僕と反省文。

 放課後の教室には弛緩した空気が漂う。部活や委員会で忙しい子も多いけど、特に目的もなく居残って友達と駄弁っている子もいた。今朝は慌ただしかったから、この平和が愛おしい。

 僕は南蛇井と北村の所属するクラスへと足を運んでいた。目的は反省文の提出だ。

 まったく、反省文の再提出はいつまで続くのだろう。再々々々……と繰り返しているうちに指折り数えるのが面倒になって諦める。両手の指じゃ足りなくて、足の指にも意識が伸びた。

 僕達が積み重ねた反省文だけで、月にも届きそうだよ。

「しっかし、よくやるぜ」

「潟桐のこと?」

「あいつも大概だけど。波久礼のことだよ」

「僕ぅ?」

「やっぱ分かってねーのか。生徒会になったくせに先公に歯向かうなんてさ」

「……生徒会は、生徒の規範になる存在だものね」

「それは確かにそうだけど、傀儡じゃつまんないでしょ」

 僕の返答に南蛇井は首を傾げたけど、北村は小さく頷いた。

 生徒会に所属するのは先生に従順な生徒と相場が決っている。

 僕もそう思っていたけど、最近は意識も変わりつつあった。

 生徒会は学校に楯突くための組織だと思い始めたのだ。もっとも、喧嘩をするってわけじゃない。生徒達の不満を吸い上げ、改善案として上手に学校側へ提出することが役割だ。

 教師と生徒が正面から意見をぶつけあっても、議論は平行線を辿る。教師の能力を超えた要望を出したところで対応は不可能だし、公立と私立で規模の違いはあっても年間の予算は決まっている。アレも欲しい、コレを変えたいとさえずるだけでは意味がないのだ。

「と言うわけで、僕は東風谷先輩とは違う形の規範になります」

 別名、悪い見本とも言う。

 ふたりは僕の考えていることを見通して、呆れたような顔をしている。

「面倒なこと考えてんのな、波久礼は」

「だって、そうでもしないと……って、なんで撫でるのさ」

「んー? 特に意味はねぇけど」

 わしわしと南蛇井に頭を撫でられてしまった。

 唇を尖らせた僕の耳に、くすくすと笑う声が聞こえた。振り返れば南蛇井のクラスメイトが慌てて口元を覆う。隣にいた子が注意をするみたいに肘で小突くけど、その子も口元に笑みを浮かべていた。

「そういや昨日、体育の清水先生が――」

「――」

「――あたしは言ってやったの、球技ってのは――」

 南蛇井が喋って北村が相槌を打つ。

 話に混ざりたいのに、僕は聞く耳を持てなかった。

 名前も知らない同級生が僕のことを笑った。それだけのことで友人との会話に集中できないほど心を乱されている。やっぱり僕は変な奴だろうか、と小学生時代の様々な過去が脳裏を過った。同級生にとっては些細な言葉の数々が僕の心に巣食う怪物を生み出している。それとも理不尽な環境という建前を得た怪物が、不満を糧に成長したのか。

 揺らめく悪意の炎は、焼き尽くす相手を求めている。

 南蛇井達と喋っている最中なのに、視線は僕を笑った女の子達に向けられていた。

 無邪気な彼女達には、僕はどう見えているのだろう。複雑に絡む感情を整理できないまま、同級生の目を正面に捉えた。柔らかく相好を崩した少女をみて、僕は喉を詰まらせる。なんだか思っていたのとは違う反応だ。喧嘩腰で掛け合うつもりが、肩透かしを食らってしまった。

「波久礼さ~ん」

「えっ……? は、はい」

「こんにちは~」

 間延びした挨拶のせいか、心の底で燃えていたはずの炎が一瞬にして火力を落とす。

 睨み合うために身構えていたのに無防備な笑みを向けられて、豆鉄砲を食らった鳩よりも素っ頓狂な顔をしていることだろう。悪意の炎も鎮火寸前だ。

 どうする、どうすればいい?

