77億8,000万円の灯

共創民主の会

第1話 77億8,000万円の重さ

喉の渇きで喉が焼けるように痛い。でもこのまま帰ったら、また先輩に「政治部の恥だ」と言われる。


午前九時十五分、県議会議事堂の冷房はきつすぎる。総務企画委員会の可決資料を広げながら、私は三度目の咳払いをした。紙には「沖縄県宿泊税条例(案)」の文字が並び、最後のページに「年間収入額 77億8,000万円」と赤い線が引いてある。


「川口君、電話取材は済んだか?」


デスクの山本編集長が背後から覗き込む。煙草の臭いがする。禁煙化されて十年経つのに、この廊下だけは時間が止まったままだ。


「今、財政課にかけます」


私はスマホを耳に当てた。コール音三回で出たのは、財政課の比嘉係長だった。


「77億8,000万円ですが、これは宿泊施設の稼働率八十パーセント前提の試算です。実際は」


「実際は?」


「六十パーセント台でしょうね。でも、定率制二パーセントなら、高額宿泊者ほど税負担が大きくなる。公平です」


公平。私はその言葉をメモ用紙に書いた。ペン先が紙を破るほど強く。


午後一時、恩納村に着いたとき、私のワイシャツは汗で張りついていた。商店街の入口で、本田義郎会長は古びた作業服を羽織りながら待っていた。


「記者さん、暑いだろう。さあ、冷たい茶でも」


小さな喫茶店のテーブルに、泡盛の瓶が置いてある。昼間から飲むつもりかと思ったら、本田会長は苦笑いした。


「これは看板だば。実は今日、清掃会社の社長に会うてきたんよ。宿泊税ができれば、朝晩の掃除回数を増やしてくれるそうだ」


私はメモを取りながら、窓の外を見た。湿った海風が観光客のTシャツを翻している。中国人の団体客が大声で談笑しながら、免税のドラッグストアから出てきた。


「でも、高額宿泊者ほど税負担が大きいと聞きましたが」


「ああ、あのリゾートホテルか。確かに一泊十万円の部屋なら二千円になるな」


本田会長の指先が、グラスの水気をなぞった。私は思わずスマホを取り出して、先輩記者のLINEを開いた。


【川口:税収77億ってマジ? オンナ村の民宿が潰れるわ】


【先輩:スクープより公平性だ。政治部の恥になるな】


返信を待たずに店を出た。歩きながら、私はメモ用紋に赤ペンで線を引いた。「清掃員配置増」の文字に丸を付け、「高額宿泊者ほど」と書いた部分に線を引いた。これが、私の最初の「取捨選択」だった。


午後三時半、老舗旅館「高橋荘」を訪れたとき、高橋悦子さんは帳場で宿帳をつけていた。畳の部屋からは、海の匂いがする。


「二パーセントですって? うちみたいに一泊八千円の旅館なら百六十円ですむわ」


私は安堵の息を吐いた。でも、彼女の次の言葉で、私のペンは止まった。


「でもね、外国人観光客は『オキナワには宿泊税がある』って聞いただけで、ハワイに行くわ。彼らにとったら二千円も百六十円も、同じ『追加料金』なのよ」


厨房から漏れる味噌汁の匂い。それが、私の空腹を刺激した。でも、取材ノートに書くべき言葉が見つからない。


「実は去年、孫が継ぐって言い出してね。でも、この調子じゃ廃業もあり得るわ」


私は赤ペンを取り出した。「廃業危機」と書こうとして、筆が震えた。代わりに「外国人観光客離れ」と小さく書いた。これが、私の二回目の「選択」だった。


夕方六時、県内主要リゾートホテルの厨房は、まるで戦場だった。オフレコという条件で、経営者の田中建設専務に会えたのは、先輩のコネだった。


「正直、二パーセントなら我慢できる。でも、免税対象外の民宿やペンションが潰れたら、観光客の選択肢が減る。長期的には我々も痛手だ」


厨房の換気扇の音で、私は彼の言葉を聞き逃さないように身を乗り出した。調理音、油の跳ねる音、そして何よりも、疲れたシェフたちのため息が、部屋に満ちていた。


「でも、これはオフレコだよ。表だって文句を言えば、県に目をつけられる」


私はメモ用紋に「オフレコ」と大きく書いて、赤ペンで線を引いた。これを記事に使うかどうか、まだ決めていなかった。


夜八時三十分、デスクの蛍光灯は、私の顔を青白く照らしていた。原稿用紙には「77億8,000万円の重さ」とタイトルが書いてある。でも、本文は空白だ。


「どうした川口、締め切り一時間前だぞ」


山本編集長が背後に立った。煙草の臭いがする。私はキーボードを打ち始めた。


【沖縄県議会は十一日、宿泊税条例を全会一致で可決した。年間収入見込みは七十七億八千万円】


指が止まった。次に書くべきは、本田会長の期待だ。でも、高橋さんの不安も、田中専務のオフレコも、どこかに入れなければならない。


「公平性だ、川口。スクープより公平性を」


編集長の言葉が、耳に残る。私は削除キーを押した。【全会一致】の文字が消えていく。代わりに、【定率制二パーセントの公平性を巡り】と打ち始めた。


でも、それも削除した。画面は再び空白になった。


夜九時十五分、私はスマホを開いた。本田会長からLINEが来ていた。


【本田:記者さん、条例は生き物だ。今日はこうでも、明日は違う顔をする。でも、それを記録するのが君たちの仕事だば】


私はパソコンに向かった。今度は、最初から書き直した。


【沖縄県が導入する宿泊税は、一泊二千円の定率制。高額宿泊者ほど負担が大きくなるこの制度を、現場はどう受け止めているか】


指が動く。本田会長の「清掃員配置増」、高橋さんの「外国人観光客離れ」、田中専務の「オフレコ」。すべてを、等号で結ぶことはできない。でも、等号で結ばないことの方が、真実かもしれない。


夜九時五十八分、私は最後の一文を打った。


【政治は妥協の産物である。でも、それを記録し続けることで、明日の妥協は少しだけ良くなるかもしれない】


画面の光に、私の疲れた顔が浮かんでいた。二十六歳の政治部記者として、今日は「公平性」を選んだ。でも、明日も、明後日も、この選択を続けられるかどうか、まだわからない。


県庁廊下の冷房のきつい空気、恩納村の湿った海風、ホテル厨房の調理音。それぞれが、77億8,000万円の重さを、違う形で感じさせる。


私は画面を保存して、消灯した。明日も、また取材がある。条例は生き物だ。だからこそ、私は記録し続けるしかない。

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