第7話 鳥かごの中

 寮での生活が始まって、数日が経った。

 僕は、徹底的に気配を殺していた。必要最低限の授業にだけ出席し、終わればすぐに自室に戻る。食事は、食堂が最も混雑する時間を避け、隅の席で、誰とも視線を合わせずに済ませた。

 誰にも関わらない。誰にも、僕という存在を意識させない。

 それが、この三年間で身につけた、唯一の処世術だった。


 その日も、僕は最後の授業が終わると、人の流れから逃れるようにして、足早に自室に戻ってきた。机に置かれた剣術書を開く。文字を目で追っていても、内容は少しも頭に入ってこない。ただ、こうして何かに没頭しているふりをすることで、僕は周囲の世界から自分を切り離していた。

 コン、コン、という固いノックの音に続いて、扉の外から声がした。


「——失礼する」


 僕の心臓が、大きく跳ねる。この数日間、僕の部屋を訪ねてくる者など、誰もいなかった。

 扉を開けると、そこに立っていたのは、上級生の制服を着た、見知らぬ男子生徒だった。胸には生徒会の役員であることを示す銀色のバッジが光っている。


「君が、ロノアール・ルトクリフ君だね」


「……はい」


「私は生徒会書記のアランだ」


 その先輩は僕の机の上に開かれた本に視線を向けた。


「勉強中にすまないが、学園長がお呼びだ。すぐに学園長室まで来てもらいたい」


 学園長室。グランツさんが、僕を?

 何か、問題でも起こしただろうか。いや、僕は何もしていない。むしろ、何もしすぎないくらいに、息を潜めていたはずだ。


「……わかりました」


 様々な不安が頭をよぎる。アラン先輩は頷いて、僕を先導するように歩き出した。彼の後について行き、僕は学園のメインホールを横切る。そこは、陽光が降り注ぐ、生徒たちの交流の中心地だった。楽しそうに談笑する者、魔法の理論について熱く語り合う者。誰もが、この学園の生徒であることに誇りを持っているように見えた。そのきらきらとした光景の中で、僕だけが、色のない影のようだった。

 学園長室の、彫刻が施された重厚な扉の前に立つ。家で見るグランツさんの、温厚な表情を思い浮かべようとしたが、入学式の日に見た、厳格な『学園長』の顔しか思い浮かばなかった。

 意を決して扉をノックする。


「入れ」


 中から聞こえたのは、低く、厳格な声だった。

 僕がおずおずと部屋に入ると、大きな執務机の向こうで、グランツさんが書類から顔を上げ、厳しい顔で僕を見ていた。部屋の中は、古い革とインクの匂いがした。壁一面の本棚が、この部屋の主の知性を物語っている。

 そして、もう一人、その部屋には先客がいた。

 窓際に立ち、外の景色を眺めている、一人の女子生徒。夕陽の光を受けて、その美しい横顔が黄金色に縁取られていた。

 姉の、セレスティアだった。


「……よく来たね、ロノアール君。そこに座りなさい」


 グランツさんに促され、向かい合うように革張りのソファに浅く腰掛けた。ぎしりとソファが軋む音が響く。セレスティアは、こちらを一瞥しただけで何も言わない。


「寮生活には、もう慣れたかね」


「……はい」


 かろうじて、それだけ答えるのが精一杯だった。

「そうか」と、グランツさんは短く頷いた。それから、何かを言い淀むように、一度、指で眉間を揉んだ。


「……君の境遇は、他の生徒たちとは少し違う。私も、学園長という立場上、君だけを特別扱いするわけにはいかん。それは、学園の規律を乱し、ひいては君自身のためにもならんからな」


 彼の言葉は、どこまでも公的なものだった。だが、その声には、隠しきれない苦悩が滲んでいる。


「だが、後見人として、君がそうして心を閉ざしたまま三年間を過ごすのを見るのは……忍びない。君のお父上にも、顔向けができん。彼は、私の、たった一人の親友だったからな」


 グランツさんは、僕から視線を外し、窓の外に広がる夕焼けを見つめた。


「そこで、だ。学園長として、そして後見人として、私が取りうる、唯一の方法を考えた」


 彼は、セレスティアの方へ視線を向ける。


「生徒会長である彼女に、君のサポートを頼むことにした。新入生が学園生活に慣れるのを助けるのも、生徒会の重要な役目だからな。生徒会長自らが動くのは異例だが、今回は特別だ」


 セレスティアが、ゆっくりとこちらに振り返った。

 その表情は、家で見る姉のものではなく、全校生徒の頂点に立つ、『生徒会長』の顔だった。一切の感情を読み取らせない、完璧な微笑み。


「ルトクリフ君」


 彼女は、僕の目をまっすぐに見て言った。


「学園長から、生徒会長として、あなたの件を正式に一任されました。言っておくけれど、この学園では、あなたは私のただの後輩。私は、あなたのただの先輩。それ以上でも、それ以下でもない。……家での馴れ合いを、ここに持ち込まないこと。わかるわね?」


