第25話 再三再四
深紅のネームカラーが、視界に焼き付く。
そこに立つのは、背に巨大な戦斧を担いだ巨躯――人の形をしてはいるが、その存在は明らかに人ならざるものだった。
黒ずんだ甲冑は古戦場の遺物のように重く、割れた兜の隙間から覗く双眸はにごった赤で光っている。
《ブラッディジェネラル》。
名などなくても、直感が伝える。目の前にいるのはただの強敵ではない。戦場そのものを宿した存在だ。
足が竦む。肺が凍る。背筋を伝う冷たい汗は、恐怖か緊張か判別がつかないまま流れ落ちる。
(勝てるのか?)という問いは、滑稽だ。勝てるはずがない。だが、システムは容赦なく表示していた。
【第二ミッション:強敵モンスターを討伐せよ】
声が震えた。「……ふざけるなよ」と、蓮は吐き出す。自分でもわかるほどに。だが声が出てしまうことで、逃げ場がますます薄くなる気がした。
ブラッディジェネラルがゆっくりと歩み出す。大地が小刻みに鳴り、彼の一歩ごとに空気が震える。呼吸が浅くなり、目眩が走る。逃げ場など、どこにもない。
握りしめた
(考えるな。動け。ここで立たなきゃ……死ぬ)
唇を噛み、無意識に刃先を地面へ突き立てた瞬間、戦斧が振り下ろされた。音ではなく圧力が襲い、砂埃が竜巻のように舞い上がる。
反射的に身を捻り、地面を転がる。立っていた場所は抉られて、赤黒い土が激しく舞った。
咳き込みながら口内の砂を吐き出す。
立ち上がると、再び戦斧が迫ってくる。
視線で追うことは難しい。音で察するしかない。
短剣で迎え撃とうとしたが、金属音が脳を刺すばかりで、押し返す力などない。
刃と刃が撞く音。
短剣は戦斧の重圧に弾かれ、蓮の体が空中へ放り出される。
背中が地面を擦り、石が肉を削った。肺が押し潰されるような衝撃。
息が出ない。
それでも立ち上がる。
ここで膝をつけば、終わりだ。
たとえ無理でも、立ち上がらなければならない。
再び、戦斧が振るわれる。
今度は正面から受け止めるように刃を向けてしまった。
甲冑に刃が弾かれ、衝撃が腕を痺れさせる。
体が吹き飛ばされ、ひざまずく。
「……効かないのかよ」――呟く声は自分に向けたものだった。
浅い切り込みが入るにすぎない。相手の硬さは想像の域を超えていた。
横薙ぎの衝撃波が襲い、蓮は石塊の間を転がり落ちる。骨が軋み、視界が歪む。
だが、意識はつながっている。ここで倒れては、眷族たちもろとも終わる。
踏ん張る以外の選択肢はない。
――ここで終わるわけにはいかない。
必死に膝をつき、息を整える。耳鳴りの向こうで、血の音が鼓膜を叩く。
目の前の巨体は、ただ歩み寄るだけで世界を変えてしまう威圧を放っていた。
それがじわじわと蓮の中の恐怖を増幅させる。
だが、蓮は目を逸らさなかった。
震える手で短剣を握り直し、ふたたび立ち上がる。
「……来いよ」
短い声だった。
震えた声でもあったが、目だけは必死に相手を追っていた。
雨のように敵が押し寄せてくる。
ナイトメアソルジャーが群れとなって襲い、数の暴力で囲い込む。
だが彼らの群れの奥には、ブラッドコマンダーの赤い名札が幾度となく見え隠れしていた。
ブラッディジェネラルの配下として動く、指揮者的存在だ。数は増え、増殖の速度はさらに上がっている。
《シルヴァ》が暗闇から飛び出し、獣のような速度で兵の頸を抉る。
《ガルド》は巨大な体躯で正面を押し潰し、棍棒を叩きつける。
だがいかんせん数は多く、どれだけ倒しても補充される。
蓮の体力とMPは限界へと近づいている。
眷族たちの耐久も著しく削られていった。胸の鼓動は耳元で鳴り、心拍が読めないほどに乱れている。
しかし、刃に反応が出始めたのを感じた。
影灯の刃先に、ほんの僅かな黒い燐のような光が差す。これまでも蓮は短剣の変化を何度か感じてきたが、今は確かな手応えとして伝わる。
