聖少女領域②
家のなかで最も好きな場所をひとつだけ挙げろといわれたら、ぼくは迷わずお風呂を挙げるだろう。
お風呂はいい。すごくいい。
熱い湯船に身体をひたすと、一日の疲れが魔法のように解けていく。
風呂キャン界隈? 信じらんない。
髪と身体を洗い終え、今夜もまた湯船に。
「っはーーーーっ」
気の抜けた声が自然と。
立ちのぼる湯気をぼんやりと眺めながら浴槽のふちに腕をまわす。
ほどなくして、浴室のすりガラスごしに人影が。
「バスタオル、洗濯機のうえに置いとくねー」
優希の声。
そういえばバスタオルを持参するのを忘れていたことを思い出す。
「ありがとう優希」浴室から声を返す。
「気がきく妹でしょ?」
「最高の妹すぎて震える」
「えへっ」
優希の喜ぶ声が聞こえ、その影が小さくなった。
シルエットを見るに、すりガラスの向こうで膝を抱えて座っているようだ。
「お兄ちゃんって、本当にお風呂が好きだよね」
「あぁ、そりゃもう大大大好きだとも」
「どれくらい好き?」
「えっ?」
「お兄ちゃんは、お風呂がどれくらい好きなの?」
「どれくらい……そうだなぁ……住民票を移したいくらい好き、かな」
「現住所がお風呂だなんて、酔狂だね。市役所に問い合わせてあげようか? 兄がお風呂場に住民票移したいって言ってるんですけどー、って」
「任せた。移せるっていわれたら移させてもらうよ」
「あっ、待って、ダメ待って。お兄ちゃんがお風呂場に住民票を移すってなったら、それってつまりお兄ちゃんと優希の現住所が違くなっちゃうってことだよね? いや正確にはお風呂場はウチの一部だから分類の階層の違いでしかないのかもしれないけど、少なくとも世帯分離には当てはまっちゃうわけで、お兄ちゃんと世帯を分離するなんて絶対嫌だし考えただけで胸が張り裂けそう。あぁでもお兄ちゃんの『お風呂場に住民票を移したい』っていう夢も妹としては最大限に応援してあげたいから、折衷案で優希も一緒にお風呂場に住民票を移すしかないわけで。別に優希としてはお兄ちゃんと一緒の住所を登録できるなら世界のどこが現住所になったとしても全然大丈夫なんだけど、住民票を更新したからには事務所に報告しないといけなくて、さすがに住民票の住所がお風呂場になってるアイドルっていうのは本邦初だと思うし、ともすればしょうもない話題作りに躍起になってる奴だって思われかねないし――あぁでもやっぱりお兄ちゃんと一緒の住所でいるためには仕方がないよねぐぬぬぬぬ――」
「優希」
「なに?」
「明日の夜、食べたいものあるか?」
「あ、ううん、明日は大丈夫。バラエティー番組の収録にお邪魔するんだけど、多分そこでみんなでお弁当食べると思うから」
「了解。バラエティーか」
「トーク系のやつ」
「たくさんしゃべれるといいな」
「ホントそれね。だから至極のエピソードトークを何個か練りあげておこうと思って。最悪何も思い浮かばなくて困ったら、お兄ちゃんのネタに頼るねっ」
「困ったら頼るって、まるで非常食みたいな扱いだな」
「非常食じゃないよ。冷凍うどんみたいな感じ」
似たようなカテゴリじゃない? でも冷凍うどん美味しいよね。
「二十二時までには収録終わると思うから、帰ってきたら二十三時ってところかなぁ」
遅くまでご苦労様としか言いようがない働きっぷりだ。
「優希が帰ってくるまで、お兄ちゃんも寝ないで待っててくれる?」
「もちろん待ってるとも」
「仕事から帰ってきて疲れた優希を、優しく抱きしめてくれる?」
「抱きしめてくれるとも」
「抱きしめてくれながら耳元で『お仕事お疲れさま』ってささやいてくれる?」
「ささやいてくれるとも」
「――っくはぁ! ヤバーい! 優希ヤバーい! そんなんされたら昇天しちゃうーーーっ!」
身悶えしている優希が映る。
こっちから見ると若干ホラーだ。
「落ち着け優希。すりガラスごしにうごめくんじゃない」
「あぁ、ごめんお兄ちゃん、歓喜の感情が五臓六腑を渦巻いて大フィーバーで。お兄ちゃんに構ってもらえると、たまった疲れもきれいさっぱり消えちゃうね」
「くれぐれも無理だけはするなよ。身体が資本なんだからな」
「お気遣いありがと。身体が資本、か。マネージャーさんも同じこと言ってたっけ。たしかに『働き方改革』とか『ワーク・ライフ・バランス』とか聞いたことあるけど、優希は、頑張れるギリギリのところまではちゃんと全力で頑張ってみたいんだよね。全力で頑張ることでしか見えないものとか、辿り着けない境地とか、得られない感情とか、いろいろあると思うんだ。あと、お仕事を頑張っていれば、勉強を頑張れてないことを多少は大目に見てもらえるし」
「そんな打算があったんかい」
