第4話 北の灯り
その夜、私は厩舎の自室のベッドの上で、膝を抱えていた。
昼間の翔の言葉が、胸の奥に消えない棘のように突き刺さったまま抜けない。
あまりに的確で、反論の余地すらなかったからこそ、余計に苦しかった。
電気もつけない薄暗い部屋。
手の中で光っているのは、スマホの小さな画面だけだ。
スクロールすれば現れるのは、故郷・北海道日高「高辻牧場」の写真。
緑の放牧地で草を食む馬たち、冬の凍えるような朝焼け、そして――
姉のように慕ってきた高辻友梨佳さんの笑顔。
彼女は高辻牧場の一人娘。
数年前、尊敬してやまなかった祖父・泰造さんの死後、若くして広大な牧場を継いだ。
色素の薄い白い髪に、澄みきった青い瞳。
アルビノとして生まれ、強い光の中ではほとんど物が見えないという弱視のハンデを負っていた。
それでも、ひとたび馬に跨れば、まるで魔法のようだった。
目の代わりに他の感覚を研ぎ澄ませ、馬の息づかいや筋肉の動きを感じ取るように、人馬一体となって大地を駆け抜ける。
その姿は、子供だった私にとってどんな物語の騎士よりも美しかった。
私が騎手を目指すようになったのは、間違いなく彼女への憧れが始まりだった。
そんな彼女が、私を一度だけ本気で叱ったことがある。
中学三年、あの吹雪の日。
私は交通事故に巻き込まれ、骨盤まで骨折する大怪我を負った。
ギプスで固められた足を見て、医師は「障害が残るかもしれない」と静かに告げた。
その瞬間、世界から音が消え、病室の天井の染みだけを見つめる日々が続いた。
夢は砕け、もう騎手にはなれない――そう思い込んでいた。
絶望の中、見舞いに来てくれた彼女に、私は震える声で呟いた。
「もう、死にたい……」
その瞬間だった。
いつも穏やかな友梨佳さんが、私の頬を平手打ちしたのは。
「ふざけないで!」
乾いた音とともに、彼女の青い瞳から大粒の涙がこぼれ落ちる。
「片足に障害が残るかもしれないくらいで何言ってるの! ジョッキーがダメなら馬術選手だってある。もっと重い障害が残ったってパラ馬術だってある。できることをやりなさいよ!」
泣きながら、叫ぶように叱ってくれたあの声。
あの時、私は初めて気づいたのだ。
自分の夢は、たくさんの人の想いを乗せているのだと。
『エマなら大丈夫。焦らずにね』
デビュー当時、彼女がくれたメッセージを私は何度も読み返した。
絶望の淵から救ってくれたあの優しさが、今は重くのしかかる。
早く勝たないと。早く結果を出さないと。
友梨佳さんに、牧場のみんなに、いい報告をしないと。
その想いが、いつしか私を縛る鎖になっていた。
***
そんなある日の午後、須藤調教師に呼び出された。
「エマ、ちょっといいか」
また叱られる。
今朝の調教の失敗を責められるに違いない――そう思いながら、私は身を硬くして調教師室のドアを開けた。
ところが、彼の口から出たのは意外な言葉だった。
「田中厩舎から連絡があってな。今度の中山の3歳未勝利戦なんだが……一頭、騎手が空いたらしい。お前、乗ってみるか?」
それ自体は、特別なことではない。
騎乗予定の騎手が他の馬に回ったり、怪我で降りたり――
そうやって空いた鞍が、私のような若手に回ってくることはよくある。
ただの「駒」としての依頼。
「……はい。乗せていただきます」
感情を押し殺してそう答えると、須藤先生は「そうか。じゃあ、これ目を通しておけ」と一枚の書類を渡してきた。
自室に戻り、何気なくその書類に目を落とした瞬間、私は息を呑んだ。
馬の名前は「キタノアカリ」。
そしてその下に、小さく「生産者:高辻牧場」と記されている。
心臓が大きく跳ねる。
高辻牧場の馬……?
友梨佳さん、そして牧場のみんなが育てた馬に、私が乗る――?
須藤先生は何も言っていなかった。
きっと彼にとっては数ある生産牧場のひとつに過ぎないのだろう。
ーー単なる偶然?
そう思い込もうとしても、指先は震えていた。
いいえ、これは偶然なんかじゃない。
どん底でもがいている私を、天が見ていてくれたんだ。
「……北の灯り」
つぶやいた言葉が、胸の奥に灯をともす。
私が騎手を目指す原点となった、あの北の牧場が、灯台の光のように進むべき道を照らしてくれている――そう感じた。
書類を握りしめる。
これはただのチャンスじゃない。
天が垂らしてくれた最後の蜘蛛の糸なんだ。
この糸を掴めなければ、私はもう二度と浮かび上がれない。
友梨佳さんは何も知らないだろう。
でも、だからこそ勝ちたい。
勝って、彼女が育てた馬で勝ったというニュースを、彼女に届けたい。
それが、今の私にできる唯一の恩返しだ。
誰もいない部屋で、私は固く拳を握りしめた。
キタノアカリと一緒なら、きっと勝てる。
いや、勝たなくちゃいけない。
この偶然を運命に変えられなければ、私にはもう騎手でいる資格なんてない。
悲壮な決意が、冷え切っていた心に危うく、そしてあまりにも激しい熱を灯していた。
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