刃が以前より深く入る瞬間が増えてきたのだ。
(成長しているのか……)と、無意識に呟く。
だが驚嘆する暇はなかった。ブラッディジェネラルの戦斧が再び襲いかかる。
影からシルヴァが跳び込み、牙を剥く。
ガルドが棍棒を振るい、二体が連携して攻め立てる。
だが相手は片手で攻撃を受け止め、わずかな体勢の崩れすら押し返してくる。
「シルヴァ、刃の隙を作れ。ガルド、正面を押さえろ」――蓮の命令は簡潔で、無駄がなかった。
眷族たちは言葉で答えはしないが、影のように動いて命令に従う。
衝突のたびに地が震え、砂煙が舞う。
赤黒い荒野の地表は幾度も抉られ、流れる血が薄い膜のように土を濡らす。
時間は刻々と進んでいる。六時間耐久戦の中盤、勝利の目は遠い。
巨斧が振り下ろされ、ガルドの肩が弾き飛ばされた。亀裂音が鳴り、巨体がよろめく。
視界の端に赤い警告が一つ、そして二つと表示される。
【眷族〈ガルド〉耐久限界まで残り18%】
胸が締め付けられる。
守る盾が崩れかけている。
だが蓮は立ち止まらない。膝をつきながらも、影灯を握りしめる指にさらに力を込めた。
「……まだ、終わらせない」
短剣が応えるように、刃面から濃い影が揺らめいた。黒い燐光が一瞬だけ、鋭く光る。
手応えがあった。僅かだが、確かな手応え。
その瞬間、荒野の彼方から耳に届く咆哮が変わった。低く、深く、空気を切り裂くような咆哮。
ブラッディジェネラルの存在感がさらに増幅する。
影と血と鉄の中で、蓮は短く息を吐いた。
傷だらけの体を引きずりながらも、視線を手元の《影灯》へと落とす。刃先が淡く揺らぎ、闇の光を帯びている。
「……負けるわけにはいかない」
シルヴァとガルドが低く唸り、赤黒い巨影を睨み据える。刹那、血空の荒野に轟く咆哮。
――次の瞬間、地獄の本番が幕を開けた。
膝が震えるのを、蓮は歯を食いしばって押さえ込んだ。
耳の奥で、血流の音がごうごうと唸っている。心臓は今にも胸を突き破りそうに暴れ、視界は汗と血で霞んでいた。
──まだ倒れない。
あの怪物は、まだ立っている。
ブラッディ・ジェネラルは、膝を突きながらも、まるで意志そのものが肉体を支えているかのように立ち上がってきた。
赤黒く染まった甲冑の胸部には、蓮の渾身の突きが穿った大きな穴が空いている。中でどす黒く蠢く血肉が見え、常人なら即死して然るべき致命傷。
だが、それでも巨躯は笑っていた。
「……人間、よ……この血戦の熱……久方ぶりだ」
濁った低音が、瓦礫と化したダンジョン空間を震わせる。
崩れた石柱が軋み、天井からは土砂がぱらぱらと降り注ぐ。
逃げ場はない。勝つか、死ぬか。それだけだ。
ブラッディ・ジェネラルが握り直したのは、戦斧。
幅広で、刃こぼれの無い禍々しい黒鉄の剣。先程の一撃で表面は血に濡れ、まるで生き物のように脈動している。
振るわれる度に、空気そのものが切り裂かれる轟音が響いた。
蓮は足を引きずりながら、床を蹴った。
肺は焼けるように痛く、息を吸う度に胸の奥が裂ける。
それでも、一歩。さらに一歩。
敵の正面に立ち続けなければ、仲間はいないのだから。
甲冑が軋む音と共に、巨体が突進してきた。
まるで壁がそのまま動いてくるような圧力。大剣が振り下ろされる軌跡は、風圧だけで蓮の頬を裂いた。
反射的に身を捻る。
直後、石床が叩き割られ、亀裂が走る。
「……ッ、ぐ、ぅあああ!」
咄嗟に足元の瓦礫を蹴り飛ばし、体勢を立て直す。
だが、距離を取る暇も与えず、巨刃が薙ぎ払われた。
蓮は短剣を交差させて受け止める。
甲高い金属音が響き、両腕に痺れるような衝撃が走った。
骨が粉々に砕ける錯覚。視界の端で、短剣の刃が僅かに欠けたのが見えた。
押し潰される──そう思った瞬間、蓮は自ら地面に転がり込むようにして受け流した。
刃が髪を掠め、耳元で床を切り裂く。
砕けた石片が飛び散り、頬に当たる。血の味が広がる。
