第27話 君に任せるわけにはいかないな

 * * * * * *


 10月18日、土曜日。午前三時過ぎ。


 

 ――三枝さんが、カウンターに突っ伏した。


 「……あ〜あ」

 あおいくんのため息が聞こえる。


 「完全につぶれちゃいましたねぇ」


 ツンツン、と指先で彼女の肩をつつく碧くん。

 反応は、ない。


 「飲ませすぎたか……」


 思わず頭を抱えた。

 最初は楽しく飲んでいたのに、気づけばこの有様だ。


 (こうなったら……連れて帰るしかないな)


 「碧くん、会計お願いできる? 彼女を送っていくから」


 「は〜い。でもどこに連れて帰るんですか? まさか駿さんの……家?」


 小首をかしげながら、探るような目で見てくる碧くん。


 「……ああ、そうだが。彼女の家、知らなくて」


 そう言いかけた瞬間、彼がさらりと被せてくる。


 「でもでも、酔った部下をお持ち帰りって、やばくありません?」


 「……それは……」


 痛いところを突かれた。

 確かに浅はかだった。言葉に詰まり、少し顔が熱くなる。


 「僕、おねーさんの家、知ってますよ」


 フフッ、と笑う碧くん。


 「……そうなのか?」


 「僕たち、仲いいんです」


 マウントを取るような笑顔。

 その一言に、胸の奥がざわついた。


 たしかに――この店に入ってから、三枝さんの様子はどこかおかしかった。

 碧くんの軽口に困ったように笑い、グラスをいじる仕草がぎこちない。


 (……二人は、そういう関係だったのか)


 もしそうなら、言ってくれたらいい。

 けれど、どこか違和感が残る。


 頭の奥に、あの日の記憶が蘇った。


 『……んどうあおいのスケコマシがぁぁぁーーー!!!』

 『女心をもてあそぶなーーー!!!』


 会社の非常階段で、泣きながら叫んでいた彼女。

 そして――あの残業の夜。

 彼女が、漏らした言葉。

 『……わたしが勝手に、クズにひっかかっただけというか……』


 ……んどう、あおい。


 目の前の碧くんを見つめる。

 胸の鼓動が、静かに速くなった。


 「碧くん、君の苗字って?」


 確かめずにはいられなかった。


 「え? 僕ですか? 新堂ですけど」


 その瞬間、頭の中で線が一本につながった。


 ――『新堂碧しんどうあおいのスケコマシがぁぁぁーーー!!!』


 間違いない。

 彼女がクズと呼んだ相手は、この男だった。


 「……碧くん。君に任せるわけにはいかないな」


 低い声で告げると、彼が怪訝そうに眉を寄せた。


 「え? どうしてです? 僕とおねーさんは――」


 「本当に? 彼女は君のことを、どう思ってるんだろうね?」


 「ウッ……」

 言葉を詰まらせる碧くん。


 俺は静かに立ち上がり、彼を見据えた。


 「部下が泣く姿を、もう見たくないんだ」


 低く落とした声に、碧くんがわずかに眉をひそめる。

 軽口を叩くでもなく、視線を泳がせるでもなく――ただ、固まっていた。


 「……彼女は、“クズに騙された”って泣いていたよ」


 「なっ……!?」


 予想外の反論に、碧くんは完全に固まった。


 「おねーさんから……どこまで聞いて……!?」

 かすれた声が震える。

 その表情は、怒りでも反論でもなく――明らかに戸惑いとショックだった。


 (……図星、か)


 しばらく沈黙が落ちる。

 碧くんは視線を落とし、グラスの縁を指でなぞった。

 まるで叱られた子どものように肩を落とし、しょんぼりと呟く。


 「……そんな、泣かせてたなんて……」


 その声には、罪悪感がにじんでいた。


 俺は深く息を吐いた。

 ――彼女を守るためにも、ここは譲れない。


 * * * * * *

 