「えへっ。あんまり不出来が過ぎると呼び出しくらっちゃうかもだけどね。赤点の回避だけは絶対マストなのですよ。お勉強の時間をニュルっと捻出しないとね」
「でも大変だよな。今年に入ってから更に忙しくなってるんじゃないか?」
「おかげさまで、てんてこ舞いな毎日ですよ。この勢いを持続させていきたいよねぇ。メンバー全員仲良しだと思ってるし。すねに傷持つメンバーもいないし」
「すねに傷、か――」
ぼくは左脚を上げて湯船から出してみる。
「――すねに傷があるのは、ぼくのほうだな」
ぼくの左脚の膝から足首にかけて――いわゆるすねの部分には、目立つ傷跡が残っている。刃物で切られたみたいな傷跡だけど、刃物で切られたわけじゃない。
「あ、ごめん……優希、無神経なこと言ったね……」
ご機嫌だった優希の声色が沈んで、ボリュームが小さく萎む。
そういう反応を望んでたわけじゃない。でも、そういう反応になってしまうのも無理は無いと、むしろ当然だと、愚鈍なぼくは今更ながらに反省する。
「――こっちこそ、すまん」左脚を湯船に戻して謝る。「ほら、いわゆる自虐ネタのつもりでさ。そういう意味の傷じゃないだろって一笑に付してもらえるかと思って――」
「付せないよ……そんなの付せるわけないじゃん! だって、お兄ちゃん、優希のせいで、すごく痛そうにしてて……優希、本当に、お兄ちゃん死んじゃう! って思って……」
「何度も説明しただろ? 見た目の割に大したケガじゃなかったって。診断結果はただの打撲。たしかに傷跡は残ったけど、今となっては勲章みたいなもんだよ」
「勲章か。ものは言いようだね。お兄ちゃんのそういう前向きなところ、推せる」
「アイドルから推されるなんて、いい身分になれたもんだぜ」
「お兄ちゃんのことを推してるアイドルが、優希だけならいいんだけどね」
「へっ?」
「誠に遺憾ながら、優希のほかにもいるじゃんね。お兄ちゃんのことを強く推してるアイドルが」
「もしかして、奏海のこと?」
「はい、そうなります」
「別に推されちゃいないと思うんだがなぁ」
「はぁ――」デカいため息が漏れ聞こえてきた。「本当にお兄ちゃんは、鈍感というか朴念仁というか分からず屋というか木偶の坊というか」
言い過ぎじゃない? 本当にぼくのこと好きなんだよね?
「別に優希は、奏海ちゃんと一切話すなっていってるわけじゃなくてね。学校とかで話すのは仕方がないことだし、街中で挨拶を交わす程度なら寛大な心で目をつぶって差しあげるんだけど、ただ――自覚してほしいの。お兄ちゃんは自分のことを冴えない人間だなんて自己評価してるかもしれないけど、全然そんなことないんだから。特に最近は色気を纏って完全にモテ期祭りの真っ最中。祭り囃子の太鼓の音が響き渡ってフェロモンなの。お兄ちゃんが自分で考えてる以上に、周囲の女子から推しを受けてる現状を、もう少しちゃんとしっかり受け止めて。優希からの事実に即した金言ね」
「……うけたまわりました」
「あんまりしっくりきてない感じだね。まあいいや。ちょっと話は変わるんだけど、優希ね、どうしても腑に落ちないことがあるんだ」
「腑に落ちないこと? 言ってみ。華麗に落として進ぜよう」
「――あのさ、優希って、アイドルじゃん」
「あぁ」
「アイドルって、恋愛禁止じゃん」
「あぁ」
「優希が恋愛禁止なのに、どうしてお兄ちゃんは恋愛禁止じゃないのかな?」
「……」
「優希の素朴な疑問です」
「たしかに素朴だな。素朴の申し子だな」
「お兄ちゃんは、どうしてだと思う?」
「どうしてって……いや、だって、ぼくはアイドルじゃないから」
「そういうと思ったよ」
「そういわざるを得ないだろ」
「お得意の『自分はアイドルじゃないから』理論ね」
「はじめて用いた理論だ。勝手に得意にするな」
「でもねお兄ちゃん、その理論には、致命的な穴があるよ」
「マジで?」
「ぼくはアイドルじゃないからなんていう理屈が通用するのは、一般の兄妹に限ったお話でしょ」
「一般の、兄妹」
「優希とお兄ちゃんは違うじゃん。プロの兄妹じゃん」
「プロの、兄妹」
「はい、論破完了」
「いやちょっと待て! プロの兄妹ってなんだよ! むしろ一周まわって偽物っぽくなっちゃってるだろ!」