「ど、ども」

 ゆっくりと腕組みを解いて、左手を少し持ち上げた。ぷるぷると震えているのを誤魔化すように手を振り返す。挨拶をしてくれた子は、相変わらずの柔らかい笑みを浮かべていた。悪口を言われているのではと緊張していた心が、そんなことなかったねと安心で緩む。

 へらっ、と力なく笑ってしまった。

 僕が頬を緩めると同時に黄色い歓声が飛ぶ。

「かっわい~」

「ね? やっぱ、あの子可愛いでしょ」

「うん。笑うと超いいね」

 最後にもう一度、彼女は手を振ってくれた。その横にいた友人達もだ。

 挨拶をしただけで、特に会話を弾ませることもなく女の子達は雑談に戻っていく。

「……なんか、この学校はイイ子ばっかりだね」

 僕って本当に可愛いのだろうか。そんな想像をして耳元まで熱くなってしまった。

 最近は褒められてばかりで不安になる。僕は何もしていないのに周囲の人が勝手にいいとこ探しをしてくれる。人付き合いが苦手な僕は、お世辞と本音の境目も曖昧だった。緩むことなく気を引き締めていよう、と深呼吸を繰り返す。まずは上がった体温を下げよう。

「最近、可愛いって褒められるんだ」

「……私達も言ってたけど」

「だよな? 今更恥ずかしがることもねぇじゃん」

「それはそうだけど。恋は盲目って言うじゃない」

「チョーシに乗んな。余所見は許すけど、浮気はダメだかんな」

 べちっ、と南蛇井に叩かれた。

 なんだろう、ひばりを思い出すな。私と喋っているのに他の子の話をしないで! とか、僕の幼馴染なら言い出しそうな場面ではある。乙女心って難しいなぁ、僕も乙女だけど。

 ところ変われば、とはよく言ったものだ。

 僕に好意的な視線を向けるのは元カノ達だけではなかったらしい。誰もが僕を愛してくれるわけじゃない、それは重々承知している。潟桐みたいに敵対して関係性の修復が難しい相手もいるけれど、僕はフラットな関係の相手にも失礼な態度を取っていたんじゃないだろうか。

 色々と恥ずかしくて、心なしか頬も熱くなってきた。

 シャツの袖を引っ張って顔を隠すように覆うと、北村が唇を尖らせた。

「……萌え袖禁止」

「いや、だって落ち着かないし」

「照れてんのか? この色ボケがよ」

「南蛇井のツッコミ、厳しすぎない?」

 というか、とっとと生徒指導室への用事を済ませないと。

 クリアファイルに挟んで四隅が折れないようにした反省文を取り出すと、南蛇井は驚いたように目を丸めた。北村は相変わらずの無表情だ。話を逸らそうとしたのがバレているらしい。

 目論見に気付かない南蛇井に話しかけて、どうにか話の流れを変えよう。

「どうよ、これ。頭いいでしょ」

「折り目がついてる! とか怒られたもんな。今回はやる気あるじゃん」

「でしょー。中身は前回出したやつと一緒だけどね」

「ははっ。サイコーだな。あたしも一言一句変えてねぇよ」

 誤字なし、脱字なし、誠意なし。

 これぞ完璧な反省文である。無論、冗談だ。

 まずは教室を出ることに成功した。去り際に挨拶をくれた子が「また来てね」と笑っていたのでお辞儀を返したのだが、南蛇井も北村も不満そうだ。あのシャイガールだった僕が挨拶を返したんだぞ、成長だと褒めてくれてもいいじゃないか。

