雪の熱傷

篠矢弓人


 先輩が誕生日プレゼントをくれると言うので、煙草の火を押し当てて欲しいと頼んだ。


 彼は切れ長の瞳を微かに瞠ったが、すぐに普段通りの品の良い微笑みを浮かべると、特に理由を聞くこともなく、「いいよ」と承諾してくれた。

 大学の食堂で話すには相応しくない話題であると気を遣ったのかも知れないし、はなから後輩の心情になど興味がなかったのかも知れない。


 ともかく、先輩と私は何事もなかったかのように昼食のきつねうどんを食べ終えると、学生達がひしめく食堂内を縫うように移動して食器を片付け、分厚いコートをしっかりと着込んで、一月の寒空の下へと脱出した。


 外は雪が降っていた。しっとりとした綿雪が、青灰の空からひっきりなしに落ちてくる。時折強く吹き付ける風が、長く伸びた私の前髪を乱した。

 それぞれの学部棟同士を結ぶ赤煉瓦の道は、すでに半分以上が雪に埋もれ、気怠い午後の講義に向かう学生達の足取りをますます鈍くしている。


 医療福祉学部棟の前で先輩と別れ、階段に足をかけたところで、彼は思い出したかのように私を呼んだ。

 振り向くと同時に何か黒いものを投げよこされて、咄嗟にキャッチする。見ると、それは本革のキーケースに収められた、先輩の家の鍵だった。


「俺今日バイトだから、家で待ってなよ」


 そう言ってひらりと手を振ると、先輩はゆるいパーマのかかった黒髪に雪飾りをたくさん纏わせながら、社会学部棟へと去って行った。

 どうやら先輩は、今日中に誕生日プレゼントをくれるおつもりらしい。


 先輩の家は、大学の最寄りから電車で二つ離れた駅の、歩いて5分ほどの距離にある賃貸マンションだ。途中のスーパーで食材を買い、迷うはずもなくマンションに辿り着くと、先ほど預かった鍵で中へ入った。


 おおよそ学生の一人暮らしには広すぎる1LDKの部屋の中は、白黒を基調とした内装も相まって、外と同じくらい寒い気がする。テーブルに置かれたリモコンで暖房をつけ、ついでにテレビのニュース番組もつけてから、私は夕食の仕込みに取り掛かった。仕込みと言っても、今日は鍋にすると決めていたので、出汁をとって具材を切っておくだけだ。


 私は夕方のニュースをBGMに包丁を動かしながら、どうして先輩にあんなことを言ってしまったんだろう、と今更ながら考えていた。


 先輩と私は、同じ大学の、同じサークルに所属する四年生と三年生だ。ときどき先輩の自宅に遊びに来てはこうして料理を作ったり、逆に先輩に外でご馳走してもらったりするくらいには親しくしているが、決して特別な関係にはない。ただ私が、先輩に対して一方的な恋愛感情を抱いているだけ。


 先輩に自分の想いを告げたことはなかったし、これから先も告げるつもりはなかった。聡い先輩は私の想いに気が付いているようだったが、彼が異性愛者であることは分かっていたので、この恋が実を結ぶことはないと、とうに諦めは付いている。

 だから私はせめて、先輩が卒業するその日まで、一番可愛い後輩でいようとした。卒業しても連絡を取り合ったり、一緒に飲みに行ったりする、仲の良い先輩後輩同士になれればそれで良いと思っていた。


 そう、思っていたのに……。


「っッ!」


 惨めな脳内片思い劇場に浸りすぎていたせいだろう、鋭い痛みで我に返ると、左手の人差し指から赤い血が滲み出していた。玉になった血液が食材に零れてしまわないようにと慌てて口に含めば、錆びた味が味蕾を刺す。

