Nメンタルクリニックの診療録
八澤りゅう
第一話 客足の途絶えないホテル
客足が途絶えないホテル①
受付のカウンター横に飾られた胡蝶蘭の花も上から順に散り始め、だんだんと寂しくなってきた。
9月の初め、世間はまだまだ厳しい残暑の中だが、閑古鳥の鳴く当クリニックは私と先生のために冷房を効かせているようなもので、クーラーの苦手な私は白衣の下にインナーを着こみ、カーディガンにひざ掛けとおよそ季節に似つかわしくない出立ちで、今日も始業からずっとこうして、受付の椅子に足をぶらつかせて座っている。
祝開院。そんな華々しい文句の祝花が虚しく感じられるほど、8月に開院したばかりのここ「Nメンタルクリニック」は先生が大学病院から継続して診ている方を除けば新規の患者様はほぼ皆無で殆ど開店休業状態だ。
「谷神君、今日の予約は?」
時刻は10時過ぎ。同じく暇を持て余している様子の七田先生が診察室からやってきた。私はデスクトップの画面を先生に見せながら、「今の所は……今日もゼロでーす」と答える。
片腕だけ白衣の袖を捲り上げているのはいつものことで、右手で万年筆をくるくると回す癖もいつものこと。細身の長身を屈め、塩顔に掛けた眼鏡を同じく細長い指でクイッとあげると、
「ふうん、そっか」
先生は画面をしばらく見つめてから、そんな感情の込もらない返事をしてまた診察室へと戻って行った。
断わっておくが、先生の言葉に感情が入っていないと感じるのはいつものことで、機嫌が悪い訳でも、患者さんが来なさすぎて心を凍らせてしまった訳でも決してない。
普段から無愛想とか人に対して冷たい訳でも無く、先生は無駄を省くのを極端に好む合理主義なところがあるので、どうしても機械的というか無機質な印象を相手に与えてしまうのだ。
心療内科医としてそれはどうなのだろうと思わないでもないが、大学病院では准教授を務めていただけあって頭の回転は相当なもので、それに腕の方も確かなものだ。
そんな七田先生が大学を辞めて開業する。その発表があった時、心療内科教室は、いや大学病院自体が中々の騒動に見舞われた。
もちろん現役の准教授が退任するのだからある程度の衝撃があるのは当然だが、それ以前に先生は新規開業するクリニックへの引き抜きに、あろうことかこの私を選んだことが騒ぎの中心だった。
私は先生の退職を他人事のように「へえ、そうなんだ」ぐらいにしか思っていなかったが、ある日医療秘書課にふらっと現れた先生は、私に向かって「一緒に来てくれないか?」そう言ったのだった。
そんなプロポーズめいた言葉に職場はどよめき、あっという間に様々な憶測や噂が病院中に飛び交った。中には「何でアイツなんかが」と言ったやっかみめいた陰口もあったが、なぜ先生が私のような凡庸なアラサー女に白羽の矢を立てたのか、それについて私が先生に尋ねたところ、「だって君、准看持ってるんでしょ」と言う短い返答があり思わずズッコケてしまった。
高校時代、衛生看護科だった私は一応准看護師の資格を取得している。その事を心療内科教室の飲み会か何かの機会にぽろっと口にしたことがあったのだ。
おそらく先生はそれを覚えていたのだろう。長年医療事務に携わってきたから当然
しかしそんな話をしたのは私が新卒の頃、かれこれ10年以上も前のことだからそれを覚えていた先生の記憶力も凄まじい物がある。さすがは医者、ドクター七田恐るべし。
その後先生は「それに……」と付け加えたが「いや、何でもない」と言葉を濁してしまった。その時はあまり気にしなかったが今となっては「それに……」に続く言葉が何だったのかが多少気にはかかる。
まさか「それに君はとっても綺麗だし」とか?いや、七田先生に限ってそんなこと言うはずがないな。……あまりにも退屈すぎてそんなくだらないことをぼうっと考えていた所へ、自動扉が開き来院者がやってきた。
「ちょっと聞いて!大変なんです!」
飛び込んで来るなり雷のようにそう叫び、カウンターに座る私の肩を揺するふくよかなマダム。
「お、落ち着いてください児野田さん。診察をご希望ですか?」
「診察でも何でもいいから話を聞いて!そうじゃないと私おかしくなっちゃう!」
血相を変えて叫ぶマダムの名前は児野田さん。睡眠障害で先生が大学の時から診ている患者さんだ。いつもはどちらかと言えば物静かな児野田さんがそこまで言うなんてよっぽどのことがあったに違いない。
「わ、わかりました、わかりました。すぐ入って頂きますので、掛けてお待ちください」
ぜえぜえと息を荒くしている児野田さんをソファーに落ち着かせ、素早く先生にカルテを回す。
「先生、児野田さん来られてます。お願いします」
「児野田さん?」
先生は一瞬片眉を僅かに動かしたがすぐにパソコンから電子カルテを開く。
30秒も経たずにいつもの落ち着いた声がスピーカーから流れてきた。
「番号札1番でお待ちの患者様。診察室にお入り下さい」
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