逃げ水
ハナノネ
1
雲ひとつない。白むほど青い空に雲はなく、それを映す湖面は完璧に磨かれた板のように水平で、わずかな波に光がきらめいていた。エンジンを積んだ小型の漁船だけが、その静謐に縦の線を引く。規則正しいエンジン音は、ここでは風景の一部のようだった。
デイビスは操舵室のなかで、ソナーに走る線のわずかな揺らぎを逃さないよう、モニターを注視していた。ゲルマン人風の容貌に黄金色の髭をたくわえた顔は、古風――それは本当にかなり昔の――地中海の漁師を思わせる。
無線機のランプが瞬き、ノイズの音が流れ込んでくる。デイビスは無線機を取った。
「こちらデイビス、PX01F039からF03Aに進水中。日差しがまぶしくて人格まで蒸発しそうだ」
無線の向こうから雑音交じりの声が聞こえる。
『今日はまだ一匹も釣れてないらしいな。このままだとボスにお前が吊られるぞ』
「言ってろ。お前こそ無駄話で帯域食うと、またログ監査でボスにどやされるぞ?」
ピコン、とソナーに小さな心臓の鼓動のような反応が灯る。指が自然にレバーを押し下げた。
「おっ、来たか? 吊られないで済むかもな」
「変なもんが釣れないといいけどな。長靴とかゴーストの残骸とか」
「長靴なら今履いてる」
青いゴム長を軽く持ち上げる。自分の装いはいつだって“漁師風”に仕上がる。ここが水上でありながら、実際には都市の深部に掘られたヴァーチャルの湖だと忘れないための、ささやかな配慮でもあった。デイビスはそんな自分の姿を見るたび、ひどく滑稽で口角が上がってしまう。
無線を切って操舵輪を回す。エンジンがうなり、プロペラが規則正しく水を噛み、船は青を切り裂くように旋回する。
透明な湖面をのぞけば、そこにはXYZ三方向に規則正しく並ぶ人型のポリゴン体が、水母の集団のように沈黙して浮いている。見慣れた光景だ。市民たちの人格のバックアップがいつ来るともしれない目覚めを待って眠っている。
デイビスは速度を落とし、船を止めた。パネル操作に応じて、漁船の後部についているクレーンが唸りを立てて降下する。先端の鉤に吊られたロープが、ポリゴン体の整列の隙間を縫って、暗い湖底へと消えていった。彼はソナーを見、レバーを操りながら、その見えない“手”が狙った感触を捉える瞬間を待つ。
「さて、今日のキャッチ・オブ・ザ・デイは……」
ロープが、獲物を得た弓のように一挙に張る。
「よしっ」
ウィンチにまき上げられるロープ。水を割って姿を現したのは、人の形をしたポリゴン状の物体──ただし、周囲のものより明らかに小さい。子供の体躯だった。
「少年型違法人格が一尾っと」
鉤先に引っかかったそれを、デイビスは甲板にそっと横たえた。先ほどまで水中にいたように見えるのに、小さなポリゴン体の表面はまったく濡れていない。湖も波も、そう見えていたからに過ぎない。もちろん船も、ポリゴン体も、デイビスの長靴も。
彼はパネル付きの小さな端末を取り出す。緑色の走査光が格子のようにその"子供"を往復し、解析ログが小さなモニタに表示されていく。
端末の数値を確認し、デイビスは再び操舵室の無線を取った。
「こちらデイビス。イルド一体、引き上げ完了。ID確認済み。データの損傷はなくてきれいなもんだ、今にも起き上がりそうなぐらいにな。帰岸モード、オートパイロット、これより開始」
その言葉が終わるのと、甲板の“子供”が立ち上がるのは、ほぼ同時だった。
「あ……?」
"子供"はよろめきながらも、甲板の端に倒れ込むように駆けていく。デイビスは無線機を投げる。
「おい、待て!本当に起き上がるやつがあるか?」
操舵室から飛び出す頃には、"子供"は水へ身を投げていた。ポリゴン体はきらめく流線形に姿を変え、水の中を縫うように進む。速い。まるで――本物の魚みたいだ、見たことはないが――そうデイビスが考える間に、それは湖底へ消えた。
デイビスは甲板の中央に立ち尽くし、なめらかに閉じる水の縫い目を見送った。
「……泳げんのかあいつ……ていうか、早っ」
@@@@@
目を開く。いつも自分に言い聞かせる起動句が脳裏をよぎる。
「現実にログイン……と。って、落ち着いてる場合じゃねえ!」
額に開いたパネルのすき間からのぞくコネクター類は、幾本もケーブルに繋がっていた。デイビスはそれらを乱暴に外すと、カプセル状の椅子から跳ね起き、駆け出す。顔や背格好こそ先ほどと同じだが、服はおなじみの緑一色のダサいユニフォーム姿に戻っている。胸にはモップを基調とした清掃局のロゴマーク。ちなみにモップは一度も持ったことがない。
仕事場に並ぶカプセルには、同じ緑のユニフォームを着た同僚たちが静かに収まっていた。その前を通り過ぎ、ドアをくぐる。管制室では、たくさんのモニタに赤いアラートが花火のように弾けていた。
「C3エリアを封鎖!」
「どこに逃げたんだ?」
局員たちの声が交差する。デイビスはパネルに映る赤い模様やら文字やらを一瞥して肩をすくめ、場の熱を少しだけ下げる調子で口を開いた。
「おいおい、慌てるなって。清掃局のネットワークにいる限り、あいつは網に囲まれた魚だぜ」
局員の一人から鋭い視線が返ってくる。別の同僚が叫ぶ。
「いや駄目だ! 既に逃げてる……なんてやつだ、データレイクの外にもう出ちまったぞ」
デイビスの人工心臓が一拍遅れて跳ねる。なぜこの機械の身体は、焦ったときの心拍の増加まで忠実に再現するのか。
「魚は網をすり抜けたようだな」
低い女の声に振り向くと、赤髪の中年の女が立っている。スーツのラインは実用的で、威厳を飾り立てるものではないが、その主の威圧感までを隠し通せるものではない。清掃局の局長、ウルラだった。
「ああこれはボス、珍しいですね、コントロールルームまでいらっしゃるなんて。現場重視もいいですが、局長はもっとでんと構えていた方が……」
「警報レベル2が鳴ったのでな。逃がしたのは君だって?デイビス」
「いや引き上げた直後は全然動かなかったんですよ。まな板の上の鯉って言葉知ってます?鯉は跳ねるけどあいつは跳ねもしなかったんで」
「だが立ち上がって泳いだ?」
「はい……」
ウルラはおもむろに腕を組み、うつむいて上目がちのデイビスを見下ろす。
「イルドには引き上げの刺激で作動プログラムが働く物がある。マニュアルにあったはずだが?」
「もちろん読んでますよ、ボス。ただあれ、3テラバイトもあって俺のメモリに入れると残り容量がなくなっちまうんです。そうするとファームウェアの更新のときに一次記憶領域の容量が足りないって注意されるもんで、消してはまたダウンロードって手間じゃないですか? あとあれ、知ってます? “マニュアル最後まで読むと消去される”って噂がね、局員の間でまことしやかに……知識は人格を殺すっていうけど、まさかねぇ」
ウルラはまくしたてるデイビスを黙って見つめている。
「で、その噂と、今の状況とどちらが怖い?」
デイビスは肩をすくめると、目を伏せ、ゆっくり彼女を指さした。
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