 早くも出血が止まりつつある切り傷をぼんやりと眺めながら、これじゃあ浅すぎるなぁ、なんて思った。こんなんじゃ数日で消えてしまう。


 ──私は先輩に、一生消えない傷をつけて欲しかった。


 乾いて瘡蓋になって、だんだんと新しい皮膚が再生して、そのうち最初から無かったかのように消えてしまうような浅い傷じゃ満たされない。もっともっと、皮膚の下まで侵食して、鮮やかに残るような傷を。その傷痕を見ただけで、先輩の姿を鮮明に思い描けるような、そんな傷が欲しかった。


 思い出や記念品なんかじゃ駄目だ。記憶は時間と共に薄れるし、物はいつか壊れる。壊れる前に、不注意で無くしてしまったり、人に盗られてしまったりするかも知れない。そんなの、想像しただけで耐えられない。


 けれど深い傷ならば、この身がある限り失うことはほぼあり得ない。欲を言えば、より先輩らしい傷が良い。切り傷でも刺し傷でもなく、彼が唇と指先で弄んだ後の煙草の火で、奴隷の烙印を押して欲しかった。


 それ自体は、かなり前から抱いている欲求だった。ただ、秘するつもりが漏らしてしまったのは、自分で思う以上に焦っていたせいだろう。先輩は四月から、銀行へ就職することが決まっている。彼が大学を去ってしまうまで、あとたったの二ヶ月──四年生は殆ど大学に来ないので、正味あと半月──しかないのだ。


 一通り夕食の準備を終えた私は、『雪は明日の明け方まで降り続きそうです』と告げる天気予報をぼんやりと眺めた。

 東京に雪が降るとからなずテレビに映るJRの某駅は、大学から近いこともあり、先輩との思い出の場所だ。学生向けの飲み屋街でサークルの打ち上げをしたり、二人だけでご飯に行ったこともあった。

 大人数だと酔えない先輩が、私と二人の時はぽやぽやと上機嫌に酒を煽っていたのを思い出す。そんな姿も、もうすぐ見られなくなる。


 私はテレビを消すと、リビングの一角にあるスライド式の本棚の前に立った。社会学や民俗学など、先輩が大学で使う教科書の類は全て左下の棚に纏められているが、私が用があるのはその他の棚の全てを占める、SM文学作品の群れだ。


 先輩はそれぞれの書籍を翻訳者別に何冊かずつ所持していて、その中の一冊を布教用に譲ってくれたりした──もちろん私はその一冊は保存用にし、読む用にもう一冊と電子書籍も購入した──のだが、これらの物語は『先輩の愛読書』という当初のお粗末な認識を恥ずかしく思わずにはいられない程、重要な気付きを私に齎す教科書となった。


 私は、先輩に隷属したかったのだ。

 先輩が似合うと言った系統の服ばかり買うようになったのも、先輩が綺麗だねと言ってくれた色に髪を染め続けたのも、先輩と同じ位置にピアスを開けたのも、先輩の好きな和食ばかり作るようになったのも、先輩が一言「おいで」と言えば深夜だろうと早朝だろうとバイクを走らせて駆けつけたのも……何もかも全て、私が先輩の物であると証明したいがための行動だったのだ。私は貴方が思い通りに扱える存在なのだと、全身全霊で示したかった。


 しかし、今回の私の行動は今までのそれとは少し異なっていた。煙草の火を押し付けてもらいたいのは、私の独り善がりな願望であり、先輩の欲や求めによらない、ある種の叛逆行為であるからだ。奴隷にしてもらうことすら叶わないのに、堪え性もなくおねだりをしているようでは、いよいよ所有してもらえる見込みがない。


 物語の中に息づく先輩の理想の彼女達と、慎ましく従順でいることすら満足に出来ない自分との落差に、もう何度目か分からない絶望を覚えながら、本棚を前にしたローテーブルの上で、持ち込んだノートパソコンを開いた。


 スリープモードが解けた画面には、書きかけの小説が表示されている。先輩への倒錯した恋情や、救いようのない被虐嗜好を、別の名前と人格を持つ器に押し込めて創り上げた物語。どれだけ書き進めようと離別か破滅しか写し出さないストーリーは、絶望の色が濃くなればなるほど、現実の私にとっては救いのシナリオになった。


