぜだろうか。引き出しの中にもなにも入っていないはずだし、書類なんかも片付けたはず。鞄の中を探る。ああ、これか。何かと思えば。ここ数週間、鞄が重かったのはこれのせいだったのか。大切にしていたが、きっとそうではなかったのだな。付箋と共に片付けた机の上に置く。私は軽くなった鞄と共に職員室を出た。これが私の新たなる門出だ。



 『この手紙は、私の教員人生最大の汚点です。願わくば、生徒たちに見つからないように処分をお願いします。』


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