先輩のいう準備とは、着替えのことだったらしい。

 ついさっきまで着ていた部屋着のスウェットは、かっちりとしたスーツに変わっていた。細い銀のストライプが入った黒いワイシャツ。スラックスとベストは揃いのグレーで、菫青色のシルクのネクタイは、シンプルなピンで留められている。左手に嵌められた時計と先の尖った革靴が、先輩の放つ禁欲的な雰囲気を、更に冷たく強固なものに仕上げている。 


「わざわざ着替えて下さったんですか……」

「この衣装じゃないと気分が乗らないの」


 先輩はそう言ったが、今履いている焦茶の革靴は、普段はバイト先の事務所のロッカーに保管してあるもののはずだ。帰宅したときに手に提げていたもう一つの紙袋に入っていたのだろう。口では仕方ない風を装いながらも、先輩は最初から、私の望みに答えようとしてくれていたのだ。


 先輩はゆっくりと私の前を通り過ぎると、ソファに腰を下ろし、長い脚を優雅に組む。そうして私の方を見て、短く「おいで」と命じた。

 そのひと言で、空気が変わった。


 些細な仕草、声のトーン、視線、表情……全てに心が奪われ、目を離すことが出来ない。平素の優しく穏やかな青年は、もうそこには居なかった。今この時の先輩は、冷徹で残酷で、人の尊厳を蹂躙して嗤う、絶対的な支配者だった。


 私はふらふらと夢見心地で先輩の傍へ付くと、そうすることが当然であるかのように、彼の足元にぺたりと座り込んだ。従順な犬のように、顔を上げて、ご主人様の目をしっかりと見つめると、よしよしと頭を撫でられる。


 先輩が綺麗だと言ってくれた色に二年間染め直され続けた髪は、すっかり軋んでパサパサになってしまっていて、こんなことなら昨日ちゃんと手入れしておくんだった、と私は少し後悔した。


「どうしてほしいのか、もう一度ちゃんと言ってごらん」


 私は彼が命じた通りに乞う。

 貴方の印を。私が、今この時だけは貴方の所有物であったという証を、この身に刻んで欲しいと。


「俺の印、ねぇ……」


 緊張でもつれる舌を必死に動かして、精一杯の懇願をした私を、先輩は面白くなさそうに見下ろした。


 もしかして、間違えてしまっただろうか。先輩の好みは熟知しているつもりだったが、言葉選びに失敗してしまったかもしれない。

 それとも、やはり男にこんなことを言われるのは不快だっただろうか。と、恐れていた最悪のシナリオが、冷たい霧のように思考を鈍くしていく。


 さっきは勢いであんなことを言ったが、先輩はそもそも異性愛者だ。親しい後輩だから試してみたは良いものの、やはり生理的に受け付けない場合もあるだろう。生憎私は線が細いわけでも特別美形なわけでもなく、平凡な日本人男性の容姿だ。親愛だけで不快感を補えと言うのは無理がある。


 どうしよう。止めてほしくないけれど、嫌われるのはもっと嫌だ。何か言わなきゃ。言って、もう一度チャンスをって、いや、やっぱり取り消すから、こんな我が儘はもう二度と言わないから見捨てないでって、ちゃんと伝えなくちゃ。


「こら、ちゃんとこっち見て。俺が指示したこと以外考えちゃダメだよ」


 目の前に人差し指を立てられ、滲みかけた視界の焦点が合う。ゆっくりと引かれていく指に誘導されるように先輩と視線が絡み、このまま目を合わせておくようにと命令され、こくこくと頷いた。


 先輩が自分を見てくれている幸せに支配され、つい先程まで頭を占めていた冷たい霧は、すっかり隅の方へ追いやられていく。


「痕、どこにつけて欲しいの」


 恍惚に浸りすぎていたせいで、一瞬何の話か分からなかった。

 そうだ、わざわざ先輩を付き合わせてしまっているのだから、早く済まさなければいけない。先輩の九十分は、ただの後輩に贈る誕生日プレゼントにしては高価すぎるのだから。


「じゃあ、か」

「顔はダメだからね」


 私が言い終わらぬうちに、先輩はそう被せ、ついでにといった感じで頬を撫でられた。

 先輩の手は綺麗だ。節が目立たない長い指、がっしりとした骨と、血管が浮き出た手の甲。お客さんを傷つけないように短く切り揃えられた爪はやすりで整えられ、表面も艶が出るように磨かれている。


「背中とかもダメだよ。自分で手当てができるところにしな」


 ちょん、と突っつかれた背中がくすぐったい。


「見えるところが良いです」

「ふうん……じゃあ、腕は?左腕」

「手の甲じゃ駄目ですか?」

「だめ。失敗して小説書けなくなっちゃったら困るでしょ」


 そんなもの、ただの趣味なのだからちっとも困らないというのに。先輩は何故か私が小説家を目指しているのだと思っているらしく、時折原稿を読んでは感想を伝えたりしてくれた。続きは?と先輩に問われることが嬉しくて、少し気恥ずかしかった。


