第7話 クッ……! あざとい……!!

 どうやって会社まで戻ったのか、自分でも覚えていない。

 気づけば、ビルの非常階段に座り込んでいた。


 涙が止まらない。頬も胸もぐちゃぐちゃに熱い。


(なにあれ……なにあれ……!!)

(碧って……男の人と付き合ってた? あんなふうにキスして……!)

(わたしのこと好きだって言った、その口で……!?)


 頭の中で繰り返される映像に、胸がざわついて収まらない。

 信じたくないのに、忘れようとしても、目に焼きついて離れない。


(しかも……わたしに気づいて……!)

(……笑って……手を振ってきた……!?)

(悪びれもせずに……!! 信じられない!!)


 込み上げるものが胸いっぱいに膨れあがって、もう抑えきれなかった。


新堂 碧しんどう あおいのスケコマシがーーーー!!!」


 怒鳴り声が非常階段に反響する。


「女心をもてあそぶなーーー!!!」


 怒りに任せて叫んだら、胸の奥で少しだけ空気が動いた気がした。


 ハッと時計を見れば、ミーティングの時間が迫っていた。

 あと三十分。


(顔、ぐちゃぐちゃのままじゃ出られないし……化粧も直さなきゃ)


 涙と鼻水で濡れた頬を慌てて手の甲で拭い、バッグに手を伸ばした。


「あ、あれ……? ハンカチがない」


 ポケットにも、カバンの奥にもない。

 記憶をたどれば、あの路地裏で汗を拭いて——そのまま、碧を見て……。

(落とした!? まじかー! この顔でトイレに駆け込むのはさすがに……)


 途方に暮れたそのとき。


「……あの。これ、良かったら」


 目の前にふいに差し出されたのは、きちんと折り畳まれた白いハンカチ。

「ぎゃーっ!!」

 思わず悲鳴を上げて飛びのく。


「えっ、えーーーっ!? いつの間に!?」

 慌てて顔を上げると、そこには清掃員の制服を着た男が静かに立っていた。


「すみません。驚かせてしまいましたね」

 落ち着いた声が返ってきて、余計に恥ずかしさが込み上げる。


 やばい。泣いて叫んでるところを、ぜんぶ見られてた!?

 このぐちゃぐちゃの顔も……確実に。

 恥ずかしさに、咄嗟に両手で顔を覆った。


 でも、手の隙間からちらりと覗いた顔は、どう見ても——イケメンだった。

 帽子を深めにかぶっているが、整った輪郭と知的な眼差しは隠しきれない。

(え、こんな清掃員さんいたっけ……? 最近入った人かな?)


 せっかくの親切を無下にできず、私はハンカチを受け取った。

「助かります! ありがとうございます!」


 鼻をかんでしまった瞬間、びよーんと伸びた鼻水に凍りつく。

(み、見られた!?)


 恐る恐る顔を上げると、イケメン清掃員はほんの少し引いたような顔をしていた。

「す、すみません!! 洗ってお返ししますので! あの……お名前は?」


「名乗るほどの者ではありません」


「……!?」

(い、今どきこんなセリフを吐く人いる!?)


 おかしさと恥ずかしさが入り混じって、思わず吹き出しそうになる。

 負けじと胸を張り、「このご恩は必ず!」と口走ってしまった。


「あの、清掃員さん……ですよね? 次はいつ来られますか?」

「……あー。明後日です」

「では、その時にお返ししますね!」


 男は軽く会釈し、静かに去っていった。


 残された私は、まだ胸の奥がざわついたまま——けれどさっきより少しだけ、呼吸が楽になっていた。



 * * * * * *



 プシューッ。

 缶ビールを開けて、ぐいっとひと口。


「ぷはぁーーー!」


 冷えた炭酸が喉を駆け抜け、やっと一息つけた気がした。

「ああ、今日はハードだったなあ……。こんな日は飲まなきゃやってられない」


 テーブルの上には、冷蔵庫にあった残り物でサッと作ったおつまみ。

 それをつまみながら、今日一日の出来事が頭をぐるぐると巡る。


 夕方までは市場調査。

 来週から赴任する高峰部長の話。

 そのあと……碧あおいとスーツ男の、あの衝撃的なキスシーンを目撃。

 会社に戻って泣き崩れたら、謎の清掃員さんと遭遇。


 ミーティングはなんとかこなした。

 資料の一部が更新前のままだったけど、すぐリカバーして報告できたし。

 その後は後輩のフォローもして……。


「……我ながら、よくやったよ。わたし」


 ビールを飲み干しながら、思わず自分をねぎらう。

 でも一番の衝撃はやっぱり碧だ。


 思い出すと、また胸の奥から怒りが込み上げてくる。

(怒り?嫉妬? どっちにしろ、あんなの許せるわけないでしょ)

(別の男とキスしてる最中に、こっち見て手を振るとか……何考えてんのよ!)

(しかも最初は強引にキスされてる?って思ったけど……結局受け入れてたじゃん……)


「はあぁ~~~……」

 大きなため息をついた瞬間、スマホが震えてビクッとした。


 LINEの通知。差出人は——碧。


『今からおねーさんの家、行っていい?』


「はあああああ!? どの面下げて!? こんな時間に!? ……って、あ、今日は月曜。バーは定休日か」

 いやいやいや! あのスーツ男に抱かれてたんじゃないの!?


 動揺して放置していると、追い打ちをかけるように「ウルウル目の子犬スタンプ」が数回。


「クッ……! あざとい……!!」


 それでも既読スルー。

 次に送られてきたのは「首をかしげる?マーク付きのワンコスタンプ」。


「ええい、うるさいっ!」


 私は「だが断る!」スタンプを即座に返した。

 その瞬間から、碧からの通知はぴたりと止まった。


 スマホを伏せてテーブルに置き、残りのビールを一気に飲み干す。

 そのまま布団に潜り込むと、どっと疲れが押し寄せてくる。


(……もしかして、このまま直接家に来たりしないよね……)


 少しだけ心配になったけれど——結局、碧が来ることはなかった。

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