恥ずかしいか青春は①

 ある日。

 学校から帰宅すると、玄関に優希の靴が置いてあった。


「ただいまー」


 玄関で靴を脱ぎながら、どこかにいるであろう優希に対して声を出す。


「おかえりー」


 声が返ってきた。洗面所のほうからだった。

 直後にスライド式のドアがカラカラと開いて、優希が廊下に現れる。


「じゃーん! 優希もいま帰ってきたばっかりだよ!」


「みたいだな」


 見れば優希は制服姿だった。赤リボンのセーラー服。

 そして優希は、両手をお腹の辺りに浮かせて、なにやら幽霊みたいなポーズ。


「えいっ!」


 そんな叫びとともに、指を弾くように動かす。

 直後、顔に冷たい感触が。


「わっ!」


 反射的に声を出しちゃったと同時に判った。

 水だ。冷水だ。洗面台で手を洗って付いた水を飛ばしてきたのだ。


「こら優希! ちゃんとタオルで手拭きなさい!」


「ふふっ! クリーンヒットだねっ!」


 注意しても悪びれる様子のない悪戯っ子が、スカートを翻してリビングのほうに。

 頬についた水を人差し指ではらって拭いて、ぐぬぬと歯ぎしり。

 これは、あれだな。やられたらやり返すってヤツだな。倍返しはしないけどそのまま返すくらいはしなきゃだな。

 ってわけで。

 ぼくも洗面台で手を洗って、タオルで拭かずに濡れ手のままでリビングに。

 セーラー服を着たままソファーに座って涼んでいる優希の背後から、抜き足差し足忍び足。


「――優希」


 射程距離に入ったところで呼びかける。


「なに?」と応じながら、顔をこっちに向ける優希。

 今だっ!

 両手の、あわせて十本の指を一斉に。

 各指先から繰り出された水滴たちが、優希めがけて飛翔する。

 見事に全弾ヒット。


「うぎゅっ!」


 優希はかわいらしい声を発して目をつぶり、両手で顔を覆い隠す。

 よし! 仕返し大成功!

 どんなもんじゃい! 兄の威厳ここに保たれり! わっはっは!

 ――と、心の中で高笑いしてたら。


「――っ――っく――」


 優希の様子がおかしいことに、ワンテンポ遅れて気がつく。

 両手で顔を隠したまま、動かずに沈黙している。

 その姿は、まるで――泣いているかのよう。


「優希?」


「……ぐすん……」


 ……えっ? ぐすん? 鼻をすする音?


「……ぐすん……」


 もしかして泣いてる? 泣いていらっしゃる?


「……ぐすん……」


 えぇ……そんな、嘘やん……だって最初に攻撃してきたのは優希のほうだし……そもそも顔に水が付いただけで泣くなんて思わないし……だけど確かに顔を覆って泣いているようだし……だとしたら泣かせたのは明らかにぼくだし……謝らなくちゃだし……あぁマジかどうしようごめん優希ホントごめん!


「……ぴえん……」


 ……。

 前言撤回。

 謝る必要なし!

 こやつ、ぴえんとかいいやがった! 顔隠しながらぴえんとか!

 優希の手首をつかんで顔から引き剥がしてみる。

 案の定、優希の瞳に涙はたまっていなかった。

 むしろカラカラ。普段よりもカラッカラ。

 清々しいほど嘘泣き過ぎた。

 まったくもう。おかしいと思ったよ。

 まあ、ちょっとだけ焦っちゃったけど。




 

 冷凍庫からソーダアイスを二本取り出す。

 優希のとなりに座って、ふたりで並んで冷たいアイスを食べる。


「びっくりした?」


 笑顔でアイスを食べる優希に訊かれる。


「びっくりした」率直に答える。「本当に泣かれたんじゃないかと思って、脇汗ベットリかいちゃっただろうが」


「えへへ。お兄ちゃんの脇汗、ゲットだぜ!」


「そんな汚いもんゲットすんなし」


「えー、汚くないよ? 誰だって汗かくし。優希だってかくし。汗は頑張りの勲章だし。デオドラントで匂い対策さえしてもらえればOKだし」


「――で、どうしてこんな猿芝居を?」


「猿だなんてひっどーい。お芝居をしようとして上手くできなかっただけですが?」


「あ、お芝居をしようとってことは、一応本当に泣きたい感じではあったのか」


「うん、そりゃもうバリバリあったよ。気合いだけはバリバリね。お水がかかった瞬間に心のなかで『よーいアクション』の合図かけて泣こうとしてみたんだけど、やっぱりというか案の定というか全然ちっとも泣けなくて。力不足を痛感だね」


