嘘つきな僕らは、ほんとの恋を始めます
はるさき
プロローグは突然に
私の人生は、いわば
衣川さくら、二十歳。都内の私立大学に通う、ごく普通の文学部二年生。黒髪を肩で切り揃え、流行りの服より動きやすいデニムとTシャツを好む。講義は一番前の席でノートを取り、空きコマは図書館の片隅で過ごすのがお決まりのコース。そんな私にとって、大学という場所は学び舎であって決して人生のステージではなかった。
だから、彼、一条蓮(いちじょうれん)のような人間は、私とは違う物語の住人だと思っていた。
彼が経営学部の二年生であること。学内で発行されているフリーペーパーの代表を務めていること。彼の父親が有名なアパレル企業の社長であること。そして、彼が誰の目にも眩しく映るほどの美貌と、人を惹きつけてやまないカリスマ性の持ち主であること。そんな情報は、望まなくても自然と耳に入ってきた。彼はこの大学の、いわば王子様だった。
太陽の光を反射してきらめく明るい髪も、どんな服でも着こなしてしまう長い手足も、ふとした瞬間に向けられる人懐こい笑顔も、すべてが私という物語からは程遠い、ファンタジーの世界の装飾品のように見えていた。彼が友人に囲まれてキャンパスを歩いていると、そこだけスポットライトが当たっているかのように錯覚するほどだ。
もちろん、そんな彼と言葉を交わしたことなど一度もない。同じ講義をいくつか選択しているから、その横顔を遠くから盗み見たことはあるけれど、それだけ。目が合うことすら、きっとこの先ないだろう。それでよかった。スクリーンの中の俳優に憧れるように、遠くからその輝きを眺めているだけで、十分満たされていた。住む世界が違うのだから、交わる必要も、理由もない。
そう、信じていた。あの日の、あの瞬間までは。
その日、私は少しだけ憂鬱だった。来週に提出期限が迫ったレポートの参考文献が、どうにも見つからなかったからだ。普段なら真っ直ぐ帰宅するか、図書館に籠もるところだけれど、気分転換も兼ねて、いつもは利用しないキャンパスの西側にあるカフェテリアに足を向けた。ガラス張りで、テラス席まであるお洒落なその場所は、一条蓮のような「一軍」学生たちのテリトリー。私のような日陰の住人が立ち入るには、少しばかりの勇気が必要だった。
深呼吸を一つして、自動ドアをくぐる。コーヒーの香ばしい匂いと、学生たちの楽しげな喧騒が私を迎えた。空いている席を探して視線を巡らせた、その時だった。
見つけてしまった。
窓際の一番眺めの良いソファ席。そこに座る、一条蓮の姿を。彼の向かいには、これまた学内で有名な、モデルとしても活動している高坂華(たかさかはな)が座っていた。華やかなオーラを放つ二人は、まるでファッション誌の1ページを切り取ったかのように完璧な絵になっていて、私は思わず足を止め、その光景に見入ってしまった。
高坂華は、一条蓮の元カノだ。確か、春先に別れたという噂が流れていたはず。けれど、今こうして見ると、二人の間にはまだ何か特別な空気が流れているように見えた。華が身を乗り出すようにして何かを熱心に語り、蓮は少し困ったように笑いながら、それに耳を傾けている。
(やっぱり、お似合いだな)
胸の奥が、ちくりと小さく痛んだ。それは嫉妬と呼ぶにはあまりに些細で、憧れと呼ぶには少しだけ苦い、名前のない感情だった。私には関係のないことだ。そう自分に言い聞かせ、彼らに背を向けてカウンターへ向かう。注文したアイスコーヒーを受け取り、できるだけ二人から遠い、隅のカウンター席に腰を下ろした。
ここなら、彼らの会話も聞こえないだろう。私は持参した文庫本を開き、無理やり意識を活字の海へと沈めようと試みた。しかし、一度気になってしまったものは、そう簡単には頭から追い出せない。視線は本の上を滑り、耳は背後のざわめきの中から、特定の声を探してしまう。
しばらくすると、カフェテリアの空気が少しずつ変わっていくのを感じた。それまでBGMのように流れていた学生たちの話し声のボリュームが、わずかに下がる。何事かと顔を上げると、いくつかの視線が、窓際のソファ席へと注がれていた。
