多和田葉子『かかとを失くして 三人関係 文字移植』
某月某日
多和田葉子『かかとを失くして 三人関係 文字移植』を読む。恥を忍んで言えば、その昔ぼくは多和田の作品にかんしてある種近寄りがたい雰囲気を感じ、だからいちおうは有名になった作品を物見遊山で手にしてはみたもののなんだかしっくりこず、それ以上こちらから近づいていくことはなかった。10年前、ひょんなことから英語をやり直しはじめたことを機に多和田の作品をぼくなりに虚心坦懐に読んでみるようになり、そしてデビュー作もおさめられているこの文庫本を手に取った、というわけだ。
ではどこが「近寄りがたい」と思ったのかというと、たぶんにそれは「多和田の世界を理解できる人間」のみが持つスノッブな匂いだったのかもしれない。この文庫本で多和田の世界が「21世紀の世界文学」と形容されているのを読んだり、あるいは多和田や彼女の読者が「エクソフォニー」といったタームを駆使して言葉の垣根を超えた創作をめぐる論をぶっているところに出くわすと、当時軟弱で外国語コンプレックス丸出しで生きていたぼくは「けっ」「外国語ができるのがそんなにエラいのか」とくさったりもしたことを思い出せる。
話がどんどん脱線してしまうが(ごめんなさい)、さっきも書いたようにぼく自身が英語を学ぶようになりその英語学習をとおしてアイデンティティ・クライシス的な体験をしたことがきっかけで、多和田の作品が著している境地をはばかりながら理解できるようになった、ということかもしれない。別の言い方をすれば、ぼくの側もそれなりに鈍感力を鍛えられたというかきれいな言い方をすれば自信がついたのだろうと思う。では、そうして鈍感な自信家になったぼくがどうこの『かかとを失くして 三人関係 文字移植』を読んだかというと、これがなかなかむずかしい。
これら三篇の作品たちは独立して読めて、どれを取っても読めば読むほど作家の「たくらみ」(大江健三郎)に唸らされてしまうのだけど、ぼくがまず惹かれるのは多和田の世界ではいちいちこまかい現象が語り手の精神の内奥までゆさぶり、そこから妄想めいた発想まで許すところまで至るその落ち着かなさだ。言い換えれば、多和田世界を読む(語り手に付き添って、彼・彼女の中に入り込んで五感を共有して体感する)ということはその語り手にならって作品世界の迷宮で過敏になった感覚を駆使して、そして酩酊するということを意味するだろう。
この迷宮世界は、それこそカフカ『変身』『訴訟』やサルトル『嘔吐』でも読むような感じで楽しめると思うのだけどぼくがまずなによりも近いなと思ったのはそうした先行する本のみならず、ぼく自身が英語を学んでいてときに「あれ、これどういう意味なんだろう」「誤訳だろうか。なんだかわけがわからない」と文脈・文意を見失いさまよううちに自分がいったいなにを考えているのか、なにを信じたらいいのかまでわからなくなってしまって頭がクラクラしはじめるような、そんな感覚だ。言い換えれば多和田の世界は、そんな「クラクラ」こそが醍醐味なのだろうと思う。
でも、だとしたらそんな多和田の世界は外国語ができなければ(より正確に言えば、外国語にたいして感受性がひらかれていなければ)理解できないのだろうか。そうした側面もないわけではないかもしれない。ただ、これからはさまざまなかたちで外国人と触れ合い彼らの言葉に翻弄されることが要請される。ならば、多和田が自身の生理にもとづいてダイレクトに世界の実相を描ききったこれらの作品群(抽象的でありながら、同時にどこまでもリアルだ)を「いま」味わわないのはもったいないとも思う。
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