第29話 おねーさん、やっぱり僕のこと――

 * * * * * *


 10月19日、土曜日。午前十時過ぎ。


 

「それで……」


 二人とも、わたしの部屋で寝ていた――と。

 そこまではわかった。 


 朝食を終えて、食器も片づけたあと。

 テーブルの上には、湯気の消えたコーヒーカップだけが残っている。

 

 はあ、と大きくため息をつく。


 あおいのこと、クズって言ってたこと。

 そして――わたしが、泣いていたこと。


 ……ぜんぶ、碧にバレたんだ。


 “悲しいです”って、あれはそういう意味だったのか。


 まあ、でも――全部本当のことだし。

 部長だって、わたしを心配してくれて、ここまで来てくれたんだよね。


 誰も悪くない。

 少なくとも、責めるようなことじゃない。


 ここまでは、把握できた。


 でも……肝心な答えが、まだ出てないじゃない!


「いやいやいや、だからなんでベッドで……わたしの隣で碧が寝てて、部長はソファの上でパンツ姿で寝てたんですかーー!?」


 一気にまくし立てたせいか、碧も部長もポカンとしている。


 我に返った部長が、やや気まずそうに口を開いた。

「……あ、ああ。それで、最初は碧くんとソファに座って話してたんだが」


「どうしても眠たくなってしまってね」


「そうですよお。駿さんったら、話してる途中で舟漕ぎだしちゃって」


「それで私たちも寝させてもらうことにして、どこで寝るかという話になって……。ソファか床かでじゃんけんをすることになった」


「私が勝ったから、ソファで寝かせてもらったんだが――

 碧くん、まさか彼女のベッドで寝てたなんて……!」

 キッと碧を睨む部長。


「だって、床が固くって……」

 テヘペロと言わんばかりの顔。


「もぉおおお!! 床が固いからって、勝手にベッドに入ってこないでよ!!」

 思わず叫んだ。

「え、でもおねーさんのベッド、ふわふわで――」


「説明いらないから!!!」


 わたしが遮ると、碧は肩をすくめて「冗談ですよぉ」と笑う。

 その横で、部長は静かに眉間を押さえた。


「……どうして私は、こんな現場に立ち会っているんだろう」


「す、すみません……!」

 思わず謝ってしまう。なぜわたしが謝ってるの!?


「それで彼女には何もしてないだろうな?」

 部長の声が低くなる。ゴゴゴゴ……と聞こえてきそうな圧。


「もちろん、何もしてませんよぉ~。隣で寝かせてもらっただけ。だって僕、紳士ですから」

 悪びれもせず言う碧。

 いやいやいや、紳士は人のベッドに勝手に入らない!!

 一体どの口がそれを言うのか。わたしも負けじとキッと睨んでやった。


「……百歩譲って、碧の行動はわかったわ」

 ため息まじりに言うと、碧がぶつぶつと不満をこぼす。

「百歩って……」


 無視して、今度は部長に向き直った。


 言いにくいけれど、どうしても聞かずにはいられない。


「それで、あの……部長がなぜパンツ姿だったかの謎が、まだ残ってるんですけど」


「ああ、それは」

 部長はまるで当然のことのように言った。

「そのまま寝たらズボンがシワになるじゃないか」


「えっ」


 理解が追いつかない。


「つまり……寝る時にシワになるのが嫌で、自分から脱いでいたと?」


「そうだ」


 (いや、即答なんだ……)


「僕もびっくりしましたよ~。駿さんが急に脱ぎだしたから。

 てっきり寝ぼけて、自分の家と勘違いしたのかと思いました」


「いや、どう見ても三枝さえぐささんの家じゃないか」

 部長がクスッと笑う。


「そ、そうでしたか……」


「ああ、そうだ。それで椅子に背広とズボンをかけさせてもらっていたんだ。勝手に悪かったね」

 また、あの部長のハニカミスマイルが出た。


 えっ、気にするのそこ??

