アドベント

渚慶

第1話

目を覚ました時一番最初に映った景色は、真っ赤な夕焼けだった。


 目に映る景色は、額縁の様に象られた木々の真ん中を、まるでその景色を絵画を思わせるためにわざと設計されたように空白ができている。そこから、真っ赤な夕焼けと、1羽の鳥が飛んでいく様子が見えた。


 目の前が空と木に囲まれていて、背中と大の字に広げられた腕に感じる少しくすぐったい感触から、今自分がきっと森のような、草と木の生え尽くした場所で寝転んでいるのだろうと予想できる。

 

 起き上がって辺りを見回すと、案の定そこは森で、鬱蒼とした陰りを帯びている。今は空の明るさで何とか身の回りを確認できるが、それも時間の問題だ。


 時間は空を見る限り夕暮れ時で、もう少しで日が暮れて夜になるだろう。夜になるということはつまり、辺り1面真っ暗闇に包まれるということだ。この、街灯も何もかもがないような場所で暗闇の中過ごすことになるのだ。


 それはまずい。直感でそう思った。


 とりあえず木々の間を縫うように歩く。森の中は大量の木が乱立しているせいで影が落ちていてとても暗い。空の明かりを頼りに何とか歩いてみるが、暗闇に目が慣れず足元がおぼつく。木の根につまずいて、転びそうになるのを咄嗟に右横にあった木の幹に手を着いて阻止する。危なかった。


 ───そもそも、俺はなんでここにいる?


 ふとそんな疑問が頭をよぎる。気がついたらこんな森の中で寝転んでいた。訳が分からない。そもそも俺はなんなんだ?なぜここに来た?記憶を辿ってみても分からない。今まで何をしていたのか一切思い出すことが出来ない。考えれば考えるほど、手がかりの糸が絡まってあやふやになっていく。


 とりあえず、今は歩こうと決めた。こんな場所に長居できるわけが無い。熊にでも襲われてしまうかもしれない。それだけは勘弁して欲しい。当たり前に死にたくない。だから歩みを止めない。どうにかしてここから抜け出そう。右も左も分からないが、運が良ければ山小屋でも見つけられるかもしれない。


 そんな一縷の望みを頼りに、俺は森の中を歩いていく。空はさっきよりも暗くなっていて、薄紫に染まり始めていた。カラスの鳴き声が聞こえる。少しだけ、死ぬかもしれないと思った。日が完全に暮れでもしたらもうどうしようもなくなる。俺に野宿なんて知識もスキルもないし、熊に対抗できる程の体力も力も持ち合わせていない。


 冷や汗が喉を伝う。息がだんだん途切れてきて、空気が冷え始める。


 今度はフクロウが鳴き始めた。本格的に森が闇に包まれ始める。そんな絶望的な状況なのに、何故か嘲笑うようにから笑いしてしまう。


 ───本当に、馬鹿馬鹿しい。


 勘弁してくれよ。突然知らない森で目が覚めたと思ったら、もう少しで夜になろうとしてるし。どうしてもなぜここにいるのか思い出せないし。そのせいで手がかりなんて何も無いし。食料も何も無い1文無しだし。暗いし寒いし怖いしで足が震え始める。最悪だ。最高に最悪。それでも足は動き続ける。


 ───俺は一体、何をやっているんだ?


 こんなアホみたいな危機に瀕してるのに、どうにか思考を放棄してしまいたくなくて、試しにもう一度思考の形跡を辿ってみる。なぜ森の中に何も持たずに寝っ転がっていたのか。そもそもここはどこなのか。仲間はいないのか。そもそも、俺は。


 ───俺は、俺だ。でも何かがおかしい。


 違う。違和感なんてすぐに気づくべきだったんだ。森の中にいる謎を解き明かすよりも先にたどり着くべき謎だったはずだ。


 気づいてしまった。


 ───俺の、名前はなんだ?俺は、誰なんだ?


