先輩と案内。 -2

 東風谷先輩と並んで歩く。

 家庭科で使う被服室の前を通ると、入口の扉が開いていた。好奇心に駆られた猫みたいにひょいと覗き込んでみるも人影はない。教卓にはいくつかの衣装が乱雑に放置されている。

 東風谷先輩が小さく溜め息を吐いた。

「あらら、残念だね。裁縫部が閉め忘れたのかな」

「いいんじゃないですか、それくらいのこと……」

「ダメだよ。何かあってからじゃ遅いからね」

 東風谷先輩と一緒に、僕も被服室へ足を踏み入れた。

 他に生徒がいる様子もない。針やハサミなどの刃物が閉まってある棚はちゃんと施錠してあって、先輩はほっと肩を撫で下ろした。危険物の取扱いについては色々な内規があるらしく、適当なことをやっている部活には活動停止命令が出るらしい。大変なことも多いだろうが、どこに危険なヤツがいるか分からない。自衛のためにも必要なことは多いのだ。

 被服室を出る時、大きな姿見に目が留まった。

 鏡には制服姿の僕が映っている。

 ヒラヒラと揺らめくスカートは春風に抱かれているようだ。

 中学の頃は学ランを着ていた。指定や規定もなかったし、季節が変わっても過ごしやすかったからね。先輩が卒業した後は譲り受けたセーラー服を着ることも多かったし、卒業式もスカート姿での参加だったけど。それじゃ、高校はズボンとスカートのどっちにするか?

 答えは『両方を交互に着る』だった。

 今日はスカートを選んでみた。中学時代は学ランを好んでいたことに加えて一人称で色々と誤解を受けることもあったけれど、それが高校でスカートを選んだ理由じゃない。単純に、家族にスカート姿を可愛いと褒めてもらったからである。足元がすーすーして落ち着かないけど。スパッツ履いてても、まだ慣れないな。

 先輩が僕の肩に手を置く。

「かわいいね、真仲。スカートも似合ってるよ」

「……ども」

「ふふっ。真仲が照れるなんて珍しいよね」

 ぐりぐりと頭を撫でられて、もっと照れてしまう。

 僕の肩に手を置いた東風谷先輩が、姿見の前で横に並んだ。

 先輩の手が僕の胸元に伸びてきて、曲がっていたリボンを直してくれる。

 改めて鏡に視線を向ける。先輩は綺麗な人だった。メガネを掛けた先輩は、ぱっちりした目で僕を見つめている。背も高いし、体型も大人っぽい。化粧も上手になっていて、ますます年上のお姉様って感じになっていた。僕なんか、化粧めいくのメの字も分からないのに。

「先輩も、綺麗ですよ」

「ありがと。そう言ってもらえると、すごく嬉しい」

 はにかむ東風谷先輩が手の届かない人になっていく気がして、ちょっと寂しかった。

 東風谷先輩を見ていると、高校生になったばかりの僕がまだまだ子供でしかないように思えて恥ずかしくなってくる。直接見つめ合っているわけでもないのに頬が熱くなって、僕は鏡に映った先輩から目を逸らした。すると今度は、東風谷先輩本人と目が合った。

 メガネの奥に宿る光は優しく、僕の輪郭を捉えている。

「真仲。ちょっとだけ、私の我儘を聞いてもらっていいかな」

「は、はい。なんでしょう」

「……ぎゅーっとしてもいい?」

「はい?」

 僕が首を傾げながら頷くと同時に、甘い匂いが鼻腔をくすぐった。

 東風谷先輩に抱きしめられていると理解するまでに、やや時間が掛かった。

「珍しいですね。先輩が甘えてくるなんて」

「私だって、人恋しくなる日はあるんだよ。相手が好きな人だと、特に」

「…………そうっすか」

「ふふん。緊張してるんだろ、真仲」

「別に? 慣れてるんで。このくらいのスキンシップなら」

 嘘だけど。口から心臓が飛び出そうだ。

 体温が上がっている。それはもう、間違いなく。

 親しい女の子達と恋人関係を結んでいたけれど、爛れた青春を送っていたわけじゃない。むしろ、清廉潔白と言っていいだろう。僕達の関係はプラトニックだった。キスだってしたことがない。西条とはスキンシップも多かったけど、あれは姉妹仲の延長線にあったもので。

 東風谷先輩に抱きしめられたのが、初めての恋仲っぽい仕草だった。

 どくどくと心臓を流れる血液の音が、彼女に聞かれていないかと不安になる。

 先輩も先輩なりに思うところがあるらしく、言い訳を繰り出してきた。

「き、緊張を解そうと思ったんだよ。ハグを代表とするスキンシップにはヒーリング効果があることは医学的にも確認されていて、まぁ、手を握ってもらうだけでも良かったんだが――」

「分かってます、分かってますから」

 真面目代表の優等生、東風谷先輩だからこその言い訳だ。生徒会の挨拶に緊張しているから抱き着いてきた、なんてわけじゃないことは充分に理解している。

 ぎゅっと抱きしめあって心が癒されるのは、相手が大切な人だから。

 東風谷先輩は、同じ中学で最後の一年――と思っていたものを過ごした南蛇井達以上に僕への情を燃やしていた。高校に通いながらも僕のことを諦めずにいてくれたのだ。とっくに冷めていると思っていた恋心はまだ燃えていて、その熱意に僕の頬も熱くなる。先輩が羞恥心で自爆している間になんとか誤魔化さないと。

「東風谷先輩。耳まで真っ赤ですよ」

「う、うぅー。それは言わないでほしい……」

「いいじゃないですか。可愛いんだから」

「……そういうトコだぞ、真仲」

 何がと問い返す前にぽこぽこと叩かれた。先輩には珍しい照れ隠しだ。

 ふたりで連れ立って体育館へと向かう。徐々に他の生徒の姿が見られるようになった頃には上気していた身体も落ち着いている。階段を上り、緑色の防球ネットをくぐり抜けた先には沢山の生徒が座して待っていた。

 入学式の開始には僅かな余裕もあるけれど、これ以上先輩を僕の元に留めておくわけにもいかない。生徒会長として、彼女には準備すべき段取りがあるはずだから。

「先輩。頑張ってね」

「それじゃ、また後で」

 無責任に手を振った僕へ、東風谷先輩ははにかむような笑みを返してくれる。

 僕の高校生活が、ようやく始まろうとしていた。

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