 誰もいない廊下を突き進もうとしたところで、南蛇井に腕を掴まれた。

 あ、逃げようとしたのがバレたかな。

「知ってたか? 潟桐の行動パターンが変わってきてるんだぜ」

「え? そうなの。初耳なんだけど」

「……生徒指導室に張り込む時間が延びているんだって」

「えぇ? 潟桐はなんでそんなことを……」

「そりゃ勿論、あたし達のせいだろ」

 ふたり曰く、僕達を真似て朝に反省文を提出する生徒の数が増えているらしい。生徒の反省が足りないと考えた生徒指導の潟桐が、朝早くから生徒指導室の扉で張り込みをしているとの噂だった。ここ数日、僕が出会わなかったのは偶然のようだ。

 代わりに、放課後は警備――じゃなくて、指導が手薄になっているらしい。

 今は放課後。エンカウント率も低めの時間帯ってわけだ。

「……ただの噂話じゃないよ。……本当に朝から生徒指導室にいるもの」

「へー。どうして北村が知っているの?」

「……休んだ日の宿題、職員室に出しに行ったの。……その時、知った」

「な? 情報源として、すげー信頼できるだろ」

 南蛇井の言葉に頷く。信頼する友人からの情報ほど心強いものはない。

 南蛇井と一緒になって北村をやんやと褒めたら、北村は口元を隠した。多分、照れている。

「もし指導室にアイツがいたら帰ろうぜ」

「だね。わざわざ喧嘩する必要もないし」

「……期限は大丈夫なの?」

「ううん。今日が締め切りだけど、どうとでもなるよ」

 ならんでしょ、と北村が言外にツッコミを入れてくる。目を見れば分かるぞ。

 階段を降りて渡り廊下へ向かう。途中、南蛇井が知らない顔に声を掛けられていた。体験入部したバド部の先輩らしい。南蛇井を勧誘しにきたようだが、すげなく断られていた。南蛇井はやたらと運動神経がいいから、スポーツに打ち込めばいい成績を収められるだろう。彼女にその気があればの話だが。

 肩を落として帰っていくバド部の先輩が、ちょっとだけ可哀そうだ。

 でも、向かう先が違う人をパートナーに選ぶのはオススメしない。破綻すると分かっていて関係を結ぶなんて不誠実なこと、しちゃいけないからね。……僕にも刺さるな、この台詞。

「しっかしよー、生徒をいびるために朝早く出てきてますとか、バレたら免職じゃね?」

「……難しいと思うよ。……社会には均衡バランスがあるから」

「バランスぅ? んなもん気にしてどうするよ」

「……南蛇井君は、自己救済肯定しそうだね」

 真面目な北村が、不適切な生徒指導による教員の免職事例をいくつか教えてくれた。だが、専門的な用語が多くて僕達には馬の耳に念仏を聞かせているようなものだ。要点だけ訳すと、どんな悪い教師でも追い込むには相応の証拠と時間が必要という話だった。生徒に嫌われている先生も、それだけを理由に職を失うことはないのだ。

 ヤンチャした生徒の退学事例も教えてもらった。犯罪に手を染めるような悪童の話を聞くと僕達はなんていい子ちゃんなんだろうと思ってしまう。ま、錯覚か。

「……ところで、ふたりとも」

「ん? どうかしたの?」

「北村が緊張してちゃ世話ないぜ。怖いなら玄関で待ってたら?」

「……そうじゃないんだけど」

「ぬわっ、ごめんて。怒らないでくれよ」

 無表情な北村に距離を詰められて、南蛇井が僕の背へと隠れた。

「……反省文、適当に書いたんでしょう? ……また怒られるんじゃないの」

「あー、そっちの心配ね。大丈夫だって、気にすんなよ!」

 豪快に笑う南蛇井が、胸ポケットから原稿用紙を取り出した。くしゃくしゃに折れ曲がった原稿用紙は手で伸ばした程度では戻せないほどに癖がついている。こうなってしまっては問答無用で返却の対象だ。

