白菊の轍
Aoi
第一章
山の端に淡い霞がかかり、春の朝は水墨の絵のようにぼやけていた。里を縫う細道には夜露を含んだ若草が群れ生い、露玉が朝日を映して星のごとくきらめく。ひとたび風が渡れば、草葉は小さな鈴を鳴らすような音を奏で、ひそやかな調べを大気に放った。
その道を、ひとりの貴人が歩んでいた。かつては都において高貴なる家に連なり、玉座に近き場所に名を連ねるほどの血筋であった。宴の夜には香を焚き、和歌を交わし、衣擦れの音すら絵巻の一部のように過ごした日々。しかし、権謀の渦が日に日に増すにつれ、貴人の胸は冷えていった。誰もが己の欲を飾り立て、言葉に虚飾を重ねる。その光景に心は倦み、静謐を求めて山里へと身を移したのである。
今の装いは、絢爛たる錦でも唐渡りの羅でもない。素朴な麻布の直衣に草履ひとつ。それでも姿に漂う気品は隠しようもなく、風景の中に溶けながらも、ひときわ清らかな影として浮かび上がっていた。
川辺を過ぎると、水面に陽が砕け散り、白魚の群れが一瞬にして光の粒となって消える。木立の奥では鶯が声を張り、若葉が陽に透けて翡翠色の光を放っていた。貴人は足をとどめ、しばし瞳を閉じる。都では耳にすら入らなかった音が、いまは心を震わせる。すべての響きが、己の魂に向けられた秘めごとのように思えるのだ。
ほどなく、里のはずれに広がる小さな菊畑へと辿り着いた。露を含んだ土は芳しく、まだ固い蕾を抱えた白菊が、朝の光に淡く照らされている。貴人は立ち止まり、その光景に吸い寄せられるように膝を折った。
白菊は、声なき声で高潔を語っていた。人の世の濁流に濡れることなく、ひたすら天へと咲こうとするその姿は、まるで「潔白であれ」と囁く使者のように映る。
貴人の胸には、都での日々が一瞬にして甦る。虚飾に満ちた言葉、計算に染まった眼差し、冷たい笑み──そのすべてに背を向けた自らの選択を、今この花が静かに肯じてくれているように思えた。
「……高潔とは、こういうことか」
唇から零れた呟きは、ひと吹きの風にさらわれ、空へと昇っていく。
指先を菊の葉に触れれば、露の冷たさが肌を濡らし、そのひんやりとした感覚が胸の奥に澄んだ水を注ぎ込むようであった。
人の世を離れ、ただ自然と響き合う日々。そこにこそ、かつて求め得なかった真の尊さが潜んでいるのではないか──貴人はその気配を、確かに感じ始めていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます