第49話 焦り

冬の冷たい風が城の回廊を吹き抜ける。石造りの壁に反響する足音が、静寂の中に孤独を響かせる。クルメルクは厨房の奥にある小部屋で、ひとり机に向かっていた。

机の上には、透明な液体が入った一升瓶が一本。ラベルには異世界の文字で「獺祭」と記されている。

その瓶を見つめるクルメルクの目は、感動と焦燥の入り混じった複雑な色をしていた。


——初めて口にしたときの衝撃は忘れられない。

まるで雪解け水のような清らかさ。口に含んだ瞬間、甘みがふわりと広がり、喉を通るときにはすっと消える。余韻だけが、静かに心に残る。

だが、今の彼を支配しているのは、その感動ではない。


——再現しなければならない。

それも、異世界の食材も技術もないこの世界で。

賢者・八重子から聞いた話では、日本酒は米と水からできているという。米——それは八重子から少量分けてもらい、口にしたことがある。白く、艶やかで、噛むと甘みが広がる。だが、そんな植物がこの世界に存在しただろうか?

クルメルクは記憶を辿る。料理修行で訪れた数々の土地。山間の村、海沿いの集落、砂漠のオアシス——その中で、隣国との境界にある小さな村で見た植物を思い出す。

——アホス。

白く、細長く、粒が集まったその植物は、村人たちの主食だった。水に浸してふやかし、茹でて食べる。米とは形が違うが、味は近い。あのときの記憶が蘇る。

すぐさま取り寄せたアホスを手に取り、クルメルクは一粒かじってみる。

硬い。そのままでは食べられない。だが、芯の部分に甘みがある。外側よりも、中心のほうが濃厚だ。

——芯だけを使えば、近づけるかもしれない。

贅沢な使い方だ。だが、異世界の酒を再現するのだ。ここで妥協しては意味がない。

クルメルクは、八重子だけでなく、勇者・翔太からも製造法の断片を聞いていた。麹菌などは存在しない。だが、果実酒の技術を応用すれば、ある程度の発酵は可能かもしれない。


問題は技術ではない。

——誰にも飲ませたくない。

この酒を他人に渡せば、自分の分が減る。それが嫌で、誰にも協力を仰げず、すべてを一人で抱え込んでしまった。


そんなある日、玉座の間に呼び出された。

重厚な扉を開けると、ギルシア王とヘインズ聖王が並んで座っていた。冬の陽光がステンドグラスを通して差し込み、二人の背後に神々しい光を描いている。

「クルメルクよ、そなたに任せている日本酒の研究はどうなっている?」

ギルシア王の声は穏やかだったが、期待が滲んでいた。

「は、順調とはいかず……もうしばらくお時間を頂けないでしょうか」

「ふむ、異世界の酒だ。難しいのはわかる」

ヘインズ聖王が口を開く。

「だがな、ギルシアと話をして、その酒を生誕祭で皆に振舞おうと考えておるのだ」

——ちょっと待ったぁ!

心の中で叫ぶクルメルク。顔には出さないが、内心は大混乱だった。

異世界の技術を再現し、異世界の食材を代替し、しかも二か月後の生誕祭に間に合わせろと?

「どうじゃ?そなたなら出来るのではないか?」

ヘインズ聖王が畳みかける。額から汗が落ちる。冬の寒さなど関係ない。プレッシャーが体温を上げていた。

クルメルクは決意する。今しかない。

「王よ、失礼を承知で申し上げます」

「なんじゃ?」

「研究に一本では足りないのです。出来ればもう数本……いや、もう一本だけでも追加で頂けないでしょうか」

床に頭をこすりつけるように懇願する。沈黙。ギルシア王とヘインズ聖王が顔を見合わせ、何やら相談を始める。


「ヘインズ、クルメルクが困っておる。お前の収納から出してやったらどうだ」

「何を言っているギルシアよ。言い出したのはおぬしではないか。おぬしの収納から出すべきではないか」

言い争いが始まる。クルメルクは頭を下げたまま、じっと待つ。数分が過ぎた。

「これを持っていけ」

目の前に置かれたのは、二本の一升瓶。恐る恐る顔を上げると、ものすごく嫌そうな顔をした二人がいた。

「絶対につくるのじゃぞ」

「ははぁ」

もはや失敗は許されない。クルメルクは心に誓い、玉座の間を後にする。背中に聞こえる言い争いは、聞かなかったことにした。

「わしの今度の楽しみが……」

「馬鹿を言うな。わしだって楽しみにとっておいたのだぞ」

アルバートが仲裁に入る。

「ギルシア王、ヘインズ聖王、今度勇者様にもっと買ってもらいましょう」

その言葉に、二人は少しだけ顔をほころばせた。


——クルメルクの背中は重かった。

だが、その重さの中に、ほんの少しだけ誇りが混じっていた。

異世界の味を、この世界に再現する。

それは料理人としての夢であり、挑戦であり、誇りだった。

そして、誰よりも美味しく作って、誰よりも先に味わってやる——

そんな密かな野心を胸に、クルメルクは厨房へと戻っていった。

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