聖少女領域①
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分譲マンション『セゾン藤ノ宮』。
鉄骨鉄筋コンクリート造。南向き。オートロック。遮音性と日当たりと防犯性に優れたマンションの603号室に、ぼくと優希は住んでいる。
正確には母とぼくと優希の三人で住んでいるのだけれど、母は仕事柄、家に不在なことが多く、一年のうちの330日以上を海外で生活している。帰ってくるのは大型連休と三者面談のときぐらいで、実質的にはぼくと優希のふたり暮らしの状態だ。
高岳優希。
アイドルグループ『チェリーブロッサムクラブ』のメンバーにして、ぼくの妹。
年齢は十六歳。高校一年生。
ぼくのひとつ下の学年で、ぼくとは別の高校に通っている。友人いわく『お前の妹とは到底思えないほどの美少女』。兄として、妹の魅力を正確かつ客観的に測ることは難しいのだけれど、彼女がこうしてアイドルとして順風満帆にやれているという事実が、なによりの魅力の証明なのだろう。
とある暑い土曜日の夜。
エアコンがほどよく効いたリビングで、ぼくが真心込めて作ったカレーを食べながら、優希がいう。
「ねぇお兄ちゃん聞いて。昨日スーパーに行ったら、1箱198円のアイスが売っててね。キャンペーン中らしくて、2箱買えば390円になるって書いてあったの」
「へぇ、それでそれで?」と相槌。
「なんかすごい身を削った出血大サービスですドーーン! みたいな銘の打ちかたで黄金色のポップが集中線バリバリキラキラーッ! って飾ってあったんだけど、でもよく考えてみてよ。1箱198円のアイスを正攻法でふたつ買った場合でも合計396円。キャンペーン適用した場合と比較して6円しかお得になってないわけ。6円だよ6円! たった6円のお得さをアピールするためにあんなにも華美なキラキラポップを飾りつけるなんてさ、これはもう逆に一周まわって詐欺じゃないかな?」
「なるほど。優希の気持ちは理解した」
「だよね! 分かってくれるよね! 分かり味しかないよね! やっぱり詐欺だよ絶対詐欺だよぼったくりだよ!」
「でもどうだろう。たった6円でも、されど6円なわけで、ちゃんと安くはなってるし、一応嘘はついてないわけだろ?」
「それは確かにそうだけど、でもさ、でもさ、安売りのポップを見て脊髄反射の条件反射で『マジヤバい超お得じゃん買うっきゃないじゃんウヒョー!』みたいに勘違いするひとが絶対いるよ。景品ナンチャラ法には触れてないかもだけど誇大広告には違いないね。そんでもってわずか6円の事実に気づいちゃった人たちが『この店はわずか6円の安さを大々的に宣伝するようなお店だから物を買うときは注意をしなければ』って身構えちゃって購買意欲が削がれるんだとしたら、むしろそっちのほうがお店側にとって損失じゃないかな? 目先の6円のために大きな利益を失うなんてもったいないよ。商機の逸失だよ」
消費者目線で語っていたかと思いきや、いつの間にか経営者目線でも語りはじめる優希。
物事を多角的に見れるのはいいことだ。さすが我が妹。
「たしかに優希の言うように、そういう弊害があるのかもしれないな」
「でしょ! 要するに、ほんの一瞬で6円の罠に気がついた優希は優秀ってことね!」
「そこに帰着するのか」
「えっへん! 優希は、あらゆるモノの本質を見極められる人間を目指しているのです!」
「なれるといいな」
「お兄ちゃんは、どういう人間を目指してる?」
「おいしいカレーが作れる人間を目指してる」
「いま以上に?」
「いま以上に。インド人が目を剥いて卒倒するレベルのカレーを作るのが夢なんだ」
「さすがお兄ちゃん。あまりのまぶしさに優希のほうが卒倒しそう。完成したあかつきには、ぜひとも優希に一番に試食させて。喜んで人柱になってあげる!」
人柱て。ちょっと信用薄くない?