「……はい」


「結構。何か困ったことがあれば、生徒会室に来なさい。相談くらいは乗ってあげる。もちろん、生徒会役員の一人として、公平に、ね」


 その声は、どこまでも冷静で、事務的だった。

 家族ごっこは、ここまで。彼女は、そう言っているのだ。それは、僕が一番望んでいたことのはずなのに、胸のどこかが、ちくりと痛んだ。

 それから少しして、僕は立ち上がり、二人に深く頭を下げた。そしてそこから逃げるように部屋を出た。

 重厚な扉を閉めた瞬間、大きなため息が漏れる。背中を預けた扉が冷たい。まるで、監獄の扉が閉ざされたかのような、絶望的な気分だった。

 助け舟なんかじゃない。あれはまるで監視役だ。

 僕はこの学園で、特別で問題のある生徒として、生徒会長直々の監視下に置かれることになったのだ。


 とぼとぼと、寮への道を歩く。

 夕日は完全に沈み、空は深い藍色に染まっていた。中庭の魔導灯が、ぼんやりと足元を照らしている。

 頭の中で、さっきの会話が何度も繰り返される。

 グランツさんの、苦悩に満ちた顔。彼は、僕のことを本当に心配してくれている。後見人として、父さんと交わした約束を果たそうと、必死になってくれている。それがわかるからこそ苦しかった。僕は、彼の優しさに甘えることのできない、出来損ないの養子だ。彼の期待に応えることなんて、できそうにない。その事実が、重く肩にのしかかってくる。

 そして、セレスティアの言葉。


 ——あなたは私のただの後輩。

 ——家での馴れ合いを持ち込まないことね。


 彼女の言葉は、冷たい刃のように、僕の心を切りつけた。僕が一番望んでいたはずの言葉だったのに。彼女は、僕と彼女たちとの間に、はっきりと線を引いたのだ。私たちは家族ではないと。

 わかっている。僕は、彼女たちの本当の家族じゃない。三年前、突然転がり込んできた、厄介者だ。彼女がそう思うのは、当然のことだった。

 それでも、胸のどこかが、ちくりと痛んだ。

 せいぜい、教室の隅で埃でもかぶっているのがお似合いかもしれない。僕は、そういう存在なのだ。誰にも気づかれず、誰にも期待されず、ただ、息を潜めて、三年間が過ぎるのを待つ。それが、僕に許された道。

 だとしたら、あの時の誓いは、何だったのだろう。

 父さんの言葉を胸に、強くなると誓った、あの決意は。

 監視下に置かれた今、僕は、もう夜中に鍛錬をすることすらできないかもしれない。もし見つかれば、僕は、また問題のある生徒として、グランツさんやセレスティアの手を煩わせることになる。

 それだけは、絶対に嫌だ。

 メインホールを横切ると、まだ何人かの生徒が談笑していた。僕の姿を認めると、彼らはひそひそと何かを囁き、くすくすと笑った。


「あれ、ルトクリフの……」


「ああ、あれが三年前の……」


「学園長室にいたらしいぜ。なにか問題を起こしたんだ」


「平民のくせに、生意気な……」


 全部、聞こえている。

 何も聞こえないふりをして、僕は足早にその場を通り過ぎた。

 学園という名の鳥かご。

 グランツさんは、僕を心配して、この籠の中に入れてくれたんだろう。

 セレスティアは、籠の番人として、僕が逃げ出さないか、あるいは、みっともなく鳴き喚かないかを見張っているのかもしれない。

 そして、周りの鳥たちは、羽の色が違う僕を、遠巻きに嘲笑う。

 孤独であることすら、ここじゃ許されなかった。

 ようやくたどり着いた寮の自室の天井の石の模様が、まるで檻の格子のように見えた。

 もう、何もかもが嫌になっていた。

 父さん。母さん。僕は、どうすればいいの? どうすればよかったの?

 強くなりたいと願った。大切なものを守れるようにと。

 でも、今の僕には守るべきものなんて何もない。僕自身が、誰かに守られなければ生きていけない無力な子供だ。

 この学園は、僕が再生するための場所なんかじゃない。

 僕がいかに無力で、無価値であるかを毎日、毎時間、思い知らせるための、残酷な舞台だ。

 僕はポケットの中からルナがくれたお守りを取り出した。ラベンダーの香りが、微かに鼻をくすぐる。

 これだけが、僕の唯一の温もりだった。

 僕は、それを強く握りしめた。

 学園という名の鳥かごの中で、僕の心はさらに固く、深く、閉ざされていった。

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神無き世界で シスイ @sisisis824

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