第2話 焦燥のターフ

 じっとりとした熱気が、ターフから揺らめき立つ。

 8月の新潟競馬場。メインレースの発走ファンファーレが、検量室のモニター越しに鳴り響いた。

 空調が効いているはずの室内なのに、私の首筋には嫌な汗が一筋、背中へと滑り落ちていく。


 画面の向こう。ゲート裏を周回する馬に跨がっているのは、風間翔だった。

 私、結城エマと同じ二十歳。同じ年にJRA競馬学校へ入り、同じ春にデビューした同期。

 今は同じ厩舎の屋根の下で、同じ馬の世話をし、同じ空気を吸っている。


 ──そのはずなのに。


 彼と私とでは、見えている景色が天と地ほども違っていた。


 デビューから半年足らずで彼はすでに三十五勝。今日はいよいよ重賞レースに騎乗している。

「天才二世」──偉大な父の名を継ぐ騎手として、メディアは彼の横顔を何度もアップにした。

 そのたびに、こちらの存在などかき消されていく気がした。


 一方、私はいまだ勝ち星ゼロ。

 掲示板に載った回数も片手で足りる。

 同期六人のうち、未勝利なのは私だけだった。

“焦るな”と自分に言い聞かせても、その声はいつも空虚に響く。


「エマ、そろそろ準備しろ」


 所属厩舎の須藤調教師の声に、私は弾かれたように立ち上がる。

 今日の最後の騎乗は最終レースの条件戦。人気は、もちろんない。


 ***


 レース後の記憶は、いつも靄がかかったように曖昧だ。

 ただ、砂を噛むような悔しさだけが、口の奥に残る。

 結果は八着。

 馬の良さを何一つ引き出せず、ただ回ってきただけ。

 検量室前で鞍を外し、馬主さんに頭を下げる。

 向けられる労わりの視線が、ひどく痛い。

 シャワーを浴びて汗と砂を流しても、胸にこびりついた敗北感は落ちてくれなかった。


 ***


 全てのレースが終わり、美浦トレーニングセンターに帰るため、新潟駅から上越新幹線に乗り込む。

 自分の指定席に向かう途中、私の心臓は嫌な音を立てて跳ねた。

 通路を挟んだ窓際の席に、風間翔がすでに座っていたからだ。

 イヤホンで耳を塞ぎ、窓の外に視線を固定した横顔は、いつも通りの涼しげな無表情。

 私に気づいているのか、いないのか──何の反応もない。


 気まずい沈黙の中、私は自分の席に腰を下ろした。

「お疲れ様」の一言をかけるべきか迷う。でも、何を話せばいい?

 彼の重賞の結果に触れるのは、無神経だろうか。


 結局、何も言えず、私は前の座席の背もたれをぼんやりと見つめる。

 手持ち無沙汰にスマホを取り出し、今日のレース結果を開いた。

 スクロールする指先が震える。

 ──八着、「結城エマ」。

 その四文字が、才能のなさを突きつける刃のように見えた。


 ため息を一つついて、私はメインレースの結果へと画面を切り替えた。

 翔が騎乗したのは四番人気の馬。

 一着、二着、三着……彼の名前はない。六着、七着……そして、八着の欄に「風間翔」。

 その瞬間、胸の奥で、黒く小さな感情が芽生えたのをはっきりと感じた。


 ──ホッとしている。


 翔の敗戦を見て、私が安堵している。

 その事実に気づいた瞬間、全身の血が逆流するような激しい自己嫌悪が襲う。


 ――最低だ、私。


 同期で、同じ厩舎の仲間の負けを喜んでいるなんて。

 自分にはないものをすべて持つ彼が、自分と同じ「八着」という数字に沈んだことに、どこかで安堵している。


 ーーなんて醜いんだろう。


 スマホの電源を慌てて落とし、窓の外に目を向ける。

 新幹線はすでに速度を上げ、景色は闇に溶けていく。

 窓ガラスに映るのは、歪んだ自分の顔だけだった。


 故郷・北海道の高辻牧場のみんなの顔が浮かぶ。

 姉のように慕う高辻友梨佳さんの「エマなら大丈夫」という声が耳に蘇る。

 私は、その期待を裏切り続けている。

 信じて馬を任せてくれる馬主さんや、懸命に仕上げてくれる厩舎スタッフの想いにも、何一つ応えられていない。


「騎手に向いてないんじゃないか」


 浮かんだ弱気な言葉が、心をじわじわと蝕んでいく。

 それでも、辞めたいとは思わなかった。

 馬が好きだ。風を切って走る、あの一体感が好きだ。

 そして、勝ちたい。ゴール板を先頭で駆け抜けた騎手にしか見えない景色を、私も見たい。

 その想いだけが、かろうじて私をこの世界に繋ぎ止めていた。


 どれくらいそうしていただろう。

 ふと視線を戻すと、翔がイヤホンを外してこちらを見ていた。


 ーーまずい、見られてた?


「……結城」

「え、あ、なに?」


 名前を呼ばれ、動揺で声が裏返る。


「最終レース、お前の馬、最後は脚が上がってたな」


「え……」


「直線で追い出すタイミングが、少し早かった。あそこでもう一瞬待てていれば、もう少しやれたかもしれない」


 彼は、自分の重賞レース直後だというのに、私の騎乗を見ていてくれたのか。


 その言葉は正確なアドバイスなのに、醜い感情に支配された今の私には、ただのダメ出しにしか聞こえなかった。


「……うん。……そう、かもね」


 それが精一杯だった。

 ありがとう、も、うるさい、も言えない。


 私の返事を聞いて、翔は「そうか」とだけ短く呟き、再び窓の外に視線を戻した。

 会話は、それきりだった。


 上野駅到着を告げるアナウンスが流れるまで、私たちは一言も交わさなかった。

 彼も彼なりに今日の敗戦と向き合っているのかもしれない。

 でも今の私には、彼の心を慮る余裕なんてなかった。


 ただ、「私とあいつは違う」という断絶感だけを胸に、重い体を引きずるように、美浦へと向かう乗り換えのホームへ歩き出した。


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◆◆◆お礼・お願い◆◆◆


ここまで読んで戴きありがとうございました。


エマ、気まずいよね(汗)


気持わかるよ!


と思ってくださいましたら、


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