プロローグ1:一ノ瀬保奈美
春は新しい出発の季節というけれど、それは多くの憂鬱さが伴っていた。
3月の風はまだ少し冷たくて、制服のスカートの裾を揺らすたびに、冬の残り香を思い出させた。
私は、母の隣で駅前のロータリーに立っていた。旅行用の大きなキャリーバッグを二つ、ぎゅっと握りしめている。これまで住んでいた地元の街から電車を乗り継ぎ、これまで全く縁がなかった首都圏のターミナル駅に降り立ったときから、胸の奥がずっと落ち着かない。ここから始まるのは、まったく新しい生活。
この春に母は、再婚するのだ。
それがどういうことか、頭では理解している。けれど心は、まだ追いついていない。
母と二人で過ごしてきた約16年間。父は私が幼い頃に母と別れて私は全然覚えていないし、母子家庭という事で家計も決して楽ではなかったけれど、母は私のためにいつも一生懸命働いて、笑って、時には叱ってくれた。母との毎日は、苦しいこともあったけれど、それでも「私の家族は母だけ」という当たり前が、私を守ってきてくれた。
その日常が、もう「過去」になる。今日から、母には新しい夫ができて、私には義理の父と、そして義理の兄ができる。
もっと早くに再婚の話は進んでいた。ただ、再婚に伴い私の名字が変わる事になるので、私が高校生になるタイミングを待っていたのだ。
正直に言えば、不安のほうがずっと大きい。
義父になる人は、とても優しそうで穏やかな人だと母から聞いていた。挨拶に来たときも、優しい声で「保奈美ちゃんのことも、これからは僕が支えるよ」と言ってくれた。母が選んだ人なら、きっと間違いないだろう。
問題は、義兄の方だった。
母の話によれば、彼は二十代前半だけど、総合商社に勤めていて、都内の本社オフィスで勤務しているという。名前は――一ノ瀬直也さん。
「すごく優秀な―本当にエリートさんなんだよ。しっかりしていて、頼れる感じの人なの」母はそう言ったけれど、私にとっては未知の存在でしかない。
年齢が離れていて、血もつながっていなくて、しかも一つ屋根の下に、知らない男性と一緒に暮らすことになる。どう接したらいいのか、まったく想像がつかなかった。
初めて顔を合わせたのは、母と義父の入籍前、両家顔合わせのときだった。
直也さんはスーツ姿で現れ、落ち着いた物腰で挨拶をした。目つきは鋭く、声は低くて、まるで学校の先生みたいな雰囲気だった。
「これからは兄妹だね。よろしく」
そう言って差し出された大きな手を、私は緊張で冷たくなった指で握り返した。けれど、その瞬間に思ったのだ。
――怖そう。きっと厳しい人なんだろうな。
勉強や生活態度のことを口うるさく言われるかもしれない。
遊びに行くのも制限されるかもしれない。
母に迷惑をかけるようなことをしたら、すぐ叱られるに違いない。
そんな想像ばかりが膨らんで、私は小さく身をすくめた。
母は再婚を心から幸せそうに受け止めている。その笑顔を見ると、私が不満を言う余地なんてない。
でも、心のどこかでつぶやいてしまう。
「本当にうまくやっていけるのかな」
駅前で待っていると、黒いコートを羽織った男性が歩いてきた。母の隣に立ち、軽く頭を下げる。お義父さん――そして、そのすぐ後ろに立つのが、直也さんだった。
大きなトートバッグを片手に、もう一方の手でスマホをいじりながら、私に気づくと一瞬だけ目を合わせた。
「……ああ、こんにちは」
短く、そっけなく聞こえたその声に、胸がまたきゅっと縮む。
これから一緒に暮らすことになるのに、まだ名前を呼ばれることもない。
私は精いっぱいの笑顔を作って、小さな声で返した。
「……よろしくお願いします、直也さん」
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