落ち着く場所

そむ

第1話 出会い

 榊結麻は、いつものように会社のデスクに腰を下ろし、整然と並べられた書類を一枚ずつ確かめながら、周囲の同僚に声をかけていた。

「これ、私のほうで処理しておきますね。加藤さんは外回りに集中してください」

 柔らかな笑顔と落ち着いた口調に、相手の緊張はするりとほどける。結麻のこういうところは天性のものだろう。

 その日も、同僚のひとりが帰り際に「榊さんみたいなお姉さんが彼女だったらな」と冗談めかして言い残していった。


 誠実で真面目。けれど、どこか「人誑し」と呼ばれてしまうほどに人懐っこく、異性からの誘いは絶えない。


――それでも。

結麻の心は、いつも空白のままだった。



 一方その頃、皆道伊織は別の世界を生きていた。

 伊織の部屋は、空のペットボトルとコンビニ弁当の空き容器が散らばる、生活感と無精の象徴。

 黒髪のロングヘアが乱れたまま、彼女はノートPCに視線を落とし、淡々とキーボードを叩き続けている。


 システムエンジニアとしての腕は確かで、クライアントからの信頼も厚い。だが、生活能力は壊滅的。

「またコンビニ? ほんと、あんたいい加減にしなさいよ」

 そう呆れながら部屋に入り込むのは、美々だ。元恋人でありながら、伊織を放っておけない友人。

 彼女は慣れた手つきで台所に立ち、冷蔵庫に残されたわずかな食材で簡単な料理を作り始める。


 伊織はそれを横目で見やりながら、またノートPCに向き直る。

 ただ、美々がいなくなった後の静けさの中で、心の奥底にひりつくような孤独を抱えていた。



 結麻と伊織――

 二人はまったく異なる日常を送っていた。

 整った生活と、破綻した生活。

 誠実と、いい加減。

 異性愛者と、根っからの同性愛者。


 一見すれば交わるはずのない二人の人生の軌跡が、ほんの小さな偶然から触れ合おうとしていた。


 それは、瀬奈の一言がきっかけだった。

「結麻、この週末飲みに行かない? ちょっと、人数が足りなくて。知り合いばかりの、気楽な会だから」


 その場に現れるのが――皆道伊織。


 互いに何も知らず、ただ一つの席を共にするために。

 まだ始まっていない恋の予感を孕みながら、二人の物語がゆっくりと幕を開けようとしていた。


 ◇ ◇ ◇


 金曜の夜、駅前の居酒屋の一角は笑い声で賑わっていた。

 瀬奈に半ば押し切られる形で参加した結麻は、テーブル席の一角に座りながら、やや居心地悪そうにグラスを手にしていた。


 (やっぱりこういう場、慣れないな……)

 真面目な結麻は合コンの様な空気が少し苦手だった。それでも、場を壊すわけにはいかないと笑顔を絶やさず、相手の話を丁寧に聞いては上手に返していく。


 そんな彼女を、男性陣も女性陣も「感じがいい」と口々に褒める。


――その中で、ひとりだけ浮いている人がいた。


 端の席で黙々と唐揚げをつつき、話を振られても短く返すだけ。

 黒髪のロングをさらりと背に流した美形の女性。


「そっちの彼女、あんまり喋らないね」

 誰かがそう茶化すと、隣に座っていた美々が笑ってフォローした。

「この子、人見知りなのよ。皆道伊織。仕事はシステム系で、こういう場じゃだいたい壁の花」


「……別に、壁になりたいわけじゃないけど」

 ぼそりと反論した伊織の声に、結麻は思わず視線を向けた。


 鋭い印象の瞳が、一瞬だけこちらを捉える。

 その視線に射抜かれたように、胸が少しざわめいた。


「榊さんっていうんだっけ? すごい愛想いいよね。こういう場に慣れてるの?」

 男性のひとりが冗談混じりに聞いてきた。


「いえ、むしろ苦手なんです。でも……せっかく皆さんとご一緒ですから」

 柔らかな笑顔で答える結麻に、場が和む。


 そんなやり取りを、伊織は無言で見ていた。

 ただ、グラスの氷を揺らしながら、口角がわずかに上がる。


(……人誑しって、こういう人のことか)


 結麻が何気なく目をやると、伊織と視線が交わった。

 言葉はない。けれど、何かを見透かされているような鋭さと、逆に吸い寄せられるような不思議さがそこにあった。


(なんだろう、この人……)


