硫黄岳に架ける声の橋 ― 三島村ネット中傷防止条例
共創民主の会
第1話 硫黄岳に立つ決意
【硫黄岳を背に、海風がサトウキビの葉を鳴らす十一月十五日――】
朝、役場の通用口をくぐると、湯けむりの匂いがした。硫黄岳の裾野から立ちのぼるその臭気は、幼い頃から変わらない。だが今日は、いつもより重く胸にへばりついた。ネット中傷防止条例の最終調整。島にとって、これまでで最もモダンで、最も切実な法となる。
私は山城敬一。三島村の市長を十二年務める。人口四百七人。高齢化率三十パーセントを超えるこの離島で、今、新たな「風」が吹いている。スマホの画面を通して吹きつける、冷たい風だ。
午前九時、村役場前の広場に人が集まり始めた。説明会のためのテントを張り、マイクの音を確かめる若手職員の指先が震えている。彼も被害者だ。ツイッターで「税金泥棒」と罵倒され、家族の写真まで
「市長、そろそろ始めますか」
石黒副市長が、額の汗をてのひらでぬぐった。五十八歳。私と同じく、島で生まれ島で育ち、島で老いる覚悟の男だ。
マイクの前に立つ。取材陣は五社。本土から船で四時間、記者たちも疲労の色が濃い。だが、彼らの目は鋭かった。
――三島村ネット中傷防止条例。要点は三つ。即時対応の相談窓口。削除要請の行政手続。そして、加害者への教育的指導。
「本条例は、表現の自由を抑圧するものではありません」
声を張る。公人としての顔だ。毅然とした口調で、条文の根幹を語る。記者から挙手が上がった。
「削除要請の判断基準は? 恣意的な運用の恐れは?」
「基準は明確に条文化してあります。尊厳を傷つける明確な事実誤認、もしくは差別的発言。第三者委員会がチェックします」
「だが、行政が介入することで、『怖くて書けない』という空気になるのでは?」
その瞬間、脳裏をよぎったのは、昨夜読んだメールだった。島出身の女子高生からだ。
――市長さん、学校のSNSで「キモイ」「消えろ」って書かれてるのに、先生は「スルーしな」としか言わない。どうしたらいいですか?
「表現の自由は、誰かの悲鳴を塞ぐためにあるのではない」
私は、マイクを握りしめた。手のひらに汗が滲む。公人としての言葉は、自分自身でも意外なほど確かだった。
説明会は一時間で終わった。だが、胸の奥に穴が開いた。条例は、本当に島の和を守るのか。それとも、世代を隔てる新たな壁になるのか。
午後一時、役場の小会議室。副市長の石黒と、政策課長の佐久間が資料を広げている。
「高齢者向け相談窓口の運営ですが……」
佐久間は、老眼鏡をずり上げた。五十歳。本土の大学で行政学を修め、十年前にUターンしてきた。理論を知りすぎて、時に現場を見失うところがあるが、今日は違う。目に真剣な色があった。
「スマホ操作が苦手な高齢者への対応策を、もう少し具体化したい。例えば、電話一本で代理申請できる仕組みとか」
「だが、本人確認が難しい」石黒が腕を組んだ。「代理申請を悪用されれば、新たなトラブルの元だ」
私は、窓の外を見た。サトウキビ畑が風に揺れ、硫黄岳からの湯けむりが天に昇る。古くからの島の風景だ。だが、その向こうに、見えない風景がある。LINE、ツイッター、TikTok。孫たちが泳ぐ、もう一つの海。
「窓口に、『おばあちゃんスタッフ』を配置しませんか」
ふと、口をついた言葉だった。
「高齢者自身が、相手の話を聞く。同じ目線で、『スマホが怖い』という気持ちを共有できる。そこから、一歩を踏み出す」
佐久間が、老眼鏡を外った。目が潤んでいた。
午後三時、私は船で硫黄島へ向かった。エンジン音を乗せた海風が、頬を打つ。東シナ海は、十一月の空色に溶けている。
集落の公民館には、二十人ほどが集まっていた。自治会長の本田さんが、私を迎えた。七十五歳。島の歴史を体で知る男だ。
「市長さん、条例の話は聞きました。でも、ちょっと心配でね」
本田さんは、古びた畳の上に正座した。背筋が曲がっているが、声はしっかりしていた。
「島の和が、崩れるんじゃないかって」
周囲の顔が、揃ってうなずいた。硫黄島の人口、百二十人。顔と名前が一致する世界だ。だからこそ、傷つく。
「昔から、ここは『言いにくいことは酒で』だった。直接顔を合わせて、飲んで、泣いて、笑って。それが、スマホの画面に変わっちまったら……」
私は、膝の上で拳を握りしめた。本田さんの言いたいことは、痛いほどわかる。条例が、島の古き良き「
「本条例は、酒を禁じるものではありません」
私は、できるだけ柔らかく答えた。
「ただ、『声』が届かない人がいる。酒の席に乗れない子どもたち。本土に出た若者たち。彼らの悲鳴に、耳を澄ます。それだけです」
沈黙が落ちた。外では、波音と風音だけ。
夜、七時。役場の応接室。竹島から来たPTA役員、木下さんが、資料を広げている。四十代の母親だ。目の下に
「うちの子、中学二年です。インスタで『ブス』『死ね』って……」
声が震えた。私は、コーヒーカップを手に取った。手のひらに汗が滲む。個人としての私だ。
「画像まで加工されてて、クラスのグループチャットに流されたんです。担任に相談したら、『スルーしなさい』って。でも、子供は夜、布団の中で泣いてるんですよ」
木下さんは、スマートフォンを取り出した。画面には、娘の写真。無理やり笑っている。目が泳いでいる。
「条例ができたら、行政が動いてくれますか? 削除とか、加害者の指導とか」
「できる限りのことを」
私は、答えた。だが、胸の奥で、別の声がする。――本当に、できるのか? 匿名という海の向こうに住む加害者と、同じ島で暮らす被害者。その距離を、条例という一本の矢で、測りきれるのか。
木下さんが帰った後、私は役場の屋上に上がった。硫黄岳の夜景が、闇に浮かぶ。火山の火が、昔から島を見守っている。ネットという海も、火山の火も、人の心も。どこかで繋がっているはずだ。
風が冷たい。私は、ポケットから条例の最終案を取り出した。紙が、風で震える。
――本条例は、盾であって剣ではない。
突然、脳裏に浮んだ言葉だった。誰かの悲鳴を守る盾。だが、誰かの声を封じる剣にはならない。バランスは、宙ぶらりんだ。だからこそ、私たちは手を伸ばす。硫黄岳の火のように、絶えず燃えながら、絶えず測りなおす。
海の向こうに、明かりが見える。本土だ。匿名の街。だが、その明かりの一つ一つに、家族があり、悩みがあり、笑顔がある。同じ人間だ。
私は、夜景に向かって、小さく呟いた。
「条例は、距離を測る物差しじゃない。橋だ」
サトウキビ畑が、風に揺れた。十一月の夜風が、海を渡ってくる。ネットの風も、いつかはこの海を渡る。だが、島には、昔からの風も吹いている。湯けむりと、波音と、人の温もり。
私は、資料を胸に抱えて、屋上を下りた。明日も、議論は続く。だが、今夜は硫黄岳の火を信じよう。島の和を、孫たちの未来を、そして、どこかで繋がるはずの「声」を。
役場の明かりが、一つ消えた。
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