第17話
夜が深い。灯りは低く揺れ、鉄と油と革の匂いが薄く立つ。ライアンは鞘紐を確かめ、鞘口に油をのばす。刃を帯に収め、数歩進んだ。
擦れが出ないか耳で確かめる。息を整え、肩を落とし、視線を前に据える。革紐が指に噛み、冷えが骨に触れた。
明け方になる。倉の受け渡しは短く終わり、書記が数を読み上げる。秤の印は昨夜のままだ。木箱の角が掌に冷たい。箱が荷台の板に当たる。麻ひもは湿りを吸って硬い。静けさは保たれた。
門を抜けて市を越える。川手前で浮いた板を直し、釘の曇りを拭き油を置く。側板の角を布でならし、綱の締まりをもう一度確かめる。くさびで軸の遊びを止め、揺れを一つ消した。荷重は左右で合った。道は北へ延びる。
森の縁に入る。鳥の声が途切れ、葉の裏で水滴がぽとりと落ちる。湿りが脛にまとわり、土の匂いが濃い。木漏れ日が足元に細い斑を落とした。
少し進むと風は南から当たる。足音は地の奥で鈍くにじむ。草が風と逆に一筋倒れて戻り、獣臭がわずかに混じった。
前列と後列の間隔を保ち、合図は短い。握り拳は停止、二指は前進。荷車の車輪は浅い轍をなぞるだけだ。左右の茂みは近いが、視線は通る。誰も余計な動きはしなかった。
班長が声を張る。
「前列は半歩下げて構え。後列は荷から離れるな。荷車を囲め!」
前後列が応じる。
「了解!」
ライアンは半歩で抜き、切先を胸の高さに止めて前だけを見る。掌に柄巻のざらつきが返る。帯の結びが腰骨に重かった。
息を細く吐き、足の位置を固定し、膝を緩める。ここで道を塞ぐと決める。横の二人と呼吸を合わせ、間を取った。
低い影が足元へ滑り、灯の縁で輪郭が立つ。耳は砂を蹴る音を拾う。ライアンは輪郭と動きで狼と見定める。距離は三歩だ。目は前歯の白ではなく肩の高さを追う。刃の角度だけに意識を置いた。
左の側板が揺れ、ドンと衝撃が入る。次の一頭が隙に跳ぶ。ライアンは半身で通路をふさぎ、鼻先を払った。
返しで首筋を断つ。狼の体が崩れる。砂がザッと凹む。温い血が袖に散り、金気が鼻を刺す。死骸は通路を塞がない向きで止まった。
班長の声が短く響く。
「通路を空けろ!前列は左へ寄れ!」
三頭目が俵へ跳ぶが、横の護衛が喉を断つ。ヒュッと空気が抜け、動きが一度落ちる。列の形は崩れなかった。
後列は荷を保ち、車輪は止まる。血の匂いが土に混じり、吐気と熱が喉に戻った。周囲の葉は動かない。二波はない。
狼が肩で若い兵の脇腹に体当たりし、兵は背から落ちる。灰の毛が混じる大きな体が覆いかぶさる。黄色い眼がライアンを睨んだ。
ライアンは一歩踏み込み、刃で顔を払う。鼻先が退く。もう一人が肩口を斜めに断つ。動きはそこで止まった。俵の縄は切れていなかった。
班長が振り向きざまに告げる。
「押すな!間を保て。後列は止まれ!その場で構え!」
刃の縁を布で拭き、鞘に戻す。結びを締め直す。指に汗がにじんだが、手順は変わらなかった。
死骸は道端へ寄せ、砂をさらりと被せる。肩と腰で重量を移し、脚を折りたたむ。温度は落ち始めた。手袋の外へ血が回り、爪の間に残った。
負傷者の脛を布で固める。血は薄く滲むだけだ。鉄の匂いが鼻に刺さる。荷台の角に欠けはない。指の震えは小さく収まった。
合図が上がり、列は再開する。歩幅は小さく、呼吸は一定だ。森の外れへ向きをそろえ、揺れは小さかった。
荷は安定する。陽が差し、影は短くなった。側板に割れは出ない。車輪は乾いた土を拾っていく。鳥の声が少し戻った。
緩い右曲がりで列が道端に寄る。ライアンは崩れた火床に気づく。黒い灰に金具の輪が半ば埋まる。裂けた紐と小さな髪留めが土に沈む。荒れた野営の跡と見る。誰のものかはライアンには分からない。列は止めなかった。
ライアンは前だけを見る。道は北へ続く。足並みはそろい、音は短く収まった。
うなじの汗が遅れて冷え、握った指がわずかに震える。呼吸を一つ深くして歩幅を乱さない。匂いは薄まり、空は白んだ。
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