 賑やかな笑い声に包まれたテーブルの端で、二人の間だけ静かな気配が流れる。

 その小さな静寂こそが、これから始まる物語の最初の糸口だった。



 二次会のカラオケボックスを出たとき、夜風が頬に当たって心地よかった。

 けれど結麻の足取りは少し覚束ない。

「……ちょっと飲みすぎちゃったかも」

 苦笑いを浮かべた彼女の頬は、ほんのり赤い。


 瀬奈は別のグループと楽しそうに話しながら駅のほうへ先に歩いていき、美々も知り合いに呼ばれて人波の中へ消えてしまった。

 気づけば、結麻と伊織だけが取り残されていた。


 「……歩ける?」

 落ち着いた声が横から響く。


 「え、あ、大丈夫です……多分」

 そう言いながらも、ふらりと身体が傾いた。

 その瞬間、伊織の腕が素早く伸び、結麻の肩を支える。


 「……ごめんなさい」

 結麻は慌てて体を離そうとするが、伊織は軽くため息をついた。

 「無理しなくていいの。ほら」


 半ば強引に腕を貸される形で、結麻は伊織の隣を歩くことになった。

 黒髪が夜風に揺れ、横顔は街灯に照らされて凛としている。


 (……意外と、優しい人なんだ)

 結麻はそんな風に思った。合コンのときは無口で、どこか冷たくすら感じられたのに。


 「榊さんって、断れないタイプでしょ」

 ぽつりと伊織が言った。


 「え……どうしてそう思うんですか?」


 「顔を見てたら、なんとなくわかる。あんなに勧められたら、飲まないわけにいかないって思っちゃう人」

 淡々とした声だったが、不思議と図星を突かれた気がして、結麻は言葉に詰まった。


 「……でも、皆が楽しそうにしてくれるなら、それで」

 結麻は少し恥ずかしそうに笑う。


 「ほんと、真面目。損しちゃいそう」

 伊織がわずかに口角を上げた。


 しばらく無言で歩く。

 けれど沈黙は不思議と重くなく、夜の空気に馴染んでいた。


 やがて駅前の灯りが見えてくる。

 「送るね。ひとりで帰すのは、ちょっと心配だから」

 伊織が当然のように言った。


 「え……でも、悪いですよ」


 「いいの。……放っておいたら、また誰かに呑まされそうだし」


 冗談めかした口調の奥に、わずかな苛立ちのようなものが混じっていた。

 その温度に、結麻の胸がじんわり熱くなる。


 (こんなふうに、誰かに強く気を遣われるなんて……久しぶりかも)


 夜の街を並んで歩く二人の姿は、まだ互いに名前を呼び合うこともない。

 けれどその距離は、確実に少しだけ近づいていた。


 「……ここが、私の家です」

 マンションの明かりがふわりと夜道を照らす。

結麻が足を止めてそう告げると、伊織は立ち止まって建物を見上げた。


 「きれいな場所。……榊さんらしい」

 静かにそう言う声は、低めで落ち着いている。


 「らしいって、どういう意味ですか?」

 結麻が少し照れくさそうに笑う。


 「ちゃんとしてて、落ち着いてる。……そんなふうに見えたから」

 伊織の黒髪が夜風に揺れ、視線がゆっくりと結麻に向けられる。


 胸の奥が、不意にざわついた。

 合コンのときの無口な印象とは違う。言葉は少なくても、その一言一言に真っ直ぐさがある。


 「今日は、本当にありがとうございました。わざわざ送ってくださって……」

 結麻が頭を下げると、伊織は首を横に振った。


 「ううん。……榊さん、無理に勧められても断れないでしょ。見てて、少し心配になったから」


 「……そんなふうに、見えてました?」

 結麻は思わず苦笑いをもらす。


 「うん。優しいのは素敵だけど、誰にでも応えてたら疲れちゃうよ」

 その声は叱るようでも、からかうようでもなく、本当に心配している響きだった。


 結麻は胸の奥が温かくなるのを感じた。

 「……伊織さんって、思っていたより優しいんですね」


 「そうかな。ただ……もし次に一緒に飲むときは、私の隣に座ったほうがいいよ」


 「え?」


 「余計なお酒を飲まされないように、ちゃんと見ていられるから」

 視線を外さずにそう言われ、結麻はふっと息を呑む。


 夜の静けさの中、その約束めいた言葉が心に残る。


 「……じゃあ、次は必ず隣に座りますね」

 そう返すと、伊織の口元にほんのわずかな笑みが浮かんだ。


 「……約束」


 自動ドアが閉まる直前まで、伊織の姿がそこにあった。

 結麻は胸の奥に、不思議なときめきを抱いたまま、自分の部屋へと歩みを進めた。






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る