だが、転がったその勢いを殺さず、蓮は短剣を逆手に握り直した。
低く潜り込み、鎧の継ぎ目を狙って刃を突き立てる。
──が、硬い。
刃は甲冑に浅く食い込んだだけで止まった。
巨体がねじれる。膝が、蓮の腹部を容赦なく蹴り飛ばす。
「っぐぅぅぅぅぅッ!!」
肺の中の空気が一気に吐き出され、身体が宙を舞う。
石壁に叩きつけられ、全身の骨が悲鳴を上げた。
呼吸が出来ない。喉が塞がり、口から泡のように血が零れる。
──まだ、立て。
頭の奥で、誰かが囁く。
自分の声なのか、それとも。
「立て……ッ」
蓮は壁に手をつき、ぐらつく足で無理矢理身体を起こした。
視界が滲み、耳鳴りが止まらない。
それでも、短剣を落とすことだけはしなかった。
ブラッディ・ジェネラルが、戦斧を肩に担ぎ直した。
その姿は、まるで戦場を支配する王そのものだった。
圧倒的な暴力の権化。
だが、蓮は知っている。
──ほんの僅かに、巨躯の動きが鈍くなっていることを。
傷口から溢れる血が、足元に溜まりつつあることを。
「……効いてるんだな」
声は震えていたが、確かな手応えがそこにはあった。
ただの人間でも、この怪物を削り倒せるのだと。
その確信が、限界を超えた身体にもう一歩を踏ませる。
刃と刃が再びぶつかり合う。
甲冑の裂け目から、腐った肉の匂いが立ち上った。
耳元で巨躯が嗤う。
「人間……愚かで、無謀で……だが、その牙は……確かに、我を穿つ」
蓮は歯を食いしばり、渾身の力で短剣を押し込んだ。
鎧の隙間に、わずかに刃が滑り込む感触。
その瞬間、全身の力を腕に集約し、ねじり込むように突き立てる。
「……おおおおおおッ!!」
鈍い音が響いた。
巨体がたまらず膝を折る。
赤黒い血が噴き出し、蓮の全身を濡らした。
勝機は、確かに掴んだ──そう思ったその刹那。
ぞわり、と。
空間そのものが歪むような気配が、背後から流れ込んできた。
天井の亀裂が広がり、耳鳴りが異常に強くなる。
何かが……呼んでいる?
声が聞こえた。
蓮にだけ届く、不可解で冷たい声。
『──この世界の歪みには、逆らえん』
背筋が凍り付いた。
誰だ? 何の声だ?
問いかける間もなく、視界が白く弾けた。
巨躯と、血と、崩壊する空間と。
全てが、遠ざかっていく。
ブラッディジェネラルが地に伏した瞬間、世界が一度だけ息を呑んだように静まった。鎧の継ぎ目から漏れる蒸気は、血のように鈍く光る。
蓮は膝をつき、掠れた呼吸を整えながらも、視界の端に絡みつく不穏な震えを感じ取っていた。勝利の安堵がまだ肺に満ちる前に、どこからともなく低い囁きが彼の脳裏を揺らした。
『……人の子よ。抗うな。世界の歪みには、誰も逆らえん……』
言葉は耳には届かなかった。だが確かに、身体の奥に刺さるような冷たさとして響いた。蓮は顔を上げ、荒野を見渡す。蒼く薄い煙がゆっくりと漂い、倒れた巨躯の影が揺れる。
そのとき、視界の中心に小さな窓がひとつ、無機質な光で浮かび上がった。
【報酬①:職業が解放されました】
下位職業:《影縛り》を獲得しました。
効果:影眷族の同時召喚数+2/眷族召喚時のMP消費軽減(小)/命令精度向上(初級)。
質素で乾いた文字列だった。蓮は一瞬首を傾げる。今の自分に直接的な“圧倒的強化”が付与されたわけではない。
だが、眷族の運用に対する補助が与えられたことは間違いなかった。疲労の中で、蓮は手の指先にわずかな温もりを感じた。
だが、その余韻は長くは続かなかった。次の通知が、まるで別の意思に引っ張られるように重なって表示される。
【条件達成】
【職業進化:発動】
世界の縫い目が薄く光り、影がひとつの方向に引き寄せられる。
蓮の背後、砂塵と血煙の混じる空間で、影が伸び、波紋のように広がった。
風が逆巻き、地面の黒土が小さく持ち上がる。そこに朱と黒の紋章がくっきりと浮かび上がり、やがて一つの名を形作った。