 単純に、心の中で絡まった感情を文字にして解すことが精神安定に繋がっていた面もあるが、いつ来るかも知れない本当の別れに対する備えの意味合いが一番強かったのだ。思いつく限り最悪の未来図をキーボードに向かって叩きつけていれば、先輩と私との関係にこんな劇的な変化が起きるはずがない、路傍の残雪がいつの間にか消えて無くなっているように、穏やかな消退を迎えるのだろう。と、心の余裕を取り戻すことが出来た。


 しかし、今日の私の失言はその穏やかな結末を粉々に打ち砕いてしまった。起こるはずのなかった劇的な変化を、自らの手で引き起こしてしまったのだ。


 言葉が一文字も浮かんでこない。先輩の部屋、本棚の前、普段なら悪夢だろうが地獄だろうが次々と湧き出てくるお気に入りの場所なのに何も紡ぎ出すことが出来ないのは、今まで物語として産み落としてきた絶望が、足音を立てて現実の私に迫って来ているのを感じるからだ。


 ついさっきまで夕食のことを考える余裕があったのに、じっとしていると加速度的に焦燥感が強くなる。不安が最高潮に達する直前、鍵を開けておいた玄関から物音がして、雪まみれの先輩が部屋に帰ってきた。


「ただいま〜」

「……お疲れ様です。早かったですね」


 危ない危ない。うっかり「お帰りなさい」と言ってしまうところだった。

 それぐらい一気に気が抜けた。先輩があまりにも普段通りで、大学での失態が白昼夢だったのではないかと思うほどだ。

 先輩のゆるい雰囲気に引きずられるように通常の自分を取り戻した私は、たぶんこのまま風呂に直行だろうなと思いながらタオルを手渡し、チェスターコートを受け取った。


「ニ件目の子が体調不良でキャンセルになっちゃってさぁ」


 日給が減った割には嬉しそうな様子の先輩の手には、昼までには無かった白い箱やら袋やらが提げられている。たぶん、今日のお客さんからの貢ぎ物だろう。


 先輩のバイトは、女性向けSMクラブのご主人様キャストだ。九十分二万数千円で女の子を縛ったり、鞭で引っ叩いたり、革靴で踏みつけたりして、被虐の欲を満たしてあげるお仕事。それなりに売れっ子らしく、年齢にそぐわないこの部屋の賃料も、高額なバイト収入から賄われているらしい。

 お客さんから貰ったものに触れるのはなんとなく嫌だなぁ、と思っていたら、先輩の方から白い箱をずいと押し付けてきた。


「はいこれ、お土産」

「え?」


 嫉妬心が抜け去った曇りのない眼で箱を見ると、それは確かに駅前のケーキ屋の箱だった。箱の一部に透明のフィルムが貼られており、大きなラズベリーが乗った、可愛らしいピンク色のケーキが見えている。


「前に甘酸っぱいベリー系のお菓子が好きって言ってたから、フランボワーズのムース。どう?チョイス合ってた?」

「は、……い。これ好きです。ありがとうございます」


 先輩は「やった!当たり」と得意げに笑うと、ケーキを私に託して風呂場へ向かって行った。すれ違いざま、ふわりと女物の香水の匂いがしたが、そんなものが気にならないくらい、私の気分は高揚していた。


 白い箱を目の高さに掲げて、ツヤツヤと輝くケーキを見つめる。ベリー系のお菓子が好きだなんて、自分でもいつ言ったのか覚えていないくらい、何気ない会話の、取り留めもない一言だったはずだ。それを先輩が覚えていてくれた。気にしていてくれた。


 うれしい。すごく、すごく嬉しい。


 つい先程まで陰鬱な妄想に耽溺していたのが嘘だったかのように、身体いっぱいに優しくて幸せな気持ちが満ちていく。あの人から齎される感情の極端な振れ幅は、私が先輩に恋をしている何よりの証左だった。

 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る