まどろみの向こうで
篠崎 時博
episode 1
新学期
まだ、夏の暑さが続いている九月の中旬。
新学期の始まりに気だるさを感じながら教室に向かう学生達。
夏休み前と変わらない景色。
この学校で変わったことがあったとするなら、一人の学生が戻って来なかったことだ。
*
流石に新学期早々、こんな時間に来る人はいないだろうと思っていたが、夏美が着いた時には既に二、三人の生徒が教室で談笑していた。
「おはよ!夏休み終わっちゃったね〜」
着いて早々、なじみのある声が後ろから聞こえた。友人の
気温上昇に伴ってか九月いえども昼前で三十度をゆうに超える。
明香はカバンから湿ったフェイスタオルを取り出すと首元の汗を拭った。長く明るい髪はくすんだ色のヘアクリップで留めている。拭った際に小粒のピアスがキラリと光るのが見えた。
「暑くて、本当嫌になっちゃうね」
「ほんと、ほんと。あっ、そういやあたし、昨日課題終わってなかったことに気付いてさ、死ぬ気でやってきたんだよね~」
「昨日!?え、うそ、やばいじゃん」
夏美も笑いながら返す。
あのことはあえて話題には出さなかった。
夏休み前と変わらない、たわいもないやりとりを続く。けれど、夏美の頭の隅にはずっとあのことが、あの日のことがちらついている。明香も同じなんだろうか。
「おーい、全体ホームルーム始めるぞー」
教室の8割ほどの席が埋まったところで、クラス担当の
夏美が通う大学では学部・学科によって人数のバラつきがある。特に1学年は専攻がないため、学科全体の人数が多くなりやすく、三十~四十人ほどで一つのクラスにまとめられる。
夏美の在籍している自然科学部環境生物科も他の学科に比べて人数が多いため、二クラスに分かれている。
授業前に何か諸連絡があるときは、一時的にだが、クラスごとに集まって話を聞くことになっている。それを「ホームルーム」と呼んでいる教師は多い。小野沢もその一人である。
小野沢の声にざわついていた教室が少し静かになった。
「よし、大体いるな」
小野沢は頷きながらあたりを見回した。
「夏休みはどうだった?有意義に過ごせたか?」
担任の問いかけに生徒たちはみなチラチラとまわりを見る。
例の事情を知っているのか、夏美たちのことを見る生徒もいる。
「バイトだったり、部活だったり、旅行だったり……、この夏でいい経験が出来たのなら何よりだ」
「後期では、新たな授業が始まると思うが――」と小野沢が言いかけたところで、あの、と斜め後ろから小さな声が聞こえた。
声の主のほうに目を向けると、玲奈とよく一緒にいた仲間の一人が手を弱々しく手を挙げていた。
「三橋さんは……」
教室がしん、と静まり返った。今度は小野沢に皆の視線が集まる。
小野沢は少し躊躇ったあと、声のトーンを落として言った。
「三橋は……」
彼の喉ぼとけが上下に動く。
「三橋は……、この夏休みの間に、亡くなった」
静かだった教室は、さらに静けさを増した。まるで物音ひとつたててはいけないくらいの、そんな静けさだった。
「ご家族からは事故、と聞いている……」
小野沢は、告別式は行わないことも加えて説明した。
夏美から見ても、小野沢の戸惑いが感じてとれた。
学校側も彼女の死をどう説明するか、そもそも生徒に説明をするかもきっと迷ったのだろう。
告別式を行わないということは、家族としてもあまり公にしたくなかったのかもしれない。
数人のすすり泣きが聞こえ始める中、小野沢は黙祷を指示した。
周囲に合わせて夏美もそっと目を閉じて祈る。
生徒が一人亡くなった。
数か月ではあったけれど、この教室で、そして同じ授業を受けた人が。同じ時間を一緒に過ごした人が。
コォォォォという、エアコンの音が教室中に響き渡る。
それが十秒くらい続いたのち、夏美はゆっくりと目を開けた。
「三橋のこと、実は先生も最近知ってな……。ここにいるみんなも、もしかしたら知ってる奴もいたとは思うが、戸惑って当然だと思う」
小野沢の目は赤くなっていた。
その後、彼は玲奈の死についてあれこれ詮索しないこと、辛くなることがあれば担任や校内のカウンセラーに相談するようにと全体に話して教室を去って行った。
教室の騒めきが戻らないうちに、新学期最初の授業が始まった。
なんとなく普段より静かなのは、小野沢の話でみんなが玲奈のことを思い出したのと、突然いなくなったクラスメイトに対して、どうしていいか分からない感情をそれぞれが抱えているせいかもしれない。
まだ聞こえる蝉の声と蒸しかえす暑さと複雑な思いが混じった、そんな新学期の始まりだった。
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