 優希は先日、事務所が主催した芝居のワークショップに参加していた。おそらくはその成果を試そうとしたのだと思われる。


「いよいよ優希も本格的に俳優業に進出だな」


「進出したいですって挙手しただけでお仕事が舞い込むような甘い世界じゃないけどね。まあ優希の場合は、アイドル活動っていう、土台? というか、下駄? みたいなものがある立場だから、他の人よりもちょっとは優位な立場でスタート切れるかもだけど、結局のところ魅力や力量が問われるわけで、伴ってなければ容赦なく淘汰されるわけで」


「厳しい世界だな」


「そういう厳しいところがいいんだよ。厳しいからこそ、匂い対策しながら必死に汗かく価値があるってもんだし。――なんか優希、すごくイイこと言ってるね!」


「言ってる言ってる。優希は日頃からイイことたくさん言ってるよ」


「もう、お兄ちゃんったら、そうやって優希のことをいつも甘やかすんだから。まったく困っちゃいますなぁ」


「よし分かった、困るんだったら甘やかすのは金輪際やめるとしよう」


「えっ、だめ、ホントだめ。やめたら泣くよ? 泣いちゃうよ? お芝居とか関係ないし。お兄ちゃんに冷たくされたら秒で泣いちゃう自信あるし」


 ぼくに冷たくされたら秒で泣いちゃう自信があるらしい。

 本当にそうだとしたら、それはそれですごい特技だ。

 っていうか役者業に使えるんじゃね? その特技。


「――よし、じゃあチャレンジしてみよう」


「チャレンジ?」


「ぼくに冷たくされたらと想像することで涙を流そうっていうチャレンジさ。本当に秒で泣けるんだとしたら、俳優として立派な武器に成り得るんじゃないか?」


「たしかに! 言われてみればだね!」


 優希が笑顔を浮かべ、残りのアイスを大慌てで食べきる。

 気合いを入れるように頬を両手でペチペチと。


「いいよ」準備が整ったらしい。


 ぼくも急いでアイスを食べきって、両手の親指と人差し指で四角形を作り、カメラに見立てて覗きこむ。


「……よーい、アクション!」


 合図をかけた。

 直後、優希の眉根が下がる。鼻の穴がひくひく動く。

 きゅっと結ばれた唇が、小刻みに震えはじめる。

 瞳はどんどん潤いを帯びていき、下まぶたに涙がたまっていく。

 ――すごっ!

 手製の四角形を覗きこみながら、感嘆の声が漏れそうに。

 開始の合図をかけてから、おそらく二十秒ほど。

 優希の左目の端から、涙がこぼれた。

 まっすぐに頬を滑降していく涙の粒。

 右目の端からも同様に涙があふれる。

 作戦は大成功。

 優希のすごさを実感できたところで、そろそろカットをかけるとしよう。


「オッ――」


 オッケー! と、合図を送ろうとした。

 だけどぼくは言いよどむ。

 感情がこもっている優希の泣き顔が、とても美しく、とても映えていて、カットをかけるのがもったいないと感じたからだ。

 カメラを象った手をおろして、優希を見る。

 涙は依然流れていて、留まる気配がない。

 ぼくに冷たくされたらという想像をはたらかせて、ただそれだけで泣いてくれている優希に、果たしてなんと声をかけるべきか。

 逡巡してたら、優希がふいに「――ちゃん」と、かすれる声でつぶやいた。


「優希?」


「お兄、ちゃん――お兄ちゃん――お兄ちゃん!」


 ソファーに座る優希が、同じくソファーに座るぼくに抱きついてくる。

 優希の身体を受け止めて、ぼくたちは座ったまま抱き合う形に。


「お兄ちゃん! ヤだぁ! 酷いよっ! なんでそんなこと言うの!? 優希はただ愛してほしいだけなのに!」


 すごい。完全に自分の世界に没入してる。

 いったいどんな想像をめぐらせているのやら。優希の涙声から、相当冷たくされた様子がひしひしと伝わってくる。


「よーしよしよし! 大丈夫だからな! ぼくはここにいるからな!」


 優希の頭や背中をさすりながら、まるで児童をあやすようになぐさめる。

 ――この感じ、なんだか懐かしい。

 むかしはよくこうやって泣きじゃくる優希のことをなぐさめていたっけ。


「お兄ちゃん……ここにいてぇ……どこにも行かないでぇ……」


「どこにも行かないよー。ここにいるからねー」


「優希のことだけ愛してよぉ……なんでそんな酷いこと言うのぉ……そばに居させてぇ……でもしゅきぃぃぃぃ……」


 想像世界のぼくは相当酷いことをしたんだろう。可愛い優希をこんなにも悲しませてしまうなんて、許すまじ、想像世界のぼく。


「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!!」


 号泣する優希が完全に泣き止むまでに、三十分かかった。

 きっとこういうのを『諸刃の剣』っていうんだろうな、うん。

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