「――あれは十年前。お父さんが、一泊9500円の安いホテルで二割引きのクーポン使ってチェックインして不倫して、お母さんが烈火のごとく怒髪で天を衝いちゃって、超大型台風みたいな修羅場を幾度も重ねた末に決壊。どしゃ降りの雨があがったら、地面が強固に固まって、優希とお兄ちゃんの絆は強く、強く、とても強く磨かれた。そんじょそこらの兄妹たちとは比較にならないくらいに太くて深くて凛々しい絆。何人たりとも決して断ち切ることのできない絆。兄妹仲良く苦楽をともにして行くって固く誓ったわけだから、優希が背負った恋愛禁止の制約も、お兄ちゃんならきっと共有してくれる。ちまたに蔓延る恋愛に俗なうつつを抜かさずに、優希のことを、優希のことだけを、ずっと見つめ続けてくれる。優希はそう信じてる。だから当然、お兄ちゃんにも恋愛禁止は適用されてしかるべき。優希はなにも間違ってない。優希はなにも誤ってない。――ううん、違う。優希は、お兄ちゃんに間違ってると思ってほしくないだけ。誤ってると思ってほしくないだけ。世間の常識なんてどうでもいいの。人間の在るべき姿なんて知ったことか。優希はお兄ちゃんから認められたい。正しいと思ってもらいたい。だからお兄ちゃんも恋愛禁止。優希との約束」
「……」
優希の気持ちの吐露を聞いて、ぼくは当時のことを――今と違って家庭が荒れていた当時のことを思い出す。
――まあ、あらかた、優希が語ったとおりなのだけれど。
父の不倫が発覚して、母が怒りをあらわにした。
家族という括りが、父母ふたりだけだったとしたなら、おそらくはすんなりと別離に至ったのだろうけど、ぼくたち兄妹の存在が、ふたりを中途半端に繋ぎ止めようとする引力になってしまったんだと思っている。陰鬱な状態を長引かせる枷になってしまったんだと捉えている。
優希はよく泣いていた。外では明るく元気にしていたのだけれど、家では毎日のように泣いてた印象だった。家庭不和がショックだったのだろう。幼いぼくが妹にしてあげられたことといったら、慰めることや、励ますことや、寄り添うことや、時には胸を貸したり、涙を拭いてあげたり、その程度のごく小さな支え方しかできなかったのだけれど、優希は当時のことを、ずいぶんと恩義に感じてくれているらしい。
たしかに優希のいうとおり、ぼくたち兄妹は、ふたりで支え合ってきた。
支え合って、どうにか生き永らえてきた。
きっと、これからもそうしていくのだろう。
翻って、恋愛禁止の件。
ぼくは生まれてこのかた誰かに恋という感情を抱いた自覚がないので、縁遠いイベントだと思っている。恋愛をすると、人間は合理的な選択が取れなくなったり、仕事や学業が手につかなくなったり、頭が意中の相手のことで埋め尽くされたりすると聞く。正直いって率先して参入したいイベントではない印象だ。
「なぁ優希。まえにテレビでやってたんだけど、恋っていうのは、脳のバグで――いわゆる『本能』で落ちるものらしいんだ。本能で落ちるってことは、要するに理屈じゃないし、恋をしようと自ら階段を昇っていくわけでもない。人間の力じゃ、どうやったってあらがえない現象らしいんだ」
「うん。優希もおおむね同意見だね。それでそれで?」
「つまり何がいいたいのかっていうと、いま現在、ぼくの本能は恋に落ちてないと断言しよう。だけど、未来のことは判らない。この先、ぼくの本能が恋に落ちる日が来るのかもしれないし、来ないのかもしれない。断言できるのは、いまこの瞬間の感情だけだ」
少々、冗長でお茶を濁すような回答になってしまったかもしれない。煙に巻くみたいになってしまったけど、しかし嘘はついてない。我ながら的確な現状解説。
優希に納得してもらえるといいのだけれど――。
そう思いながら、優希の応えを待つ。
「……お兄ちゃん」優希がいう。「こんなことを、本当はあんまり考えたくないんだけど……想像するだけで怖いんだけど……もしお兄ちゃんが恋に落ちちゃったときは……お兄ちゃんに好きな人ができちゃったときは……一番最初に優希に教えて。お兄ちゃんがどんな相手に惹かれたのかが知りたいの。優希はお兄ちゃんの妹なんだから、当然その権利があるよね」
ひとまず優希は納得してくれたらしい。
「分かった。いつの日か好きな人ができたときは、一番に優希に教えるよ」
「ありがと。……なんかごめんね、こんな重たい妹で」
「体重の話?」
「体重の話も兼ねてる」
「いやいや全然重たくないだろ軽いだろ」
「って思うじゃん? アイドルの体重管理は厳しいのです。ぽちゃ売りしてるわけでもないし。まあ、お兄ちゃんがどうしても肥えてくれって願うなら、リミッター外して全力でフードファイト開催するけど」
「そこまではしなくていいけど、程よく健康的な感じでいこう」
「程よく健康的な感じ、か。さじ加減が難しいなぁ。――逆にお兄ちゃんは、もう少し体重落とすべきだよね」
ギクッ。
「以前よりも贅肉が潤沢になってきたのでは? 特にお腹のあたりとか」
「――」
指摘されて、下腹部の肉をつまんでみる。
――ぷにっ。
……うん。痩せよう。
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