 けれどもう、先輩が卒業したらそのやり取りだって終わる。だから、要らないのに。

 そう思って先輩を見上げたが、瞬き一つで再考を拒まれた。これ以上粘って先輩の気が変わってしまうのも嫌だったので、私は大人しくセーターの袖を捲り上げた。


 腕をぐいと引かれ、腿の上に固定される。必然的に先輩の脚にぴたりと寄り添うことになり、私はドギマギしながら彼の膝に顎を乗せた。カリカリと耳の後ろを掻かれ、どうやら不快ではなかったらしいと安堵する。


「ほら、これ噛んで」


 そう言って口に突っ込まれたのは、さっき先輩が髪を乾かすのに使っていたタオルだった。鼻腔から肺の奥までシャンプーと先輩の匂いが浸食してきて、くらりと目眩がする。


 先輩は煙草に火を付けると、ゆっくりと細く紫煙を吐いた。二度、三度とくゆらせる唇を焦れったく思いながら見つめる。タオルを咥えていなかったら、きっと涎を垂らしていたことだろう。


 飢えた後輩の姿に目を細めると、先輩は指を絡めて手を握ってくれた。あぁ、腕にしておいてよかった。手の甲なんかにしていたら、この僥倖は得られなかっただろう。


 にぎにぎと手遊びされるのを妙に恥ずかしく思いながら待てを続けていたら、灰を皿に落とした先輩が、ようやく火を近づけ──真っ赤に焼けた先端が、肘の少し下あたりに押し当てられた。


「――――ッ!」


 あまりの痛みに喉が締まり、全く声が出ない。煙草を押し当てられている部分から神経を伝って腕全体に激痛が走り、身体が小刻みに痙攣する。


 痛みと熱に溺れそうになりながらも先輩の掌と膝に縋りついていたら、唐突に灼熱の波が引き、噛み締めていたタオルを引き抜かれた。


 全力疾走した後の様に呼吸が苦しい。口の中がカラカラに乾いて、こめかみに汗が流れる。心臓が脈を打つたびに、右腕がジクジクと痛む。涙と唾液とでどろどろになった私が無様に喘いでいる間、先輩はその長い指で、私の髪をゆっくりと梳かしていた。


 なんとか呼吸を整え、滲んだ視界のまま顔を上げると、先輩は温度のない瞳で私を見下ろしていた。咥えた煙草が少しも歪んでいないのを見て、ああ、手加減されたのだと悟る。

 それでも熱傷を受けた箇所は灰にまみれて赤黒く焦げており、この先一生もとの皮膚の状態に戻らないことは明白だった。


「これで満足?」


 先輩の問いかけに、私は必死で何度も頷いた。

 満ち足りているに決まってる。この痛みが鮮明であるうちに、死んでしまえたら良いのにと思えるほど。


「ふーん、そう」


 先輩の声色に不穏な空気が混ざった。

 どうしたのだろうと見上げた私の目に映ったのは、自分のワイシャツの左袖を捲り上げる先輩の姿だった。


「……せんぱい?」

「俺はまだ満足してない」


 止める間もなかった。先輩は露わになったその腕に、今度こそ煙草がひしゃげる程強く、火を押し当てた。


 押し殺された獣の唸り声が、牙を剥き出して笑う先輩の口元からこぼれる。こめかみに滲んだ汗が流れ落ちるのを呆然と見ていた私は、ようやく狂行を止めた先輩が「お揃いだね」という声で我に返った。


「……なんで、どうして、そんな」

「どうして?分からないの?」


 先輩は一際悪辣な笑みを浮かべると、私の前髪を鷲掴んで喉元を晒させ――


「こんな生ぬるいもんが俺の印だと思われるのが嫌だからだよ」


 ――無防備な喉笛へと、思い切り牙を突き立てた。




 ◆


 


 

 物語の最後の一文に句点を打った私は、上書き保存をクリックしてからノートパソコンを閉じ、この店のオリジナルブレンドだというコーヒーを啜った。半分ほど残っていたそれはすっかり冷めてしまっていて、思っていた以上に執筆に熱中していたことを知る。チョコレートとラズベリーのタルトもとっくに食べ終えてしまっていた。


 静かなジャズが流れる店内を見渡すと、澄まし顔の店員さんと目が合って、ちょっと気まずい気分でおかわりを注文した。


 サイフォンからコポコポと心地よい音がするのを聴きながら窓の外に視線を移す。真夏の色をした空の下、木陰を選ぶように道を行く人々が皆一様に腕を露出させた涼しげな格好をしているのを見て、私はカーディガンの上からそっと左腕の熱傷を撫でた。