優希はカレーを口に運んで、咀嚼して、目尻を下げてニッコリ微笑む。
メディアに出ているときとは微妙に違う、とてもリラックスした笑顔。
お仕事用じゃない、プライべートな笑顔。
優希のそういう笑顔を見るのがぼくは好きだ。ちゃんと彼女にとってのかけがえのない居場所になれているんだって安心する。
それにしても。
我ながら、今日のカレーは本当に出来がいい。コクと旨味がギュッとつまってる。お米の炊け具合も抜群。ルーとうまく絡み合って、極上のハーモニーを奏でている。
ぼくたちはお互いにカレーを食べ進めていく。
同時に食べきって、これまた同時にお皿を持って席を立つ。
互いに見合う。
鍋に残っているカレーはおよそ一人前。
優希は最近食事の量を制限しているので、てっきりおかわりはしないと勝手に思っていたのだけれど、なんかふつうにおかわりするっぽい雰囲気。
半人前ずつ分けるという選択肢もよぎったけど、ここは兄として、日夜がんばっている妹に譲ってあげるというのが優しさだ。
ぼくは着席する。
「あんまり残ってないから、全部きれいにさらっちゃってくれよ」
「いいの?」
「あぁ。たくさん食べて、お仕事の原動力にしてくれよな!」
親指を立ててみせる。
「ありがとうお兄ちゃん! 好き! 知ってると思うけどホント大好き! お言葉に甘えさせてもらうね!」
栗色の髪を翻して、台所に向かっていく優希。
コンロを点火する音が聞こえる。
自分が作った料理を美味しそうに食べてくれる。おかわりまでしてくれる。料理を趣味にしている人間として、こんなにも嬉しいことはない。報われる。冥利に尽きる。作った甲斐があったと心から感じられる。
ほどなくして、お皿にカレーライスを乗せた優希が帰還。
「いただきまーす」
おかわりのカレーをもぐもぐ食べはじめる優希。
「カレーのご感想をどうぞ!」
インタビューを敢行してみる。
「えーっとね、カレーの感想は………………美味しい! カレー美味しい! すごくカレーって感じがします! スパイスが、なんというか、こう……スパイシーです!」
絶望的な食レポだ。一周まわって嫌いじゃない。
「もう、急に振ってこないでよ、お兄ちゃんのイジワル」
「あはは、ごめんごめん」
「でも、美味しいっていう気持ちはちゃんと伝わったでしょ?」
「あぁ、そりゃもうビンビンに伝わって来たよ。胸が熱くなった」
「えへっ。――あっ、そうだ。実はお兄ちゃんにひとつ訊きたいことがあるんだけど」
「訊きたいこと? あっ、もしかしてカレーのレシピか? いいぞ全然教えるぞ! 余すとこなく包み隠さずレクチャーしちゃうぞ! たぶん世界でぼくしか実践してないとびきりの秘密もあるけど優希にだったら教えちゃうし! どうぞなんなりと根掘り葉掘り尋ねて来てくれたまえ!」
「あ、ごめん、全然違う」
全然違った。
「お兄ちゃんさぁ、昨日、女の子と一緒だったよね?」
「…………へっ?」
部屋の空気が、今日のカレーみたいにピリッと。
「――あれ、なに?」
優希の眼が、鋭く光る。
眼差しに気圧されて、思わず背筋がピンと張る。
だけど、優希が指摘している件については、確かな覚えがあった。
結論からいうと、そこになんら後ろめたいことは含まれていない。事情を説明すれば分かってもらえるはず。
「……優希がいってるのは、昨日の放課後の話だよな?」
「うん。そう」
うなずく優希。やはりそうか。
「それだったら『奏海』だよ。変装してたと思うけど、あれは奏海。幼馴染の
真相を説明したが、しかし優希は険しい表情を浮かべたまま。
「そう。奏海ちゃん。へぇー」
「前に話したよな。今年も奏海と同じクラスになったんだって」
「うん、それは把握済み。ていうかぶっちゃけ、昨日の相手が奏海ちゃんだってことも、優希の目にはお見通し済み」
「なんだ、そうだったのか。だったら話は早いじゃん」
「ちょっと待ってよお兄ちゃん。全然話早くないし! むしろ鈍行! 完全に超鈍行の雲行きなんですが!?」
「カレー冷めるぞ」
優希がカレーを爆速で食べきる。
スプーンを手放すように置いて、水を飲む。
「ごちそうさまでした」手を合わせる。「では、話を再開させていただきます」
「許可致します」
「あのね、お兄ちゃん。本当に――本ッッッ当になんの因果か知らないけどさ、奏海ちゃんって『サクラ・フロント』のセンターなわけじゃんね」
「そうだな。奏海はアイドルグループ『サクラ・フロント』のセンターだ。『チェリーブロッサムクラブ』のセンターとしては、なにかと気になる存在だよな」
「うーーーーーん」
眉をしかめる優希。
「気になるか気にならないかっていえば、間違いなくすごく気になるんだけど、グループ云々が理由じゃないといいますか……」
「?」
「いくら幼馴染だからって、いくらクラスメイトだからって、お兄ちゃんと人気アイドルが放課後に仲良しデートをぶちかますなんて、妹としては往生こいちゃう話じゃん。気になり過ぎて学校のお勉強に全然身が入らないし!」
「お勉強に身が入らないのはいつものことだろ。人のせいにするな」
「ちぇっ、バレましたか。――でもっ! 心がソワソワするのは事実なのです! この胸の隠しきれないざわめきは、もはや無視することなどできないのであります!」
なんだその語り口。演説か。
「奏海とはただの幼馴染の関係だ。優希がいうような、デートとか、イチャイチャとか、そんなのは完全に誤解だから」