 と混乱しながらも、

「お、お気になさらず……」と言うのが精いっぱいだった。


 しーーーーん。


 時計の秒針の音が、やけに大きく響く。


 つまり。部長的には、


 ズボンがシワになること >> 部下の部屋でパンツ姿になること。


 ……という認識で、合っているらしい。


 (ちょ、ちょっと待って。そこまで几帳面なの!?)


 なんとか理解した瞬間、ふと頭をよぎる。


 ――もし、社内の駿様信者たちがこの話を聞いたら?


 絶対に卒倒する。いや、もはや神話崩壊レベル。


 完璧な上司・高峰部長の妙なこだわりが、

 じわじわおかしくなってきて、つい口元が緩んだ。


「……くすっ」


 笑いを堪えきれず、わたしはそっと視線を伏せた。




 「……おねーさん、なんかニヤついてない?」


 ジト目でこちらを見てくる碧。


 (ま、まずいっ……!)

 話の流れ的に、完全に部長のパンツ姿を思い出してニヤついてたと思われている――!


 「そ、そんなわけないッ!」

 慌てて声を上げ、わざとらしく咳払いをする。

 「そ、それでっ!! 碧はどうしてうちに残ったのよ? そのまま帰っても良かったじゃない!」


 「うん。僕、確かめたいことがあって……」


 碧の視線が、真っすぐにわたしを射抜いた。

 (な、なに? その目……)


 「おねーさん、僕のこと……待ってくれてたの?」


 「……っ」


 言葉が詰まる。

 確かに――待っていた。

 数日前までは、ずっと。


 でも。

 いつ連絡が来るかもわからない関係で。

 ――トドメを刺すように、街中でイケオジと抱き合ってる碧を見てしまって。


 もう、疲れてしまった。


 ようやく気持ちを整理して、前に進もうと思っていたところなのに。


 (なんで今、その質問……)


 沈黙を破ったのは、部長だった。


 「……横から失礼するよ」


 低く、落ち着いた声。

 わたしたちの間に、静かに割り込んだ。


 「私としても、君からの答えを聞かせてほしい」

 「え……」


 「もし君と碧くんが好き合っているというのなら、私はこのまま帰らせてもらう。

 二人の邪魔をするほど野暮じゃないからね」


 部長の穏やかな口調に、張りつめていた空気が少しだけ和らぐ。


 だが、次の一言で再び息が止まった。


 「だが――もし君が碧くんのことを避けているのなら、帰ってもらうのは碧くんのほうだ」


 「えっ!!」

 碧が目を丸くした。


 「そんな……。おねーさん、僕のこと、嫌ってないよね?」

 泣きそうな顔で訴えかけてくる。


 「だって……」

 「僕がおねーさんの誕生日に贈った薔薇の花束、ドライフラワーにして飾ってくれてるし」


 そう言って、碧が棚の上を指さした。


 つられて視線を向けた瞬間――息が止まる。


 「なっ……!!」


 そこにあったのは、ゴミ箱に捨てたはずの薔薇の花束。

 綺麗にリボンが整えられ、まるで最初から飾ってあったかのように、棚の上で静かに咲いていた。


 (な、なんで……!? あれ、確かに捨てたのに……)


 違和感に気づかなかった自分に、背筋がぞわりとした。


 「……おねーさん、やっぱり僕のこと――」


 碧の声が、どこか確信めいて聞こえた。


 息をのんで、わたしは無意識に手を握りしめていた。

 その視線に射抜かれるだけで、胸がざわつく。


 ……でも、待って。


 わたしの答えを待たれているこの状況がおかしい事に気づいた瞬間、急に冷静になった。


 (おかしくない? なんで、わたしが答える側になってるの?)


 逆に――聞きたい。


 碧は、付き合っている人と別れたのだろうか?

 それとも、まだ続いているのだろうか?

 だって、ひと月も連絡がなかった。

 それって、そういうことじゃないの?


 一昨日、街中でイケオジと白昼堂々抱き合っていたのは?


 胸の奥に、あの光景がよみがえる。

 忘れようとしても、目に焼き付いて離れなかった。


 わたしは、ゆっくりと顔を上げた。


 「……じゃあ、逆に聞くけど」

 静かにそう言い切った瞬間、

 自分の中で何かがカチリと切り替わった気がした。

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