 お店には、もう一組ほどしか客が残っていなかった。

 カウンターの奥でマスターがグラスを拭いている。


 「マスター、すみません。お客さんがつぶれちゃって……送っていきますね」

 碧くんが声をかけると、マスターは小さく頷いた。


 「わかった。今日はもう上がってくれていいよ」


 「ありがとうございます」


 そう言って軽く頭を下げ、俺たちは店を出た。


 外の夜風が思いのほか冷たく、三枝さんは小さく身を震わせた。

 碧くんが慌てて肩を貸す。


 「ほら、おねーさん、しっかり」


 「う、うん……らいじょうぶ……」

 呂律が回っていない。ここまでは、どうにか足を動かしていたが、

 店の看板が目に入った瞬間――


 「もう~~、クレセントってあによお……おサレすぎるってのぉ……」


 そうぼやいた直後、力が抜けたようにその場にへたりこんでしまった。


 「……完全に落ちたな」

 俺がため息をつくと、碧くんが腕まくりをした。


 「よし! 僕が背負います!」


 「いや、無理だろ。君、細いじゃないか」


 「失礼な! 見た目より筋肉あるんですよ!」

 気合を入れて彼女を抱えようとしたが――


 「う、重っ……」


 「ほら」

 苦笑しながら俺が代わりに抱き上げる。


 「お、お姫様抱っこ!? ズルいですよぉ、駿さん!」

 「仕方ないだろ。彼女、完全に意識ない」


 俺がそう言うと、ぷうっと頬をふくらませ、口をとがらせる碧くん。


 ……これは計算か? いや、天然か?

 どちらにせよ――こういう仕草がスケコマシと呼ばれる所以なのかもしれない。


 思わずため息が漏れた。

 (まったく、罪なやつだ)


 「悪いが、彼女の鞄を持ってくれるか」

 そう頼むと、碧くんはすぐに頷き、三枝さんのバッグを肩にかけた。


 「はいはい、こっちの通りならタクシー拾いやすいです」

 そう言いながら、手慣れた様子で夜の通りへと先導していく。


 その横顔を見ながら、俺は腕の中の彼女を少し抱え直した。

 街灯の光が、彼女の頬を淡く照らしている。


 腕の中でぐったりしている三枝さんを抱えたまま、通りに出た。

 碧くんが手を上げるたびに、タクシーが一瞬減速して――そして、そのまま通り過ぎていく。


 「……酔っ払いお断り、ですね」

 苦笑いしながら、碧くんがぼやいた。


 (まあ、無理もないか……)

 この状態じゃ、そう見えて当然だ。


 ようやく四台目で、停まってくれる車が現れた。

 運転手が心配そうにこちらを見ている。


 「すみません、酔ってるだけです。すぐ降ろしますから」

 できるだけ穏やかに説明すると、運転手がうなずいてドアを開けた。


 そして、俺たちは後部座席に三人で乗り込んだ。

 

 「ありがとうございます、助かります」

 運転手に頭を下げながら、俺は三枝さんを抱えたまま後部座席へ。


 俺の隣に碧くんが滑り込み、荷物を抱え込むようにして座った。

 さすがに腕の中の彼女を横にできず、膝の上で大切に支える形になる。

 狭い車内に、ふんわりと彼女のシャンプーの匂いが漂った。


 碧くんが住所を伝えると、車は静かに発進する。

 シートにもたれた三枝さんは、穏やかな寝息を立てていた。


 「彼女、お店の名前“エッセル”だと思ってたみたいだ」

 俺がぼそりと呟くと、碧くんが「え?」と笑った。


 「エッセル?」


 「私もわからないんだが、彼女にはそう見えてたらしい」


 「どこをどうやったらそうなるんですか」

 「さあな」


 「もー、おねーさん、アイスじゃないんだから」

 碧くんがクスクス笑いながら、眠る彼女の髪をそっと払った――その瞬間。

 彼女がふにゃっと顔をしかめ、かすかに唇を動かした。

 「……燃えるごみは、月・水……」


 「ごみ?」とつぶやく俺に、碧くんがプッと吹き出した。


 「たぶん……チョコ〇ータとセ〇コです」


 「……誰だそれは」

 「ジョ〇ョです」


 「……わからん」

 「ですよね」


 間の抜けた会話のあと、碧くんがふと思い出したように顔を上げた。


 「そうだ、駿さん! 僕どうしても聞きたかったんです」

 「ん?」

 「イタリアって、本当に燃えるゴミの日、月・水・金なんですか?」


 「いや、私の地域は土曜日だったが」


 「そうなんだぁ!」

 碧くんが、こらえきれず笑い出した。


 「だそうですよ、おねーさん」

 そう言って三枝さんの耳元で優しく囁くと、彼女は寝ぼけた声で――


 「……ゲッスイ、きん……」


 そう返事をして再び小さな寝息を立て始めた。


 「……律儀な人だな」

 俺が苦笑すると、碧くんが肩をすくめる。

 「そういうところ、可愛いんですよね」


 その言葉に、俺は思わず息をついた。

 まったく、どこまで本気で言っているのか――。


 そう思いながら、そっと視線を前に向けた。

 タクシーの窓の外では、夜の街の灯が静かに流れていく。

 ネオンが滲むガラス越しに、ふと――

 イタリアの夜景が重なって見えた。

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