私も、つられるようにそちらへ目を向けた。
高坂華が、立ち上がっていた。その完璧に作り上げられた美しい顔は、怒りとも悲しみともつかない複雑な感情で歪んでいる。
「……どうして信じてくれないの? 私がどれだけ蓮のこと、まだ……」
か細い、けれどよく通る声が、静まりかけた店内に響く。一条蓮は、「華、声が大きい」と周囲を気にするように彼女をなだめようとしているが、感情的になった彼女には届いていないようだった。
「新しい彼女ができたなんて、どうせ嘘でしょ! 私を諦めさせるための口実に決まってる!」
「嘘じゃない」
「じゃあ、どこの誰よ! 言えないってことは、やっぱり嘘なんじゃない!」
まずい。これは、とんでもない修羅場だ。周囲の学生たちは、興味と野次馬根性を隠そうともせず、スマートフォンに手を伸ばす者までいる。私は咄嗟に顔を伏せ、本を盾にするようにして顔を隠した。早くこの嵐が過ぎ去ってくれ、と祈るような気持ちだった。私の平穏な日常に、他人の痴話喧嘩なんていう劇薬は必要ない。
「華、頼むから、場所を考えろ」
蓮の静かな声には、焦りの色が滲んでいた。いつも余裕に満ち溢れた彼が見せる、初めての表情だった。高坂華は、そんな彼の様子にさらに苛立ったのか、テーブルを叩かんばかりの勢いで身を乗り出した。
「嫌よ! ここでハッキリさせて! 私じゃ不満だったってこと!? 私よりいい女がいるっていうなら、今すぐここに連れてきなさいよ!」
金切り声に近い叫びが、私の鼓膜を突き刺す。もう限界だった。ここにいてはダメだ。私は残っていたコーヒーを鞄にしまい、できるだけ物音を立てないように席を立った。出口は、不幸にも彼らの席のすぐそばを通らなければならない。息を殺し、壁際の観葉植物にでもなったつもりで、そっとその場を通り過ぎようとした。あと数歩。あと数歩で、この非日常から抜け出せる。
その時だった。
「……分かったよ」
諦めたような、それでいて何かを決意したような一条蓮の声が、すぐ背後で聞こえた。そして、追い詰められた彼の視線が、偶然にも、その場を通りかかろうとしていた私を捉えた。
ばちり、と音がしそうなほど、まっすぐに目が合った。
彼の瞳は、私が今まで遠くから見てきたどんな表情とも違っていた。焦燥、懇願、そして、ほんの少しの悪戯っぽさ。その瞳に吸い込まれるように、私の足は床に縫い付けられたように動かなくなった。
次の瞬間、彼は華の手を振りほどくと、迷いのない足取りで私の方へ歩み寄ってきた。二、三歩で私との距離をゼロにした彼は、私が反応するよりも早く、私の右手首を、ぐっと掴んだ。
「え……?」
驚きのあまり、声にもならない音が漏れる。目の前には、雑誌で見るよりもずっと整った、一条蓮の顔があった。陽の光を浴びて輝く髪。長い睫毛に縁取られた、少しだけ色素の薄い瞳。鼻をくすぐる、爽やかなシトラス系の香水の匂い。私の心臓が、ありえないくらい大きな音を立てて跳ねた。
何が、起きているの?
混乱する私の思考を置き去りにして、彼は掴んだ私の手を軽く引き、呆然と立ち尽くす高坂華の方へと体を向けた。そして、周囲のすべての人間に聞こえるように、はっきりと、こう宣言したのだ。
「言っただろ。俺の新しい彼女は、こいつだから」
——しん、と。
カフェテリアの空気が、一瞬にして凍りついた。すべてのざわめきが止まり、すべての視線が、私と、私の手首を掴む一条蓮の二人に突き刺さる。高坂華が、信じられないものを見るような目で、私を上から下まで値踏みするように見つめている。
掴まれた右手首が、燃えるように熱い。彼の指の力強さが、彼の体温が、じわりと私の皮膚に侵食してくる。
プロローグは、いつも突然に始まる。
——けれど、こんな始まり方は、あんまりじゃないだろうか。
私の平穏な物語のページは、今、間違いなく、王子様を名乗る乱暴な手によって、ぐしゃりと乱暴にめくられたのだった。
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