【上位職:君臨者〈ドミネーター〉 獲得】
文字が滲むようにして蓮の内側に落ち、そのまま身体の奥へと吸い込まれていく感覚があった。
声ではない。思考でもない。もっと直接的な“圧”として、彼の意識を押し広げた。
──君臨する、ということがどういうことか。
その意味が、いま、肉と血をもって理解されていく。
影が蓮の周囲を纏い、まるで古い王冠が彼の肩に置かれたかのように重く、しかし自然に感じられた。
影は命令の媒体となり、彼の意思が、そのまま世界の一部へと転写される。
効果は数値ではなく、感覚として迫った。
まず、視界の端に機能説明が走るように浮かんだ。
影を操る力が増幅される。
眷族の同時運用が可能になり、命名済みのボス眷族を複数同時に管理できる規模へと拡張される。
眷族への命令は、従来の言語や詠唱を介さず、思念の如く即時に伝播する。刻一刻と変化する戦況へ瞬時に命令を下し、複数の眷族に異なる指示を同時に適用できる。
命令の種類は概念化され、『殲滅』『影封』『攻城』のような高次指令が使用可能となる。これらは単なる攻撃命令を超え、戦術単位での行動を眷族へと落とし込む。
眷族からの継承判定における成功率と継承効果が飛躍的に高まる。ただし継承結果は依然として完全ではなく、運と条件が絡む。
影に格納した眷族の召喚コストは低減され、維持の負担が軽くなる。だが多量召喚は主人の精神と意志の消耗を招くため、安易な多用は危険である旨の注意が並ぶ。
蓮はその説明を、身体で丸ごと受け止めた。言葉以上に現れた変化が、体感として理解される。
影の中のシャドウウルフ、ブラッドオーガの気配が、以前よりも濃密に、そして従順に彼に寄り添うのを感じる。
——同時に、眷族たちの目が変わった。単なる従属の瞳ではない。命令を待ち、即座に動ける軍勢の諸眼。蓮が思えば、その意図はそのまま伝わる。命令を言葉にする必要は、ほとんど消えた。
しかし、その恩恵は安易な救済ではない。
蓮の胸には重い自覚が落ちる。
支配は力であり、支配は責任でもある。
影を伸ばせば伸ばすほど、彼の存在はその影に縛られ、世界に刻まれていく。
通知がさらに一つ、冷たく光った。
【報酬②:《深淵の楔》を獲得しました】
漆黒の楔は、手のひらに吸い込むように現れた。指に触れた瞬間、冷えが血管の奥まで走る。
表面に刻まれた紋様は、見た目以上の“意味”を帯び、深く潜む何かを呼び起こす。
鍵と書かれてはいるが、それは開くためのものでも、封じるためのものでもあるらしい。
どちらにも使えるのだろう。ただし、用途の重さは誰の目にも明らかだった。
蓮は楔の感触を確かめ、無言でそれを懐へと仕舞った。《深淵の楔》は、彼がこれから踏み込む領域の象徴であり、同時にその道標でもある。胸の奥に冷たい決意が沈む。
影は静かに、だが確実に蓮の内面を変えていた。力は増したが、その代償は見えぬところにある。彼はゆっくりと立ち上がる。膝の血と痛みは、レベルアップの癒しで僅かに和らいでいる。
風が荒野を吹き抜け、砂粒が蓮の頬を叩いた。時間が、再び動き始める音がした。
止まっていた振り子が、ぎこちなくも確実に振れだす。それは世界の歯車が、新たな一歩を踏み出す合図だった。
蓮は深く息を吸い、影を伴う自らの手を見つめる。影紋が指先から満ちていき、眷族たちへ流れ込む。【君臨者〈ドミネーター〉】としての一歩は、ここから本当の意味で始まるのだと、彼は悟った。
砂嵐の中、彼の背後で影がうねる。歩を進めるたびに、その影は増え、合図を待つ軍勢のごとく息づいた。
──止まっていた時間が、静かに、だが確実に動き出した。
第二章 偽りの英雄、真実の影
完
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