「そうやってさ、そうやってさ、『奏海』って雑に呼び捨てにするのもさ、ちょっとモヤるんですけどねっ」
「幼馴染を今更『さん』づけなんて、そっちのほうが不自然だろ」
「分かってるよ。分かってる。分かってるけどモヤるってこと! 6円安いのは事実だけど騙されてる気がするのと一緒! 幼馴染なんだから別にいいだろっていうのは、6円安いんだから別にいいだろって言ってるのと一緒なの! 要するに気持ちの問題なの!」
熱意をみなぎらせながら訴えかけてくる。
優希は「グループ云々じゃない」と言うけれど、おそらく端を発しているのは、優希と奏海のライバル関係。ひいては『チェリーブロッサムクラブ』と『サクラ・フロント』のライバル関係だろう。ぼくが奏海と接することで、『チェリーブロッサムクラブ』ではなく『サクラ・フロント』に肩入れされている気がしてしまうのだ。普段から事あるごとに比較されている両者であり両グループだ。過敏になってしまう気持ちは痛いほど分かる。
だけど奏海は幼馴染。
アイドルである以前に幼馴染。
むかしからの関係性をいきなり変えるなんてできないししたくもない。優希がぼくにとって特別な存在であるとともに、奏海のこともまた特別なのだ。
「――とりあえず、経緯を説明させてくれ。奏海と一緒だったのは、約束してたとかじゃなくて、本当にただの偶然なんだ。帰り道に本屋で漫画を買おうとしたら偶然会って、店内の休憩スペースに座って十五分くらい軽く雑談した。それだけだ」
「……たしかに、休憩スペースに居たね」
「だろ? だから本当に、そういうことなんだよ」
「でも、その割には、偶然会っただけの割には、まるで待ち合わせしてたカップルさんみたいな雰囲気で、楽しそうに話弾んでいらっしゃったように見えましたが?」
「奏海は世間じゃクールな印象を持たれてるかもだけど、実際はよく喋るしよくボケるし面白いヤツなんだ。優希も知ってるだろ?」
「さあ、知らない。……うそ。知ってる」
「だろ?」
「奏海ちゃんのこと……この際だから訊くけど、訊いちゃうけど……奏海ちゃんのこと、お兄ちゃんはどう思ってるの?」
「どうって、さっきからいってるように幼馴染だ。幼馴染であり、クラスメイトであり、アイドルグループ『サクラ・フロント』のメンバーであり――」
「肩書きじゃなくて気持ちのことを訊いてるの。ラブなのか、ライクなのか、あるいはまた別のなにかなのか」
「もちろんライクだし、向こうも同じだろ」
「向こうも同じだろっていうのは、お兄ちゃんの勝手な決めつけかもしれないよ? 確認したわけじゃないんでしょ?」
「そりゃ確認はしてないけど、ライクだろうよ、普通に考えて」
「普通に考えてねぇ。――普通って、なんだろうね?」
「普通っていうのは……要するに、多数派、ってことかな」
「多数派。なるほどね。だったら優希は全然普通じゃないね」
「そうなのか?」
「うん。だって、こんなにもお兄ちゃんのことが大好きな妹なんて、絶対に普通じゃないよ。レアキャラ。SSR。課金に課金を重ねても全然少しも排出されないプレミア。世が世なら公序良俗に反する異端者として処刑されてる華麗なヴィラン。きっとそれが優希の正体なんだよ」
そう語る優希の表情は、自虐めいた言葉の数々に反して、なぜか誇らしげに見える。
優希が仕切りなおすようにコップの水を飲み干す。
「――ってわけで、お兄ちゃん。明日のお昼、優希と『コレダ』でデート決定ね」
「えっ」
「え、なに? 拒否? 不服? 難色? 奏海ちゃんとはデートできるのに、優希とはデートできないってわけ?」
「いや……優希とデートするのはいいなって思うんだけど……でも、さ……」
「でもなに? 歯切れ悪いね。楽しそうならいいじゃん問題ないじゃんハッピーじゃん」
「……また、アレ、掛けさせられるんだろ?」
「もちろん。お掛けいただくよ」
そういって優希が、一枚のたすきを取り出す。
たすきには、大きな文字で『高岳優希の兄です』と記されている。
優希が特注したたすき。世界にひとつだけの特別で特異なたすき。
「これさえ掛ければ週刊誌なんて怖くない! 盗撮されてSNSに載っちゃっても問題なし! 全部の誤解を未然に防げる最強の盾! 有象無象よドンとこい!」
「強気に煽るんじゃないよ」
「強気に煽るよ。すっごい煽る。現に文冬砲を返り討ちにできた実績あるし」
「あれを返り討ちって表現するなよ! 『兄です』って書いてあるたすき掛けてるぼくの姿が全国誌に載っちゃったんだぞ!」
「役得だね!」
「とばっちりだよ!」
以前、たすきを掛けて優希と一緒に出かけたとき、ぼくは週刊文冬の隠し撮り被害にあった。分かり易いたすきのおかげで優希のイメージは守られた(むしろ兄と仲良しということでイメージアップに繋がった)が、ぼくのほうは学校で笑われたりイジられたり、一切面識のない生徒から「お兄ちゃん」とか呼ばれたり、それはもう散々な目に。
当時の面倒臭さがよみがえる。
「あんなことはきっともう起こらないから大丈夫だよ。まあ起こったとしたらそのときはそのときの風が吹くって感じでさ。優希とデート、してくれるよね?」
微笑む優希。
笑顔のなかに、有無を言わさぬ圧がこもっている。
「……了解」ぼくはうなずいてみせる。「隠し撮りされないことを願うよ」
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