 だが、それでも提出する。

「相手は嫌がらせが目的なんだ。真面目に付き合う必要もないよ」

「そーいうこと。あたしらに文句言う前に、まずやるべきことがあるだろってな」

「態度を改めてからだよね。僕らは犬じゃないんだから」

「……そっか。……ふぅ」

 北村は随分と複雑な顔で溜め息を吐いた。いや、いつもの無表情なんだけどね。

 そもそも、僕達が反省文を出せと言われたのは生徒指導に問題がある。南蛇井が生まれ持った髪色を理由に難癖をつけられ、それは偏見ですと指摘したら怒鳴られた。つまり、僕達がオトナに対して反抗的な態度を取ったことが原因だ。一方的にヒートアップした潟桐は僕らの心を折るまで止まれないのだろう。

 内容の精査もせず返ってくる反省文には、毎回のように小言が付いてくる。僕達は慣れたものだが、初めて洗礼を受ける生徒は不快感に圧し潰されてしまうかもしれないな。

 誠実な少年少女の心を折るには、理不尽な暴力が最も手っ取り早い。暴力とは拳や脚による肉体へのダメージのみを指す言葉じゃない。言葉、環境を操作して、精神に傷を負わせる行為も含まれている。想像するだけで不快だが、僕も暴力以外の対抗手段が思い浮かばないので黙っていた。

 あぁ、今日も僕の知らない場所で誰かが頬を濡らしている。

「まぁでも、怒られるのは間違いないんだろうなぁ」

「んだよ、波久礼。今更の話だろ。文句なんて聞き慣れてんじゃん」

「それもそっか。僕達、不良生徒だもんね」

「あたしは不良じゃないっての。学校をサボるのだって波久礼だけだろうが」

 握った拳で僕を小突く南蛇井は、過去の不遇を愚痴に滲ませる。

 授業態度も真面目、他人への対応も誠実だった南蛇井だが、多くの同級生と不仲だった。原因は彼女の性格にあると思っている。素直になれない南蛇井は、そのせいで損ばかりしているような気がした。

 ホントにいい子なんだけどな。

 渡り廊下を抜け、職員室がある棟へと辿り着いた。

 くしゃくしゃに丸めた反省文を胸ポケットにしまい直して、南蛇井が階段を降りていく。

 続こうとした僕達へと彼女が振り返った。

「思い出した! 昨日、駅南の広場にキッチンカーが来てたんだよ。今日もいるはずだから、一緒に行かないか。凛琳も誘って、高校生組でデートしようぜ」

「おっ、いいね。何が売ってたの」

「知らねー。そこも含めて観に行こうぜって話」

「ちょっと、そのくらい調べといてよ」

「……ふっ」

 北村が笑った。

 ばっと振り向いた僕を押しのけて、南蛇井が降りていた階段を駆け上がってくる。

「北村ァ! 顔見せろ!」

「……どうして」

「いや、そりゃ、まぁ、アレだ。超レア差分が見たくてな」

「……ゲーマーだね?」

 北村が首を傾げる。いつもの無表情で。

 彼女は笑ったはずだ。少なくとも、笑い声を零した。僕と南蛇井は互いに顔を見合わせて、無表情で有名な友人の顔を覗き込んだ。爬虫類を想起する無表情で冷淡な瞳が、僕達を不思議そうに見つめ返してくる。鼻先が触れそうなほどに近付いてみたら、流石の北村も眉を寄せて顔を背けた。ごく僅かながら、頬が赤くなっているような。

「……はやく行こ。……急がないと、先生と鉢合わせるよ」

「え? 今の笑顔の理由が聞きたいんだけど」

「……別に。……笑ってないし」

 うーん、これはこれでレア差分を見つけた感じだな。

 北村は照れている。間違いない。

 ちょっとずつ幸せになっていく毎日を過ごして、僕は頬を緩ませる。

 気も緩んでいたんだなぁ、と後になってから思った。

***

 生徒指導室での顛末を説明すれば長くなる。

 結末だけ述べておこう。

 僕はこの日、暴力行為によって、二週間の停学処分を受けた。

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