第4話 名前
深夜二時を回ると、コンビニの空気はぐっと緩む。
客足は途絶え、静けさの中に蛍光灯の白い光だけが浮いている。 それでも常連はいる。
新聞を買いに来るタクシー運転手、缶コーヒーをまとめ買いしていく工事現場帰りの男たち。
彼らは惟人の顔を覚えていて、時折「ごくろうさん」と声をかけてくれる。 そんな中、その夜もまた彼女は現れた。
ライダースにジーンズ、手にはカップ麺とスナック菓子。
彼女はいつものようにイートインの席に腰を下ろし、豪快に麺をすすった。
深夜の静けさに、ずるずるとした音がやけに響く。
と、そのとき。
「おい、兄ちゃん」
不意に荒っぽい声が響いた。
見ると、酒に酔った中年男がふらふらと入店してきていた。
顔は赤く、目は濁っている。
「からあげチャン……どこだ……」
商品棚を乱暴に漁り、掴んだパックを持ってカウンターに寄ってくる。
「なあ、これ割引してくれよ。どうせ余ってんだろ?」
「申し訳ありません、値引きはできませんので……」
「なんだと? 客に向かってその態度はねえだろ」
酒の匂いがむっと漂う。
惟人は努めて冷静に応対するが、声は震えていた。
「兄ちゃんさあ、敬語使ってりゃいいってもんじゃねえんだよ」
「すみません、でも規則ですので」
「お前なぁ、俺のが年上だろ。少しは下手に出ろや」
中年男の声は次第に荒んでいき、顔をぐっと近づける。
惟人が後ずさると、男は苛立ったように腕を伸ばし、胸ぐらを掴みかかった。
その瞬間。
「おい、おっさん」
低い声が響いた。
イートインから立ち上がった彼女が、いつの間にか男の背後に立っていた。
唇に笑みを浮かべてはいるが、その目は氷のように冷たい。
「ここで暴れるなら、私が相手になってやろうか?」
空気が一変した。
まるで温度が下がったかのように、惟人の肌に粟立つものが走る。
男は振り返ったが、その眼差しに射すくめられた瞬間、顔から血の気が引いた。
「……チッ、なんだよ。もういい」
舌打ちして惟人の胸ぐらを放すと、掴んでいた商品を放り出し、ふらふらと店を出ていった。
自動ドアが閉まり、静寂が戻る。
惟人は胸をなで下ろした。
「……助かりました」
「別に。目障りだっただけだ」
彼女は何事もなかったかのように、ポテチの袋を破って一口かじった。
「でも、ありがとうございます。助けてもらったのは事実ですから」
「ありがとうございます、か。それって、感謝してるってことだよな?」
彼女はくすりと笑う。
「なら、貸しってことにしておくか?」
「構いませんよ。助けていただいたのは事実ですし……。僕にできることなら、ですが」
「そういう真面目さ、相変わらずだな。ま、考えといてやるよ」
そう言って、またポテチをつまむ。
惟人はしばらく迷ったが、口を開いた。
「それなら、その――名前だけでも教えてください」
「……何で?」
彼女の瞳が細められる。冗談めかしているのに、どこか鋭い。
惟人は視線を逸らさず、ゆっくりと言葉を返した。
「恩人の名前を知りたい、そう思っただけです。……教えたくないとかでしたら、別に構いませんから」
彼女はしばし黙り、やがて悪戯を思いついた子供のように口角を上げた。
「リリス 」
「……え?」
「名前。ちゃんと教えたからな。忘れるなよ?」
「リリス……さん」
「さんを付けるな、さんを」
「じゃあ、リリス」
「よくできました」
「よくできました」と軽く笑って誉められた瞬間、胸の奥がじんわりと熱くなった。
名前を口に出しただけなのに、言葉以上のものが心に残ったような気がした。
不思議な感覚――ただの店員と客という枠を超えて、何か特別なものを交わした瞬間のような。
そのとき、ふと店長の低い声が脳裏に響く。
『あの女に深入りするな。あの目は普通じゃねえ』
あの夜の警告のような響きが、まるで自分を繋ぎとめる最後の楔のように耳の奥で残っていた。
だが惟人は、静かに首を振って自身の心に絡まった拘束を振り払う。
――もう遅い。
関わらないでおこう、なんて選択肢は最初からなかったのだ。
リリス――その名を口にした瞬間、確かに彼女の存在は自分の中に刻み込まれてしまったのだ。
肩越しに見た彼女の笑みは、軽口に見えて確かな力を帯びていた。
名前を知っただけで、日常の景色が少し変わって見える。
深夜のコンビニ、蛍光灯の下で漂うカップ麺の湯気さえ、彼女の存在が絡みつくように見えた。
「どうした、惟人?」
不意に名前を呼ばれて我に返ると、リリスは不思議そうにこちらを見ていた。どうやら、考えごとをしていて不必要に彼女を見つめていたらしい。
「何でもないです。そろそろ、仕事に戻ります」
「おう。頑張れ、惟人」
そう言って席に戻る彼女の後ろ姿を、何となく目で追ってしまう。カップ麺とポテチを頬張るリリスを見ながら、まだ胸の奥に残る熱を意識する。
それから商品の品出しをしたり、レジの釣銭を数えたりして仕事をこなし、キャッシャーを閉めたところで視線が彼女の方へ向く。リリスはカップ麺を食べ終えたらしいが、まだポテチを頬張っていた。
何気ない仕草だが、惟人は思わず目を奪われてしまっていた。
それに気づいたリリスが笑顔でこちらに手を振る。あまりに照れくさかったので視線を逸らすと、リリスは軽やかに一歩、二歩と近づいてきて、すぐに足を止めた。
その間も、手にはポテチの袋があり、時折つまんでは口に運ぶ仕草を見せる。
「……まだ食べるのか?」
つい声が出てしまう。
リリスはちらりと視線を向け、くすりと笑った。
「ああ。まだ足りない気がしてな」
その言葉に、惟人は胸の奥がまたじんわりと熱くなるのを感じた。
「……そうですか」
何気なく返すつもりが、声が少し震えてしまう。
リリスはそれを楽しむかのように、口元を手で覆いながら微笑む。
「なあ、惟人」
その呼びかけに、思わず視線を戻す。
「……ん?」
リリスは手に持ったポテチの袋を軽く揺らしながら言った。
「こんな時間まで、働いてるんだろ?」
その問いに、惟人は肩をすくめる。
「まあ、そうですね……。でも、仕事ですから」
「ふーん」
リリスは満足そうにうなずき、頬に残る笑みを見せた。
そして、少し間を置いてから口を開く。
「まあ、ほどほどにな」
その声には軽口が混じっているが、どこか温かみもあった。
惟人は胸の奥がざわつくのを感じながら、再び仕事に戻ろうとした。
しかし、リリスはその場を離れず、ぽつりとつぶやいた。
「……今度、ゆっくり話そうぜ」
その言葉に、惟人は思わず立ち止まる。
軽く聞こえるはずの言葉なのに、なぜか重みがあった。
彼女の目が真っ直ぐ自分を見ていることに、胸が高鳴る。
「……はい」
短く答えると、リリスは満足げにうなずき、再びポテチに手を伸ばした。
その姿を見ながら、惟人は心の中でそっと誓った。
――関わる。どんな警告があろうとも、もう引き返さない。
深夜のコンビニに漂う静寂の中、二人だけの時間がそっと重なった。
リリスと出会った当初と異なり、仕事を口実に彼女と話せるこのひと時が何より楽しいと感じているのだった。
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