 か細く息を吸う音が、僅かに口から漏れる。なんで自分のことなのに思い出せないんだ。自分の名前も家の住所も住んでいた場所も星も思い出せない。絶望。この森の暗闇よりも深くて暗い絶望に、一瞬で足元を掬われそうになる。


 分からない。何もかもが分からない。でも、可能性がある。俺がこうなってしまった理由。


 それは簡単だ。記憶喪失だ。なにかの本の主人公も、記憶喪失になっていた気がする。ならつまり俺は、きっとこのよく分からない森の中で不慮の事故に合い、その時に何らかの形で頭をぶつけて記憶を失い、持ち物も全てどこかに落として、今ここにいるのだ。きっとそうだ。なら理屈が合う。俺は遭難者なのだ。森の中で遭難してしまったのだ。


 ああ、納得いった。まぁだからといって。


 ───最悪な状況なのに、変わりは無いけどな。


草を踏みしめる。


 そうだ。最悪だ。遭難者で記憶喪失になって、本当に最悪だ。辺り1面真っ暗な森の中食料も何もかもなくて、最悪だ。


 そして何より、今1番最悪なのが。


「……ほんと、冗談じゃねぇよな」


 身動きが取れなくなる。足が震えて腰が抜けそうになる。空は完全に夜の帳が落ちていて、満点の星空を拝むことができる。フクロウは身を潜め始め、ザワザワと、風が草木を撫で歩く。


 怖い。本当に怖い。息ができない。喉に何かが詰まったように声が出ない。情けない。こんな所で、死んでたまるか。俺は恐怖で目を見開く。


 そう、今、目の前に立ちはだかる。


 熊、のような、なにか。


 そいつが、俺を見つめている。


 ───違う。熊じゃない。


 だって熊は、足が6本も無いし、耳はこんなにとんがっていないし、もっと毛むくじゃらでふさふさしてて、耳だって丸い。はずだ。


 でも今俺の目の前にいるのは、足が6本。顔は暗くてよく見えないが、耳がとんがっていて頭は丸い。少し人の顔の形に似ている気がする。肌は毛でおおわれていなくて、俺の身長の数倍でかい。木と並ぶくらいの大きさ。


 そいつの顔の、口から何かが垂れる。それが地面に落ちて、草にべとりと張り付いた瞬間、煙が上がり、草が黒く焦げ始めた。


 そのせいで、化け物の口から垂れたものがそいつの唾液だと認識するのに数秒の誤差が生じた。驚きから脳が揺れるようにフリーズする。声を荒らげて逃げたくなる衝動を抑えて、恐る恐る、視線を地面から魔物の顔へと戻した。


 その時ちょうど、月明かりが森の木の間を掻き分けて、化け物の頭上に差し込む。


 つい、息を呑んだ。


 にたりとした、耳の辺りまで裂けた大きな口。その口は笑うように吊り上げられていて、僅かに除く歯は鋭く、目は赤黒く血走っているように見えた。月光のせいでその目はギラギラとこちらを見定めるように輝いていて、そいつは大きく息を吐く。


 流れ出る熱い吐息が、少し肌にかかった。


 瞬間、俺は踵を返し、まっすぐ森の中を駆け抜ける。まずいまずいまずい。こいつ絶対、おれのこと食おうとしてる。食われる。死ぬ。死にたくない、絶対に。死ぬのだけは嫌だ。だから今は走るしかない。逃げるしかない。殺される。怖い。ふざけんなよ、マジで。クソが。


 腕をこれでもかと言うくらい振り続け、息が上がるのを無視して暗闇を無我夢中で走り去る。どこに逃げようかなんて、考えている暇はなかった。とりあえず走る。走り続ける。


 耳をすませば、僅かにゆったりとした足音が地響きのように聞こえた。地面が揺れ動く。さっきよりも歩幅を広げ、風を切って闇を掻き分ける。あいつから逃げなければいけない。なんとかして撒かなければ。俺は咄嗟に進路を変え、右に曲がる。木の根に躓かないように飛び越えるように走り抜け、気づけば森を抜けていた。


 森を抜けても走り続けていたせいで足が急に止まることはなく、速度を落とせないまま俺は石につまずいて、派手に転倒した。


 肩と背中を強く地面に打ち付けられ、勢いよく何回か転がって、何かが体に当たると同時にその場に止まる。


 身体中の痛みに耐えながら起き上がり、森があった場所に振り返る。あいつが追ってきていないかどうかだけが不安だったが、幸いそれは杞憂だったようで、俺は無事、逃げ切ることが出来た。


 そういえば何かに体を打ち付けたなと思って右を向けば、それは木でできた柵だった。


 未だに痛みが治まらない左肩を手で押さえながらゆっくりと立てば、目の前には、小さな小屋が脆い明かりを灯し乱立していた。


 そして、目の前には、人が立っている。


「お兄ちゃん、だぁれ?」


 俺は、泣きそうになった。


 


 

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