 半年前のあの日、先輩が救ってくれたこの手で、私は今も小説を書いている。

 相変わらず、学業の合間に細々と書いてはネット上で公開するだけの趣味ではあったが、一人きりで自分と向き合い、どうにもならない感情や上手に生きられない苦しさを一つ一つ文字にして吐き出していると、少しだけ呼吸が楽になった。


 今思うと、先輩は小説が私にもたらす安息を見抜いていたのだろう。どうしようもない依存気質の後輩が、自分の付けた熱傷ごときでは生き延びられないと考えて、奪うのではなく、与えることを選んだのだ。自分以外のものに依存する自由と、痛みと、消えない傷と、それから……。


「ワンちゃんを飼っていらっしゃるんですか」


 おかわりのコーヒーを運んできてくれた店員さんが、私の首元を見て訊く。項に薄く残る歯形のことを言っているのは分かったが、先輩の犬歯が犬っぱく見えるらしいことに笑ってしまう。


「いえ、私が飼っているわけではないんです」


 むしろ私が飼われる方で。とは、もちろん言わなかったが、噛み傷の隣にある明らかに人為的な痣に気が付いたのだろう。犬好きの店員さんは、不可解なものを見た、という表情をしつつも何も言わずにカウンターの中へ戻っていった。


 暑いし、傷もそろそろ薄くなってきたから大丈夫だろうと襟ぐりの開いたシャツなんかで来てしまったが、油断し過ぎたようだ。せっかくケーキも美味しいのに、この店はしばらく来れないなぁ、と残念に思いながらカーディガンを深めに羽織り直す。


 服で隠れた皮膚の上には、歯形や痣以外にも沢山の傷が残っている。もちろん半年前のものではなく、このひと月以内に新しく付けてもらったものだ。


 あの雪の日、絶望一色で描いていた私と先輩の将来図は、今のところ全く別のシナリオで進行中だった。


 社会人になった先輩は、仕事や会社の付き合いをこなしながらも、時間を見つけては私に連絡してきてくれたし、無事に進級した私はモラトリアムの残り全てを先輩からの呼び出しに捧げている。

 私が卒業したらもう無茶な呼び出しには応じられなくなるだろうが、先輩が当たり前のように「その時は一緒に住めばいいじゃん」などと言い出すものだから、不安に思うのも馬鹿らしく思えてきたところだ。


 私と先輩は、いわゆるパートナーという関係性に収まっている。恋人でも夫婦でもなく、先輩の嗜好を満たす相手役という意味合いでの。


 何故そうなったのか、未だによく分からない。あの日、私は確かに先輩の優しさに甘えて身勝手な欲求を晒し、人生の幸運を全て使い切ったのではと思えるような僥倖を得た。この熱傷だけで残りの一生を生きていけるとさえ思っていたのに、気付けば私は、身体中傷だらけで先輩の腕の中に収まっていた。


「だって、お前があんまりにもいじらしいことを言うから」


 お前が悪いんだよ。と、血に酔った先輩が何度も何度も優しく諭すように繰り返していたから、きっと私がいけなかったのだろう。先輩の中の何かを、私が歪ませてしまったのだ。

 笑う先輩の唇は私の血で汚れていて、今までで一番美しく見えた。


 それからずっと、私は先輩のものだ。先輩に飽きられて捨てられるかも知れないという可能性でさえ、今や私の救いようのない被虐欲を満たす材料だった。

 だって、最初から自分のものでなければ、その所有権を放棄することなど出来ないのだから。


「ごめん、待たせたね。渋滞しててさ」


 遅れてやってきた先輩が、大人しく待っていた忠犬の頭をわしゃりと撫でてから向かいのソファに座る。思わずカウンターの方を見やるが、幸い店員さんは片付けに集中していた。


「ん?」

「いえ。何を頼みますか?ブレンドコーヒー美味しかったですよ」

「そう?じゃあ同じのにしようかな」


 私が差し出したメニュー表を眺めながら、頬杖をついて笑う先輩の左腕。真っ白いワイシャツの下には、私のものと同じ熱傷が残されている。

 他の傷が癒えようとも残るその傷は、私と先輩を繋ぐ見えない鎖であり、あの日からずっと深い雪の下に隠されている私たちだけの秘密だ。


 けれど、もしも。

 いや、いつか、と言うべきか。


 重い雪を溶かす春が来て、貴方が他の誰かの手を取り、二度と私を顧みない日が来るのなら。その時は、最後に一言だけ、私に命じてほしい。

 貴方は優しいから、――決して常識的だから、ではない――きっと私が自分の命を摘むことは許さないだろう。だからせめて、もう二度と貴方の前に姿を現さないよう、手酷く突き放して欲しい。


「あ、お前が好きそうなケーキがあるよ」

「……ふふ。待っている間にもう頂いちゃいましたよ」


 あの日の牡丹雪のように降り積もり続けている私の恋心が、いつか重みに耐えかねた貴方を、殺してしまわないように。




 

 

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雪の熱傷 篠矢弓人 @snyymt21

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